バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

65話 夢じゃない

 ファビオラが手錠と格闘して疲れ果て、毛足の長い絨毯にへたり込んでいると、部屋の扉が静かに開く音がした。



(誰かしら? こんな遅くに)



 使用人たちは、さきほど下がったはず。

 ファビオラが顔を上げた先にいたのは、思いもよらない人物だった。

 黄金に輝く豊かな髪と、赤星のように煌めく瞳。

 今、最も助けを借りたいと願った、ファビオラの仮初の婚約者――。



「ヨ、アヒムさま?」



 夢でも見ているのだろうか。

 カーサス王国に、ヨアヒムがいるはずがない。

 きっと知らぬ間に、ファビオラは眠りこけてしまったに違いない。

 だから会いたいと思った人が、こんなにも都合よく出てきたのだ。

 絶望しかけていたファビオラは、ヨアヒムへと手錠がはまった腕を伸ばす。

 

「っ……!」



 しゃらりと、鎖が音を立てたが、戦慄くファビオラの口からは、言葉が出ない。

 ヨアヒムはすぐに駆け寄り、その胸にファビオラを囲った。

 そして安心させるために、強く抱き締める。

 少し見ない内に、体つきが細くなった気がする。

 ヨアヒムは、震えるファビオラの薄い肩を撫でた。



「遅くなって、すまない」



 アダンが使用人たちを引きつけるための準備で、数日を要した。

 ファビオラはその間も、怖い思いをしただろう。

 レオナルドへの憤りが、ヨアヒムの中にふつふつと沸く。

 首を横に振ったファビオラが、小さな声で応えた。

 

「いいえ、こうして夢で会えただけで、嬉しいから……」

「夢じゃない。助けに来たんだ」

「っ……?」

「悪役に捕まってしまったシャミを救うのは、オーズの役目だろう?」



 まだ現実と夢の世界の、区別がついていないファビオラに、ヨアヒムが柔らかく微笑みかける。

 そしてファビオラの体を抱いたまま、軽やかに立ち上がった。



「アダンが時間を稼いでくれている。その間に屋敷を出よう」

「っ……!? 本当に、ヨアヒムさま?」



 急にワタワタしだしたファビオラを、ヨアヒムはしっかりと腕の中に包み込む。

 寝間着ごしに体温が伝わり、その存在が本物なのだと、ファビオラに教えてくれる。

 やっと現実味を帯びてきて、ファビオラも状況を理解した。

 バートが窓から外の様子を確認し、二人を促す。



「早々に立ち去りましょう。屋敷の裏手に、馬車を用意しています」

「ま、待ってください。私がいなくなったら、ここの使用人たちが――」



 レオナルドに怒られてしまう。

 口が利けないから、うまい言い訳もできないだろう。

 手錠で拘束されているファビオラに、彼女たちはよくしてくれた。

 今は非常時だと分かってはいるが、見過ごせない。



「そちらはアダンが買収して、グラナド侯爵家に連れて行くらしい」

「アダンが、買収……」

「王太子殿下の手駒を、できるだけ削りたいと言っていた。なかなかアダンは、嫌な策を思いつく」



 心配するファビオラに、ヨアヒムは笑ってみせる。



「あとは、手錠の鎖だな。バート、頼めるか?」

 

 ファビオラが繋がれている右手を、ヨアヒムが持ち上げる。

 バートが狙いを定め、腰からすらりと細い剣を引き抜いた。

 そして、壁の鉄輪と繋がっていた鎖を、キンッと一瞬で断ち切ってしまう。

 あの強固な鎖が、しおれた花のように、しゃらんと項垂れた。



「……いとも簡単に」

「バートはすごいんだ。弱点を見抜いて、的確に攻撃できる」

「そういう訓練を受けていますから、当たり前なんですよ」



 手放しで褒めるヨアヒムに、バートは謙遜してみせる。

 ファビオラは側近や護衛だと思っているが、正しくは暗殺者だ。

 ヨアヒムの命を狙う暗殺者を返り討ちにするため、ウルスラが雇った凄腕がバートだった。

 

「今なら、月が雲に隠れています」



 バートの案内で、使用人たちの居住区を抜け、薄暗い勝手口へ出た。

 そこには小さくて黒っぽい幌馬車が、樹々の間に停められている。

 バートが御者席に座り、ヨアヒムがファビオラを抱えて幌の中へ入ると、すぐに馬は走り出した。

 ファビオラは遠ざかる屋敷を見て、ホッと肩から力を抜く。

 やっと解放されたという安堵が、全身を巡った。



「この手錠は、専門家に外してもらおう。万が一にも、ファビオラ嬢を傷つけてはいけないから」



 寄り掛かるファビオラの右腕を、ヨアヒムが痛ましい目で見る。

 あて布がされているので、赤くなったりはしていないが、常に鎖の重さがつきまとっていたせいか、手首にだるさを感じる。

 

「鍵穴がないんです。こじ開けようとしたけど……」

「大丈夫。何も心配しなくていいよ」



 ヨアヒムの柔らかい声音に、癒される。

 ずっと張りつめていたファビオラの神経が、急激に緩むのを感じた。

 どうしてヨアヒムがカーサス王国にいるのか。

 どうして監禁されていたファビオラを助けてくれたのか。

 尋ねたいことはたくさんあったが、カラカラと回る車輪の音に誘われ、いつしかファビオラは眠りについた。

 

 ◇◆◇◆



 ファビオラが目を覚ましたとき、グラナド侯爵家の自室のベッドの上にいた。

 軽くなった右腕からは、すでに手錠が外されている。



「お姉さま、気分はいかがですか?」



 起き上がろうとしたファビオラに気づき、アダンがそれを介助してくれた。

 ずっとここで看病をしていたのか、ベッドの脇には見慣れぬ長椅子と、ブランケットが置かれている。

 

「アダンこそ、目の下に隈があるわ。寝ていないんじゃないの?」

「お母さまと交代しながらだったので、ボクは大丈夫です。それよりも、水をどうぞ。お姉さまは三日間、眠り続けていたんですよ」

「三日も……!?」



 どうりで頭の中がすっきりしている。

 ぐう、とファビオラのお腹が鳴ったので、アダンが嬉しそうに笑った。

 

「朝食を用意します。お母さまにも知らせないと」



 アダンは使用人を呼ばずに、自ら部屋を飛び出していった。

 その眦には、涙が浮かんでいるように見えた。



「たくさん心配させてしまったわ」



 予知夢の内容を知っているから、冷静ではいられなかったはずだ。

 監禁されたファビオラを待つのは、死のみ。

 だからこそアダンは、ヨアヒムの手まで借りて、助け出してくれたのだ。

 

「何かあれば、国家間の問題になりかねない」



 そんな中、ファビオラをレオナルドから取り戻すため、ヨアヒムはあの屋敷に忍び込んでくれた。

 じわりと歓びが込み上げる中、申し訳なさも心に浮かぶ。



「私は、仮初の婚約者でしかないのに――」

「ファビオラ!!」



 大きな声と共に、どーんとパトリシアがファビオラに抱き着く。

 うっかり沈み込みそうだったファビオラの気持ちは、おかげで現実に引き戻された。

 アダンの隈と違って、こちらは泣き腫らした目をしている。

 

「お母さま、おはようございます」

「もう! もう! お寝坊さんなんだから!」



 そう言って、しゃくりあげるパトリシアを、ファビオラは抱き返した。

 しばらくそうしていると、アダンが皿の載ったカートを押してくる。



「ミルク粥をつくってもらいました。一緒に食べましょう」



 ファビオラが倒れている間、アダンもパトリシアも、食べ物が喉を通らなかったらしい。

 久しぶりの食事に、みんなで舌つづみを打つ。

 ミルク粥の温かさが、胃から全身へと伝わり、生命力を漲らせる。



「順を追って説明します」



 食べ終わったアダンが、救出劇の全容を教えてくれた。

 屋敷周辺の下見を終えて、作戦を練り、実行役を決めて、逃走の準備を整える。

 あの屋敷の近くの店舗を買い取るのは難しくなかったが、口の利けない使用人たちを説得するのには手こずったそうだ。



「彼女たちはとても義理堅く、レオナルド殿下に恩を感じていたので、あなたたちの雇い主はお姉さまを無理やり監禁している、極悪な誘拐犯なのだと暴露しました。二人のことを、特殊な事情がある恋人同士だと勘違いしていたみたいです」

「それで、彼女たちは今、どうしているの?」

「うちで働いていますよ。口が利けないだけで、仕事ぶりには問題がありませんから。寝たきりのお姉さまを心配していたので、後で会ってあげてください」



 無事でよかった、とファビオラは安心する。

 もうひとつ、気になっていたことを切り出した。

 

「……その、ヨアヒムさまは……?」

「お姉さまを連れて帰った次の日に、お父さまと一緒に王城へと向かいました」



 もしや危惧していた国家間の問題に、発展してしまったのだろうか。

 サッと顔色を変えたファビオラを、アダンが落ち着かせる。



「お姉さまが思っているようなことではありません。そもそもヨアヒム殿下は交渉事を携えて、カーサス王国へ来ていたのです」

「交渉事というのは?」

「捕らえた犯罪者の、交換です。本来であれば、話し合いは国境付近で行っても、よかったんですけど……」

 

 ファビオラのために、ヨアヒムはわざわざ王都へ来た。



「せっかくだから、王家と話をしてみると言っていました」



 実はヨアヒムは、レオナルドを牽制しに行ったのだが、アダンはそれを黙っていた。

しおり