56話 開戦の予感
そこまでヨアヒムが口にしたとき、執務室から大きな物音がした。
二人してそちらへ目を向ける。
足音を忍ばせ近づくと、隠し通路がある本棚が開き、息せき切ったウルスラが現れた。
「母上!?」
「どうされたのですか!?」
ヨアヒムとファビオラが駆け寄ると、ウルスラはホッとした顔をする。
「良かった、あなたたちは無事ね」
「何かあったのですか?」
疲れた様子のウルスラを支えながら、ヨアヒムが尋ねる。
「私の部屋の近くで、不審者が見つかったの。護衛が追っているけれど、入り組んだ皇城に詳しいみたいで、逃げられる可能性が高いわ」
それを伝えるため、ウルスラは自ら走って来たのだ。
「ここはバートが見張っていますから、大丈夫だと思います」
「ええ、顔を見たら安心したわ。ちょっと休ませてもらえる?」
ソファへ腰かけたウルスラへ、ファビオラが水差しから水を注いで渡している。
しばらくすれば、護衛たちが報告にやってくるだろう。
「これから義兄上は、大きな戦を仕掛けようとしているのに、今さら暗殺者を寄こすのは変ですね」
「暗殺者ではなく、間諜かもしれないわね。あちらに都合のいい開戦のタイミングを探っているとしたら、納得できるわ」
いよいよ、皇位継承争いも詰めに入る。
ウルスラがファビオラを見た。
「ファビオラさんには、一時的にカーサス王国へ帰ってもらおうと思っているの。あなたをヘルグレーン帝国の戦に巻き込みたくないというのが、赤公爵家の総意よ」
「でも、私だけ安全圏にいるのは……」
躊躇いを見せるファビオラを、ウルスラは説得する。
「私にとってもヨアヒムにとっても、あなたは弱点なの。もし、ファビオラさんが攫われでもしたら、形勢は一気に逆転してしまうわ」
「っ……! 分かりました」
「あまり時間はないかもしれない。必要な物だけをまとめて。戦なんてすぐに終わらせて呼び戻すから、それまで待っていてね」
ファビオラに帰国準備をさせようとするウルスラへ、ヨアヒムが待ったをかける。
「母上、その前にファビオラ嬢と、話をさせてもらえませんか?」
しかし、運はヨアヒムに味方しない。
侵入者を見失ってしまったと、護衛からの報告が届けられたのだ。
「今は一刻を争うわ。ヨアヒムは指揮を執る準備を。ファビオラさんのことは、私に任せて!」
そう言って、ウルスラはファビオラをつれて、寝室の扉から皇子妃の部屋へ行ってしまう。
仕方なしにヨアヒムは頭を切り替え、指示を待つ護衛たちへ向き合うのだった。
◇◆◇◆
夜が明けると同時に、ファビオラは馬車に乗って、カーサス王国を目指した。
ウルスラの予想では、今月中にも戦が始まる可能性が高いそうだ。
安全なうちにヘルグレーン帝国の国境を越えて欲しいと、足の速い頑丈な馬を用意してくれた。
ヴィクトル辺境伯領に入れば、そこでさらに馬を替えて、一気にカーサス王国を目指す予定だ。
いつもの旅程よりも慌ただしい中、揺れる車内でファビオラはぽつりと呟く。
「ヨアヒムさまに、挨拶もできなかった」
ファビオラが皇城を発つ寸前まで、ヨアヒムは赤公爵家とそれに連なる一族との会議に出ていた。
作戦について詳しくは知らないが、マティアスを自由に泳がせて、あえて事を大きくするらしい。
それゆえ、こちら側にも被害が出る恐れがあり、先にファビオラを逃がすと言っていた。
「……昨夜は驚いたわ」
ファビオラが寝入る直前、存在を忘れようとしていた扉から、ヨアヒムの声がした。
それが切羽詰まった感じだったので、悪いことだと思いながらも、ファビオラは鍵を外してしまう。
婚前の男女が人気のない場所で二人きりになるなど、本来ならば神様に顔向けできない行為だ。
しかしファビオラは、それよりヨアヒムの願いを優先した。
疲れていたのか、ぼうっとしていたヨアヒムだったが、ついにソフィの名を口にする。
「ソフィさまとの秘密の関係を、私に説明しようとしたのね」
だが、それをファビオラが聞く前に、事態が急変する。
現れた不審者の目的は、作戦や会議の資料だと思われた。
「第二皇子派の極秘会議は、全て口頭で行われる。だから記憶を覗かない限り、漏洩することはない」
紙に情報を残さない。
第一皇子派は、そのルールを知らないのだ。
「ヨアヒムさまやウルスラさまが、敗けるとは思えないわ。けれど、怪我をしないかどうかまでは、分からない」
とくに、ヨアヒムは前線に出る。
「どうか、ご無事で」
ファビオラは、ヨアヒムたちがいるだろう皇城の方角をみて、祈った。
しかし、危機と闘わなくてはならないのは、ヨアヒムたちだけではなかった。
◇◆◇◆
ファビオラが無事に国境を越え、エルゲラ辺境伯領に入るとすぐ、数名の騎士によって進路を遮られる。
ヘルグレーン帝国の御者とカーサス王国の騎士が問答を始めたのを、ファビオラは馬車の中から窺った。
「騎士がつけている紋章は、王家のものだわ」
これ以上、揉めるのは得策ではない。
そう判断したファビオラは、馬車から下りる。
「グラナド侯爵家のファビオラです。私に御用があるのでしょう?」
騎士たちは、ファビオラの銀髪を確かめるように見て、頷き合う。
そしてファビオラの前に跪いた。
「グラナド侯爵令嬢、我々と一緒に来てください。レオナルド殿下がお呼びです」
王家の紋章を見たときから、嫌な予感はしていた。
ファビオラが19歳になって、そろそろ2か月が経過する。
それだけ死期が近づいたということだ。
しかし、レオナルドの婚約者候補にもなっていないし、エバはいまだ自宅謹慎中だからと油断していた。
「私は帰国したばかりで、まだ家族にも会っていないのですが――」
「ヘルグレーン帝国から戻り次第、すぐにお連れするように、と我々は命じられています」
騎士たちが数名しかいないのは、交代でこの国境を見張っていたからだろうか。
いつ帰るかも分からないファビオラのために、レオナルドはここまでするのだ。
それはファビオラへの執着が、まったく薄れていないことを示していた。
騎士たちに隠れて、粟立つ腕をさする。
(ここには味方がいない。なんとか逃げなくては……どうする?)
ファビオラは騎士たちに断って馬車に近づくと、荷物の中から一通の封筒を取り出した。
それは鮮やかな赤色をしており、ひときわ目を引いた。
封緘が見えやすいように裏返し、ファビオラは騎士たちの前に差し出す。
「これは?」
「ヘルグレーン帝国の、皇帝陛下が使用する紋章です。私はこの手紙を、父のグラナド侯爵へ手渡すように、言いつけられています」
「っ……!」
騎士たちの顔に当惑の色が浮かぶ。
カーサス王国の王太子レオナルドと、ヘルグレーン帝国の皇帝ロルフと、どちらの命令を優先するべきか迷っているのだ。
(嘘はついていないわ。この手紙を書いたのは、皇帝陛下ではなくウルスラさまだけど)
ロルフの仕事を代行しているウルスラは、皇帝の紋章がついた封緘を日常使いしていた。
騎士たちは集まって、どうしたらいいかを話し合っている。
だが、誰もが責任を取りたくなくて、具体的な案を出せずにいるようだ。
ファビオラはその隙に、つけこむことにする。
「こうするのはどうでしょう? 騎士さまも一緒に、王都のグラナド侯爵家まで同行して、私がこの手紙を父へ渡し終わってから、王太子殿下のもとへ向かうというのは?」
これは賭けだった。
取りあえずグラナド侯爵家へと逃げ込んで、そこからなんとか言い訳をして、レオナルドと会うのを引き延ばせないか。
その内に、皇位継承争いが終わってくれれば、ヨアヒムの婚約者であるファビオラは、ヘルグレーン帝国へ戻らなければならない。
「確かに、合理的ではありますね」
ファビオラの提案に乗れば、レオナルドの面子も潰さずに済む、と騎士たちは考えたようだ。
本当は、エルゲラ辺境伯家にも立ち寄る予定だったが、それも許されない急ぎの旅になってしまった。
馬車の周囲を、騎士たちが取り囲む。
ファビオラは緊張を強いられる御者を労った。
(帰ったら、お父さまにお母さま、そしてアダンの知恵も借りましょう)
ファビオラは一人ではない。
運命に抗うのを、諦めるのはまだ早い。
しっかりと前を見据える碧の瞳には、生きたいと願う力がみなぎっていた。
◇◆◇◆
「お姉さま! お帰りなさい!」
グラナド侯爵家にファビオラの乗った馬車が到着すると、アダンが飛び出してきた。
久しぶりの邂逅に、姉弟はしばらく抱擁をかわす。
その間に、ファビオラはアダンの耳元で、これまでの経緯を小声で話した。
瞬時に状況を理解したアダンは、すぐに人好きのする笑顔を浮かべる。
そして、ずらりと居並ぶ騎士に向かい、少しだけ休憩するように勧めたのだ。
「騎士のみなさま、これまで姉を護衛していただき、ありがとうございます。これから姉は、レオナルド殿下にお会いするため、旅の汚れを落としてまいります。よければ騎士のみなさまも、厩舎で馬を休ませてください」
騎士は自分の馬を大切にする。
馬を口実にすれば、足止めができるとアダンは見越した。
「ありがたい。ここまで早駆けで来たので、馬が砂だらけなのだ」
うまく乗せられた騎士たちは、使用人の案内に従い、グラナド侯爵家の厩舎へと馬をつれていく。
ファビオラはようやく、騎士たちの監視の目から逃れられた。
「助かったわ、アダン」
「すぐにお父さまも帰ってきます。みんなで対策を考えましょう!」
しかし、父トマスが乗って帰って来た馬車には、なぜかレオナルドも同乗していたのだった。