22話 恋と愛の違いとは
ベンジャミンから許可をもぎ取ったクラーラは、城下町にある孤児院を順番に訪問していた。
どこの孤児院も揃って、この不況の折に慌ただしく建てられたものばかりだ。
新しい孤児院の中は、にぎやかな子どもたちの声であふれている。
「クラーラ殿下、ようこそおいでくださいました」
今日の訪問先は、大きな教会に併設された孤児院だった。
規模としては一番で、三十人ほどの子どもたちの世話をしているそうだ。
普段の生活ぶりを見せてもらい、さまざまな取り組みに感心し、クラーラの経験から改善できる点を指摘したりした。
そして最後に、貯まり続ける一方で使われてこなかったクラーラの私財から、子どもたちのために寄付をする。
「どうかこれからも、子どもたちをよろしくお願いします」
「温かいご支援を、ありがとうございます。子どもたちが大きくなるころには、町が明るくなっているといいのですが……」
それぞれの孤児院の年長の子が成人するまで、あと数年といったところだ。
それまでに出来るだけ、子どもたちへ文字の読み書きを教えて欲しいと、クラーラはお願いした。
エアハルトは配達業の範囲を、いずれ城下町の外へも拡大すると言っていた。
ということは、これからも継続的に雇用は発生するのだ。
(手紙や荷物を配達するならば、番地図に書かれた字を読めるのが最低条件になるわ。孤児院の子どもたちが他の仕事に就くにしても、学んでいて損はない)
この日の最後に、クラーラはかつての家だった修道院へと向かった。
ドリスからは、変わりなく過ごしていると手紙をもらっていたが、どうしても自分の眼でも確かめたかった。
(それに、このお礼も伝えたい)
クラーラは、抱えていた四角い荷物をそっと撫でる。
膝の上に載るサイズのそれは、修繕されたクラーラの肖像画だった。
もう燃えてしまった宝物の犬の縫いぐるみを腕に抱え、ちょっと伏目がちで唇を尖らせたクラーラが、瑞々しいタッチで描かれていた。
(この絵の枠の外に、幼い私の機嫌をとるために、お母さまとお兄さまがいたんだ。そう思うと、この絵はなんて温かいんだろう)
やがてクラーラを乗せた馬車は、城下町の外れの孤児院へと到着する。
庭で遊んでいた子どもたちが、ぱっと振り返ると駆けよって来た。
「クラーラお姉ちゃん!」
「おかえりなさい!」
「僕、院長先生に知らせてくる!」
三々五々で遊んでいた子どもたちだったが、すぐにクラーラを囲んで輪ができる。
懐かしい顔に、クラーラも頬が緩んだ。
「ただいま、みんな元気にしてた? お約束は守れた?」
「元気だよ!」
「私も!」
「お約束はね、ちょっと守れなかった……!」
それぞれの返事を聞いていると、建物からドリスが出てくる。
別れたときと同じ、背筋の伸びた凛とした姿に、クラーラの眼が熱くなる。
溢れそうな涙をこらえているクラーラへ、ドリスが柔和な声をかけた。
「クラーラ、元気そうね」
「院長先生も、お変わりなく」
「私の心配はしなくていいと、手紙でも伝えたでしょう? 子どもたちがよくお手伝いをしてくれるのよ」
ふふっと笑うドリスを見て、クラーラは安心した。
これまでクラーラを護るために、随分と長い間ドリスは気を張っていたはずだ。
それが緩んで、一気に疲労が肉体を襲うのではないかと、気がかりだった。
「直接、ありがとうを言いたかったんです」
クラーラは腕に抱えていた、四角い包みを持ち上げる。
その大きさを見て、ドリスは思い当たったようだ。
「お茶でも飲みながら、懐かしい話をしましょうか」
そう誘われ、クラーラはドリスと共に修道院の中へと入る。
久しぶりにドリスからお茶を淹れてもらい、クラーラはホッと心を落ち着かせた。
包みから出された肖像画を感慨深げに見ながら、ドリスはぽつりぽつりと思い出すままに、当時のことを教えてくれる。
「私に絵心があると知って、クラーラの肖像画を描いて欲しいと依頼してきたのはコリーンさまなの。国王陛下は、まだ年齢的に早いんじゃないかと、気を揉んでらしたわ」
「実際、3歳の私は、大人しくなかったんですよね?」
上目遣いにクラーラが尋ねると、ドリスが噴き出した。
「確かに、クラーラは元気いっぱいの女の子だったわね。あちこちへと興味が移って、コリーンさまとベンジャミンさまが、代わる代わる犬の縫いぐるみで気を引いていたわ」
ドリスの細い指が、絵の上をなぞる。
黒い犬の縫いぐるみは、クラーラの背丈の半分以上はある大きさだ。
それをしっかりと抱き締めている姿は、とても愛らしかった。
「絵の中のクラーラが、犬の縫いぐるみを抱っこしているのはね、彼を寝かしつけようとしているからなのよ」
「縫いぐるみを、寝かしつけようと?」
「私がクラーラにこっそり教えたの。この縫いぐるみが、眠たいと言っているわって。そうしたらクラーラは、私たちへ静かにするように言って、縫いぐるみの背をとんとん叩き出したのよ」
その光景を思い出したのだろう。
ドリスが柔らかい瞳で宙を眺める。
「なんて優しい子だろうと感心したわ。コリーンさまを真似て、遠い国の子守歌まで唄い出したとき、私は我に返って慌ててスケッチをしたのよ」
絵の中のクラーラに、ドリスが視線を戻す。
つられて、クラーラも描かれている幼い己の姿を見た。
伏せられている目は犬の縫いぐるみを見ているから、尖っている唇は歌を唄っているからだった。
「少しの間じっとして欲しくて私がついた嘘を、クラーラは信じた。その純真さに魂を揺さぶられるままに、私はこの絵を描いたの」
「嘘だなんて……」
「いいえ、あれは大人の汚い嘘だった。髪を短くしただけで一端のシスターを気取っていた私は、クラーラの無垢な心にすっかり打ちのめされたわ。あの日――私はクラーラの中に、神の存在を見たのよ」
「そんな、大袈裟です!」
両手をふって否定するクラーラに、ドリスが肩を震わせて笑った。
「おかしな運命よね。その後クラーラを預かって、その命を護る盾になるなんて、思ってもいなかったわ。それもこんなに長い間……。私は神のそばにいられて、幸せだった」
「院長先生……」
ドリスの中で、クラーラがそんな崇高な役をしていたなんて、知らなかった。
「この肖像画が出来上がると、コリーンさまも国王陛下も、それはそれは喜んでくれたわ。私も満足のいく仕上がりになって嬉しかったし、次は10歳あたりで描きましょうという話も出ていたのよ」
「10歳……それは」
「クラーラが、修道院へやってきた齢ね。コリーンさまが急逝してそれどころではなくなったし、国王陛下は私に繋がりかねないこの肖像画を、どこかへ隠したと聞いたわ」
本来ならば、ドリスによって描かれるはずだった10歳のクラーラは、大切にしていた犬の縫いぐるみを失い、王城を出て肉親とも離れ離れになった。
クラーラの運命はこの年に、大きく舵を切ることになったのだ。
「母と暮らした離宮も燃えてしまって、私の手元に残ったのはこの肖像画だけなんです。そして、この肖像画のおかげで、お兄さまは私の隠れている場所を見つけてくれました」
クラーラは、父である国王の死の間際の言葉をきっかけに、ベンジャミンとファミーがクラーラの肖像画を探し始め、それを妨げるために、ダイアナによって民へ重税が課せられた流れを説明した。
自分を責め過ぎないように、とドリスはクラーラへ前置きをした上で、事情を顧みた心情を吐露する。
「ダイアナさまの恨みは、凄絶だったのね。それほど国王陛下を愛しているようには見えなかったけれど、人の心は外からは窺えないから……もしかしたら誰にも悟らせずに、国王陛下へ恋をしていたのかもしれないわね」
ドリスは苦笑する。
まさか、ダイアナを慮る発言が出るとは――。
「以前にもクラーラに話したと思うけど、恋は人を強くも弱くもするわ。そして、賢者にも愚者にもするのよ」
「それは、ダイアナさまの話ですか?」
「私にも当てはまるわ」
クラーラは息を飲んだ。
ドリスはクラーラから見ると完璧な人間だ。
愚者という言葉はまるで似合わない。
瞠目するクラーラへ、ドリスは優しく説く。
「クラーラは、恋から愛を育ててね」
「愛は、恋とは違うんですか?」
「相手を思うのはどちらも一緒だけど、愛は無償なのよ。見返りを求めず、相手の幸福を願うのが愛――クラーラが匿われているのを知って、エアハルトさんがそれを護りたいと願ったのも、愛ね」
だからこそ任せてみようと思ったの、とドリスは続けた。
クラーラは自分に置き換えて考える。
いつまでも見返りを求めずに、ひたすら相手の幸福を願えるだろうか。
そこまで己は、出来た人間だろうか。
「愛って、難しいですね」
「でもクラーラなら、必ずできるわ。だって3歳のクラーラが、犬の縫いぐるみ注いだのは、間違いなく愛だったのだから」