第9話 明菜の過去
悶々とした週末が明けた月曜日。梅雨の谷間なのか久しぶりに晴天に恵まれていたが――夏輝の心は全く晴れていなかった。むしろ雨が降っているような心境だ。
先週末の明菜とあの男との会話がどうしても頭に引っかかっている。
これからどういう顔をして彼女に会えばいいのだろう。
幸いというか、すでに一度席替えが実施されているため、夏輝と明菜の席は隣同士というわけではない。
ただ、おそらく放課後に同好会で会う。
無論来なければならないという事はないし、あるいは彼女が来ない可能性もあるが、だとしても放っておいていい理由にはならない。
土曜日に一度だけ『大丈夫?』とだけメッセージも送ったが、既読にはなっても返事は来なかった。
あるいは踏み込むべき問題ではないのかもしれないが、そう簡単に割り切れるほど、夏輝は大人ではない。
どうしたものかと思いながら校門をくぐる。
時間は八時十五分前。校庭では朝練に励む運動部の生徒がいるが、校舎内は静寂に包まれている。
遠方ではあるが、電車のタイミングの都合で、夏輝の登校時間は部活の朝練がない生徒の中では、最も早い一人だ。
当然誰もいない教室――と思ったら、予想外の人間がいた。
「賢太。お前今日は早いな」
「おぅ、夏輝。早いっていうか……お前が早いって言ったら巻き込まれたというか」
「巻き込まれた?」
言ってから、背後に人の気配を感じて振り返った。
立っていたのは、ボブカットの女子生徒。リボンの色から同学年と分かる。
背は夏輝よりやや低いが、女子の中では高いと言えるだろう。少しきつめの印象はあるが、美人と言っていい顔立ちだ。
「えっと……」
「秋名夏輝。ちょっと顔貸して。いいよね、賢ちゃん」
「おぅ。お手柔らかにな」
「ちょ、どういうこ……!?」
いきなりネクタイを引っ張られる。
そのまま、まだ人の気配のない四階と屋上の間の踊り場まで連れ出された。
「ちょ、いきなりなんなんだ」
「私は
「明菜さんの?」
ということは、先日の男のことを知ってる可能性がある、という事か。
「週末、彼女がすごい落ち込んでいたの。で、最後にいたのがあんただって聞いたから。あんた、いったい何をしたの!?」
「ちょ、ちょっとまて。多分それ、誤解だ」
「言い訳なら聞かない。素直に白状しなさい!」
多分この二条香澄という少女は、明菜から詳しい事情は聞いていないのだろう。
ただ、おそらく普段から会うくらいには近しい存在で、それゆえに明菜が落ち込んでいて、最後に会っていたという自分が何かしたのだと判断したというところか。
先のやり取りから察するに、賢太と知り合いらしいから、賢太も彼女の推測を聞いてとりあえず協力した、というところだろう。
「言うから、事情を聞いてくれ。別に俺は、彼女に何もしていない」
激昂気味の彼女を落ち着かせるのには少し時間がかかったが、それでも他の生徒が登校してくるよりも前に、一通りの事情を何とか説明できた。
と言っても、夏輝自身よくわかっていない情報しかないのだが。
「じゃあ……あいつが現れたからってこと。……ごめんなさいっ、秋名君。私、勘違いしてた」
「うん、まあそうじゃないかと思ったけど。誤解が解けて良かったよ。ただ、それならこっちから聞きたいんだけど……あの男のこと、君は知ってるの?」
それに対する返答は、渋面、というのがまさにぴったりくる表情だった。
「知ってるけど、あの子が言わないなら私が言う事じゃないわ」
にべもなく突っぱねられる。
本人に聞けという事なのだろう。
「わかった。ところで、君と賢太ってどういう?」
「そっち!? まあ賢ちゃんってあまり言わないか。付き合ってるのよ、私たち」
「ああ……そういえば彼女がいるとは聞いてたけど」
「とにかく、あの子を泣かせたら許さないからね」
泣かせるも何も、と思うが今言うと多分逆切れされそうなので口をつぐんだ。
とりあえず誤解も解けたので無事解放された夏輝は、賢太がいる教室に戻る。
「よぉ。無事だったか」
「人を売るなよ……まあ大丈夫だったけど。すげぇな、お前の彼女」
「おぅ。いい女だろ」
「お似合いだよ、お前ら」
特に人の話を聞かずに暴走しそうなところが、とは声にはしなかった。
そういう場面に遭遇したことはないが、賢太も夏輝や友人が理不尽な目にあっていたら、本気で怒るタイプだ。ただ、ちょっと考えなしに突っ走るところもある。
ただ、賢太は空手道場にも通っていて、黒帯だと聞いている。
なまじ実力が伴っているだけに怖いが、本人もそこは
そうしている間に登校してくる生徒も増えてくる。
ほどなく、明菜も入ってくるが――顔を合わせてはくれなかった。
予想はしていたので、メモ帳を一枚千切ると短く走り書きをする。
そして明菜の席のそばを通り、さりげなくそれを置いてきた。
内容は放課後に準備室に来てほしい、というものだ。
これで来るならよし、来ないならまた次の手を考えるしかない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
果たして彼女が来るかどうかは――夏輝にとっても賭けだったが、どうやらそれには勝利したらしい。
夏輝が準備室に入って十分後に、明菜も現れた。
「えっと……金曜振り?」
「それも妙な挨拶だね。にしても明菜さん、いい友達がいるようで何より。だけどちゃんと説明はしてほしかったな」
「何のこと?」
首を傾げる明菜に、今朝のことをかいつまんで説明する。
「……ごめんっ、みーちゃんが暴走して。ホントにごめんなさい」
「みー、ちゃん?」
一瞬誰のことかわからなかった。おそらくは二条香澄のことだろうが、その呼び方はどこから来たのか。
「まあ実害はなかったので大丈夫。ちょっと驚いたけどね。でも、友達想いのいい人だけど……うん、暴走しがちなのは昔から?」
「そうね……みーちゃん、いつも早とちりして突っ走ってた」
「……気になるからついでに聞くんだけど、なんでみーちゃん?」
「あの子の名前の香澄、の最後の文字を伸ばしてだよ」
確かにそういうあだ名もありか。やや独創性に溢れている気はするが。
「それはともかく……言いたくないならいいけど……」
どう切り出したものか迷う。
「あの金曜日の男のことよね。うん、夏輝君は二度も巻き込んでるから、ちゃんと説明すべきだね」
明菜から切り出してくれた。
それにしても二度?
「私が中学の頃付き合ってた元彼氏。それがあの男――
気になっている女の子の過去の男の話を聞くのが、これほど
「ちなみにあの人、私たちの一つ年上ね。で、同じ高校に来いって言われてたんだけど……その、成績は大分差があってね。結局同じ学校はさすがにないな、ということで私はこの学校に入ったの。それでも付き合っていける、と思ってたんだけど……あの男、同じ高校の女子と浮気してたの。で、それに気付いて別れたのが……ちょうど、去年の今頃」
そういえば、去年入学直後に二桁に届くほど告白を受けたといわれる明菜だが、そのすべてを断ったと聞いたことがある。すでに付き合ってる人がいるから、と言っていたらしいが、少なくともその当時は本当にいたという事か。
「なんだけど……三月に突然現れてね。夏輝君が音楽鳴らして助けてくれた時だよ。よりを戻そうって。私としては冗談じゃないって断ったら迫ってきたの。怖かった……。だからあの時助けてくれたの、本当に感謝してるのよ」
「偶然とはいえ……うん、それは良かったよ」
「多分だけど、その同じ高校の彼女にも愛想つかされたのかな、と。当時私も若かったわー。ちょっと見た目かっこいいと思って付き合ったんだから」
「女子高生が『若かったわ』はないだろ……」
「だってホントにそう思うし。今客観的に考えたら、ホントにないない」
そういう彼女からは、確かにあの男への未練などは全く感じない。
それだけで、少しだけ気が楽になった気がした。
(俺は……明菜に惹かれているんだろうな)
同じクラスになって、同じ同好会に所属して二カ月余り。
さすがにいい加減自覚する。
元々容姿に関しては文句のつけようがない。
そして、一緒にいて、明菜はとても魅力的な女性だと分かっている。
一緒にいて楽しいし、嬉しくなる。
ただ、明菜にとっての夏輝はどうなのかは、全く分からない。
実際、クラスでも明菜は人気者だし、男子相手でも夏輝に接するのとほとんど変わらないように接していると思える。
だから、おそらく多くの男友達の一人、というくらいだろう。
ではこの関係を進めるつもりがあるか、と言えば――正直、ない。
正しくは、今のこの関係を壊すのが怖い。
まだ出会って三カ月も経ってない。
高校生活がそれほど長いとは言えなくても、まだ急ぐ必要はないし――別にこのままでも心地よい。
だからしばらくは、このままでいいだろう。
「ねえ、ところで」
突然明菜の声のトーンが一段落ちて、思わず顔を上げる。
「私が恥ずかしい過去話したんだから、夏輝君も話すべき」
「い、いや、そう言われても……俺には特にないよ。別に女の子と付き合ったこともないし」
「そうなの? 夏輝君、モテそうだけどなぁ。いっつもクラスで一歩引いて振舞ってるけど、もっと前に出たら人気者になりそうだし」
思わず言葉に詰まる。
どうしてそう――正確な分析をしてくるのか。
「いや、俺みたいな陰キャ捕まえて何を言ってるんだか」
「そうかなぁ」
なおも首を傾げる明菜に、夏輝はとりあえず次の観測予定の話へと話題を変更するのだった。