36話 直面する危機
学校の昼休み、ファビオラがモニカの秘策を伝授したら、シトリンは泣きながら笑った。
そしてそれから、少しずつ元気になっていった。
シトリンが見合い相手に、会いに行ったのか。
モニカの考えた台詞を、言ったのか。
それは分からない。
だがファビオラにとって、親友のシトリンが前向きになれたことが、一番大切だった。
「ファビオラさん、論文はどこまで書きましたか?」
今日もシトリンと、何気ない会話ができて嬉しい。
たとえそれが、全然進んでいない論文についてだとしても。
「それが……まだ序論なのよ」
書きたい内容は決まっているが、うまくまとまらない。
そして悩んでいる間に、時間だけが経過していく。
ファビオラは天を見上げた。
「圧倒的に、資料が足りてないわ」
学校の図書室にあるものは、すでに網羅した。
だが、経営者のファビオラにとって、それでは物足りないのだ。
そこへシトリンが提案する。
「王城の図書室の、利用申請をしてみてはどうでしょう。論文を書く生徒のために、先生が便宜を図ってくれるそうですよ」
商科の生徒は下位貴族ばかりなので、王城に伝手のある者は少ない。
だからこそ、設けられた特例措置だろう。
しかし、侯爵令嬢であるファビオラはその例外だった。
財務大臣である父トマスに頼めば、その日の内に入室許可がでる。
それをしなかったのは、もちろん理由がある。
(王太子殿下に会いたくなくて、これまで王城に近寄るのを敬遠していたんだけど……あそこにしかない資料もあるのよね)
悩ましくて、頭を抱える。
結局、背に腹は代えられず、予知夢の中で見慣れた王城の図書室へ、ファビオラは足を運んだのだった。
◇◆◇◆
「あれもこれも、そっちも見たいわ!」
「お姉さま、これ以上は持てませんよ」
おびただしい本が並ぶ王城の図書室で、ファビオラは瞳を輝かせていた。
目的の資料だけでなく、大好きな冒険譚や英雄伝記にも、つい目が引き寄せられる。
そんなファビオラの隣でアダンは、山と積まれた本を両腕で抱えていた。
「一旦、貸し出しをお願いしてきますね」
アダンが受付へ向かって歩いて行く。
その背を見送ったファビオラが、次は何を借りようかと書架を振り返ると――そこには笑顔のエバが、腕組みをして立っていた。
「ふゥ~ん、こんなところで会えるなんてね」
銀色のレースがあしらわれた桃色のドレスは、昼とは思えないほど華美だ。
ツインテールに結われた髪にも、きらきらと光る装飾品が刺さっている。
にっこりと口角を持ち上げたエバは、残忍な目をこちらに向けていた。
ひくり、とファビオラの頬が引きつる。
(警戒しないといけないのは、王太子さまだけじゃなかった)
わざわざ確認して、レオナルドが王城に居ない日を狙って来たのだが――。
「ちょっと人目が、ありすぎるんじゃなァい?」
「もうすぐ、司書たちの休憩時間になります」
エバが不機嫌そうに唇を尖らせると、今まで誰もいなかった場所に、ふいに黒いローブをまとった男が現れた。
ファビオラはその人物を『知っている』。
「っ……!」
助けを求める悲鳴を上げたかったが、細く息を吸いこむのが精いっぱいだった。
(殺される! すぐに逃げないと――!)
ファビオラは脱兎のごとく駆け出す。
背後からは、ゆっくりとエバが追いかけてきた。
「楽しいわァ! やっとこの手で消してやれるわ! どうやって虐めようかしら?」
「あまり時間はありません」
「だったら時間を稼ぎなさいよ! 私の邪魔をする奴は許さないわ!」
エバの叱責を受けて、男の姿がかき消える。
ファビオラを責め苛む時間を長引かせるため、どこかへ何かをしに行ったのだろう。
(私には好機だわ! 一対一なら逃げきれる!)
ファビオラは行き止まりの受付から、右へ走る。
「ふふっ! 見苦しい追いかけっこをしようってワケね。私もその方が、気分が昂るわァ!」
そう言いながら、エバが銀色の髪飾りを頭から引き抜く。
どうするのかと思ったら、それをファビオラへ向かって投擲してきた。
カツン、と音を立てて、簪が書架へ突き刺さる。
先端を尖らせてあり、まるで刃物のように鋭かった。
(王城への武器の持ち込みは、禁止されているはず)
剣を携帯していいのは、騎士に限られる。
例外があるとしたら、それは王家の影だ。
(先ほどの、黒いローブをまとった男は、もしかしたら……)
だとすれば、今のエバは法の外にいる。
隠れて助けを待ったところで無駄だ。
それを理解したファビオラは、さらに奥へと逃げた。
(この先に、書庫へと通じる扉がある。司書しか出入りしないから、図書室の利用者でも、知っている人は少ないわ)
予知夢の中でレオナルドから逃げるため、もぐり込んだことがある。
そっと扉を開けて中に入ると、そこは明かりの無い世界だった。
ドキドキと脈打つ、自分の心臓の音がうるさい。
ひとつ深呼吸をしてから、ファビオラは足を踏み出した。
(この書庫には、本を納入するための裏口がある。私なら、目を閉じていてもたどり着けるわ)
暗闇を進むファビオラを、探す声がする。
「ちょっとォ! どこに消えたのよォ! 出てきなさい!!」
それが遠ざかるにつれ、ファビオラは冷静さを取り戻していった。
(大丈夫、逃げ切れるわ。このまま――)
古びた小さな扉を見つけ、ぎいっと押し開ける。
眩しい光が目を射し、一瞬だけファビオラは瞼を閉じた。
書庫から繋がっていたのは、使用人たちが行きかう廊下だった。
「良かった、出られたわ!」
図書室からは、なるべく早く離れたほうがいいだろう。
「人がいる場所に居ましょう。どこかで、アダンとも合流しないと……」
うろうろと1時間以上、見知らぬ廊下を彷徨ったファビオラだったが、トマスに連絡を入れて、大捜索をしていたアダンに発見され、無事に借りた本と一緒に馬車へ回収された。
「お姉さま、すみませんでした! 一瞬でも目を離してしまった自分が、許せません!」
「いいのよ、アダン。最終的には、私を見つけてくれたじゃない」
行方不明になったファビオラを探すため、王城の騎士までが動員されていた。
それを知って、ひえっとファビオラは首をすくめてしまう。
「お父さまがすぐに動いてくれて、助かりました。ボクだけでは、もっと時間がかかっていたはずです」
「ごめんね、変な場所から出てしまって……」
「お姉さまは悪くありません! ……ボクがいない間に、何かあったんでしょう?」
ファビオラが無断で、書庫に入り込むとは思えない。
アダンが司書と一緒に、本を台車に載せていた間に、ファビオラの身に何かが起きたのだ。
現にファビオラの眉は、馬車に乗り込んでからも、ずっと下がったままだ。
心配するアダンに、ファビオラもやがて絆される。
(アダンになら、話してもいいかしら)
いまだ胸に渦巻く恐怖を、一人では持て余していた。
「……図書室にね、アラーニャ公爵令嬢がいたの」
「お姉さまを目の仇にしている、例の令嬢ですか」
「しかも王城内なのに、武器を携帯していたわ」
「っ……! それは違法行為ですよ」
「だけど多分、訴えるのは難しいのよ。隣に……王家の影がいたから」
世情に明るいアダンは、ファビオラのありもしない悪評を、エバが捏造しているのを知っている。
レオナルドの婚約者に選ばれたくないファビオラにとっては、都合のいい展開だったため、あえてこれまでは見て見ぬふりをしていた。
だが、直接ファビオラに危害を加えようとするのならば、話は別だ。
「愚かにも、お姉さまに手を出したのですね。――ボクが何とかしましょう」
「駄目よ! アダンを巻き込めない!」
絞首刑を受けたアダンの姿が、記憶に蘇る。
野ざらしのまま放置され、民から石を投げつけられる様子に、ファビオラは慟哭したものだ。
「しかし、影が動いているとなると、お姉さまだけで対抗するにも限界があります。ここは、お父さまやお母さまを頼っていい場面ですよ」
「ますます駄目! みんなが……死んでしまうわ」
その言葉に、アダンがぎょとする。
両手の中に顔を埋め、ファビオラは体を震わせる。
(予知夢とは、状況がずいぶん変わった。つまり私が殺されるのも、19歳とは限らない。これから何をどうしていいのか、分からないわ……)
混迷するファビオラの肩に、アダンがそっと手を置いた。
「お姉さま、どうか抱えているものを、全て吐き出してください。一人で苦しまないで……」
その声の切実さに、ファビオラはそろりと顔を上げる。
アダンの表情は、憂悶に満ちていた。
「ずっと助けになりたい、と思っていました。お姉さまが何と闘っているのか、ボクにも教えてください」
8歳という幼さで襲撃を受け、その日の記憶を無意識に消してしまうほどの恐怖を味わったアダンだったが、それゆえに、ファビオラを護ったあの年端もゆかぬ男の子を心から尊敬していた。
あの男の子のようになりたい。
大切な人を護れるほど、強くなりたい。
そう願って、今日まで多くのことを学んできたのだ。
「何も出来ずに、お姉さまを失いたくないんです。ボクにも足掻かせてください。精一杯やりますから!」
アダンの痛々しい叫びに、ファビオラの頑なだった心がほろりと解ける。
「そうね……アダンの言う通りかもしれない。現実は私の手を離れて、すでに独り歩きを始めているの」
ファビオラが必死に抗ったからこそ変わった未来を、大切にしていかなくてはならない。
使えるものは、なんでも使おう。
遠慮をしていては、運命に敗けてしまう。
容赦のないエバに感じた既視感が、ファビオラに踏ん切りをつけさせた。
「今夜、お父さまとお母さまに、お願いしてみるわ。私が体験した不思議な話を、聞いて欲しいって」
アダンがホッと息を吐く。
そして、そっと拳を突き出した。
ファビオラは思わず、泣き笑いのような顔になる。
しかし、ぐっと手のひらを握りしめると、こつんと打ち合わせた。
「幸運あれ!」