13話 正しくない使用法
ヘザーは部屋の外に出て、左右へ長く続く廊下を見やる。
この離宮の中の、ほとんどの人が眠ってしまったのか、物音ひとつしない。
もしヘザーの耳が何の音も拾わなければ、いよいよ医師と騎士を呼びに王城まで走ろう。
そう思って呼吸を止め、聴覚に意識を集中する。
耳殻に手のひらを添え、少しの音も逃さぬよう、全方向へゆっくりと身をひねり、耳をそばだてた。
『ヒヒーンッ!』
『もう一人はまだか?』
かなり遠くだが、馬のいななきと人の声がした。
間違いない。
もう一人とはヘザーのことを指し、この声の持ち主がマノンを連れ去った誘拐犯だ。
ヘザーは声がした方へ走り出す。
どうやら使用人たちが出入りする、勝手口のようなものがあるらしい。
ヘザーは階段を下るのももどかしく、手すりを乗り越えて一階へ飛び降りた。
(体力の試験は、こういう場面を想定されていたの?)
マノンが見つかったことで、ヘザーの頭はやや冷静さを取り戻していた。
勝手口から飛び出す前に、その辺りにあったものを右手で無造作につかみ取る。
先ほど銀の盆がいい働きをしてくれたので、次も投擲してみようと思ったからだった。
ヘザーが駆け付けた先には、一台の薄汚れた幌馬車があり、その横に二人の男が立っている。
ヘザーを見てどちらもギョッとし、一人は御者台へ、一人は荷台へ縋りつくように乗り込んだ。
慌てて馬に鞭うつ誘拐犯を取り逃がさないよう、ヘザーは右手に握りしめていたものを車輪めがけてぶん投げた。
銀の盆よりもブンブンと激しく回転音をたてた鉄鍋は、ガキンとぶつかった車輪枠をいびつに凹ませ、木製の荷台にめり込んで止まる。
だが、それだけで出発を完全に邪魔することは出来ず、丸くない車輪のせいでガタゴトと上下に大きく揺れながら、幌馬車は走り出してしまった。
ここから届くかは分からないが、ヘザーはウルバーノの耳の良さに賭ける。
「ウルバーノ! 威嚇して!」
ヘザーの腹からの大声に、ウルバーノは応えてくれた。
――ゥオオオオオオオオオオオンッ!!!
まるで地響きのように辺りを震わせるウルバーノの遠吠えが、ヘザーのもとまで届く。
人間はビックリするだけだが、動物には効果てきめんだ。
幌馬車を引いていた馬は畏縮してしまい、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
申し訳ないが、この辺り一帯の動物は、全てそうなってしまっただろう。
フェンリルに恐怖心を抱かない動物など、愚かにも人間くらいのものなのだ。
好機を逃さず、ヘザーは遠ざかっていた馬車に走り寄り、荷台に刺さった鉄鍋をメリメリと引き抜く。
そして黒光りするそれを突きつけ――。
「これを頭に叩きつけられたくなかったら、マノンさまを返しなさい」
黄金色の瞳をギラつかせ、誘拐犯に凄んだのだった。
◇◆◇
ウルバーノの威嚇は、眠っていた人たちをも起こしたようだった。
すぐさま異変を察知して、騎士団長が兵を率いて離宮に来たときには、荷台に転がされていた麻袋の中のマノンをヘザーが救出していた。
飛び起きたアルフォンソも、すぐにウルバーノの背に跨り、匂いを頼りにヘザーのもとへやってくる。
そして起きた事件のあらましをヘザーから聞くと、直ちに国王へ報告をするよう騎士団長へ命じた。
他国の王女を誘拐する大罪を犯した愚か者を捕えるために、これから捜査網が敷かれるのだろう。
現場となった離宮は一時的に封鎖され、ヘザーたちは王城の中の客室へと居を移した。
騒然とした夜になったが、ヘザーとマノンとカサンドラとコルネリアは、心を落ち着けるために身を寄せ合ってひとつのベッドで寝た。
まるで予定していたお泊り会のように。
◇◆◇
翌日、四人は健康に問題がないと確認された上で、騎士団長からの事情聴取を受けた。
マノンたちは部屋に三人でいたところ急に花の香りがしてきて、それぞれ眠気を覚え、その場で倒れたそうだ。
この花の香りが、眠りの香だと気がついたコルネリアが、必死に睡魔と戦っていると、マノンの部屋に見知らぬ男たちが現れる。
それに驚いて悲鳴を上げたが、侵入者たちはお構いなく、眠るマノンを麻袋に入れると立ち去った。
その後にヘザーが来て、コルネリアは知っていることを伝えると、気を失うように寝てしまった。
コルネリアがこの香に覚えがあったのは、睡眠の質を上げるために何度か試した経験があり、そのせいでコルネリアにだけ僅かに耐性がついていたのではないかと判断された。
実際、ディエゴ公爵家を家宅捜査した際、コルネリアの部屋から使いかけの同じ香が発見されたようだ。
ディエゴ公爵夫人いわく、睡眠の質が肌の質を決めるのだと、長い講釈を添えられたらしい。
それらを考慮した調査の結果、離宮の通風孔から大量の眠りの香を焚いた形跡が見つかり、犯人は離宮の構造に詳しく、なおかつ高価な香を惜しげもなく使用できる財力のある貴族だろうと当たりを付けられた。
捕まえられた実行犯たちは、金で雇われただけのごろつきで、黒幕の正体を知らされていない。
攫ったマノンを引き渡す予定だった場所についても、調べたが何の証拠も残されていなかった。
◇◆◇
「今はちょっと、暗礁に乗り上げた感じかな」
ヘザーのもとへアルフォンソが訪ねてきて、捜査の進捗を教えてくれる。
あの事件がなければ、アルフォンソの婚約者としてヘザーが決定したと告知され、大々的にお披露目があるはずだった。
しかし、他国の王女の誘拐未遂があったとなれば、それどころではない。
ガティ皇国やオルコット王国への面目もあって、メンブラード王国は総力をあげて犯人を突き止めようとしていた。
「ヘザーを危険な目に合わせてしまって、本当に申し訳ないと思っている。オルコット王国の国王陛下にも、父上と僕から丁重にお詫びさせてもらったよ」
「体力の試験が役に立ちました。ヒールでも走れると分かっていたから出来たんです」
「鉄鍋も投げたんでしょ? これからは選定試験に、きっと投擲も出題されるよ」
ヘザーが噴き出して笑うと、アルフォンソの表情も和らいだ。
最近は捜査のせいで疲れ気味のアルフォンソを、ヘザーは心配している。
本当は今も、仮眠をして欲しいくらいに、アルフォンソの目の下の隈は濃い。
だがアルフォンソ本人に、ヘザーとの逢瀬が癒しだと言われ、こうして並んで座っているのだ。
「それにしても、ウルバーノの威嚇はすごかった。しばらく鼓膜がビリビリしていたよ」
「申し訳ありません。咄嗟のことで、弊害について考えが至りませんでした」
「騎士団の馬はさすがに腰を抜かさなかったけど、母上の飼っている猫は、父上のベッドの中に逃げ込んだらしいよ。いつもはふてぶてしい顔をしているのに、案外怖がりだったんだな」
「フェンリルの咆哮を怖がらないのは、人間だけだと聞きます。それだけ野生の勘が、鈍っているのかもしれませんね」
「今回はヘザーの知識と体質に助けられた部分が大きいよね。あの花の香りを嗅いで、全然眠くなかったんでしょう?」
「違和感はありましたが、体調の変化までは感じませんでした」
「オーガの血はすごいなあ。誘拐犯まで捕まえてしまうなんて、僕のヘザーは、たまらなくカッコいいよ」
頬を染めたアルフォンソに手を握られて、ヘザーまで顔が赤くなる。
15歳と16歳の初々しい恋人同士を、足元で伏せをしたウルバーノが見上げている。
ゆらゆら揺れる尻尾からは、歓びの感情が伝わってきた。
「早く婚約を発表したいね」
照れたアルフォンソが呟いた台詞に、ヘザーもこくりと頷き返す。
事件解決のために、アルフォンソは毎日あちこちを駆け回っている。
出来ることならヘザーもその手助けがしたいが、王太子妃になった訳でもないのに、あまり他国に干渉し過ぎるのもいけない。
悩む二人に次の日、思いがけないところから事件の突破口となる情報がもたらされるのだった。