ディナレの奇蹟、彼女の記憶
ーこのマルデの戦いで、自分は身を引こう。
と、歴戦のサイ族の戦士、ナウヴェルは決心した。
別に身体が衰えたわけじゃない。まだまだ自慢の大分銅は難なく振り回すことができるし、衰えた部分といえば……うん。目と耳くらいなものか。他の奴らの呼ぶ声が一段と聞こえづらくなってきたように感じる。
身の丈はゆうに人間の倍近くを誇る。それだけに敵であるオコニドからも真っ先に標的にされてきた。
ついたあだ名が「戦車」。そう。まずは自分たちが先陣を切り、この両腕に縛り付けられた鎖鉄球を振り回して道を切り開くのだ。
全身に矢を浴びながら、全力で走り切った末に息絶えた同胞もたくさん見てきた。だが人間はそんな姿を見てただ悪態をつくだけ。「けっ、くたばるのが早すぎるんだよ」。
だが自分はその姿を横目で見ながら、ぐっと悔しさを胸の奥底で押し殺していた。
静かなる戦車ナウヴェル。
いつしか一人生き残った自分につけられた名前だ。
与えられた任務に首を振ることもなく、ただひとり果敢に、真っ直ぐに道を作り出す……そして誰とも交わることもなく、次に呼ばれるまで姿を現さない。
いつしか同胞は一人また一人と姿を消し、残された戦士は自分一人だけに。だがそこには悲しみもなにも存在しなかった。自分がもはや生きているのか死んでいるのかすらわかってはいない。たしか我々サイ族は獣人の中でも長命種になると、どこかで聞いた思い出がうっすらと存在する。
百歳? それとも三百歳……?それ以上かそれ以下か。誰もそれを探し、答えてはくれなかった。
何年過ぎただろう。手慰みで始めていた木彫りも今や何千体。けど飽きる感覚さえ自分には感じられなかった。
すべては……そう、自分のただ一人信じる聖女、ディナレの姿を、記憶の中で手探りしてひたすら彫っていたものだ。
……………………
………………
……
遥か昔の記憶。それは遠いリオネングの街角で一人花を売っていた彼女。
「うわあ、とっても大きな身体ですね! わたし初めて見ました!」
なぜ、その花を買おうとしたのだか分からない。
故郷の先祖の墓に備えたかったから、手っ取り早く近くにある花を買いたかった一心からだろうか。
薄茶色の毛並みに、その強い意志のごとくスッと通った鼻筋。
それが女性であるとは微塵も知らなかった。
緊張して……いや、自分が無口であることもあったからだろうか、どうやってその言葉に返していいものか分からなかった。
「ご、ごめんなさい。気に障っちゃいましたか?」
もし自分に人間と同じ肌が存在するとしたら、燃え盛る焚火の炎のように真っ赤になっていたに違いない。
「い、いや、大丈夫だ、そう言われてるの、慣れてるし」
上着に入っていた昨日の稼ぎである銅貨をありったけ彼女に渡そうとした。だが岩のようなこの指先が災いして、あえなく路上にまき散らしてしまったのだ。
小さな身体で懸命に拾い集める彼女。長い毛に包まれた尻尾を振り乱して。
そんな健気な姿を見て、自分はただひとこと、ごめんと謝ることしかできなかった。
自分は残された路銀全てを彼女に渡した。お詫びでもないが、その花を全部売ってくれ、と。
「い、いいんですか……? その、これ全部売れれば今日のお仕事、とても楽になりますけれど、でも……」
彼女の質素なこげ茶色の長いスカートの裾は擦り切れ、短くなっていた。きっと花が売れずに苦労していたんだなと思って。
「いい、いいんだ……お前のその服代とかにあててくれればもっと、うれしい」
ぎゅっと、小さく暖かな彼女の手のひらが、俺の大きな手を包んでくれた。
「ありがとうございます…… お優しいんですね」
緊張して自分の名前を話すことくらいしかできなかった。そして、彼女も。
「ディナレっていいます。あなたと同じ獣人ですね」
生まれて初めて感じた、まるで心臓が口から飛び出そうなその思い。ほのかに熱いその感情。
自分は、ずっとディナレをこの胸にとどめておこうと誓ったのだ。