31話 冴えわたる推理
罵詈雑言のビラを貼られる行為は、じわりとファビオラを傷つけていたのだろう。
それに気づかず、日々の対応に追われていた。
そして極めつけのように、火事が起きてしまう。
すり減っていたファビオラの精神は、すでに限界だった。
(今夜の火事は、貼り紙と無関係とは思えない)
そこまで恨まれていたのか。
という思いに潰されそうになったところを、店主たちの声に助けられる。
(私たちを、福の神って……言ってくれたわ)
それは多神教のヘルグレーン帝国で崇められている、幸せをもたらすことで有名な神様だ。
嬉しくて、零れ落ちる涙を止められない。
ごし、と手の甲で拭うと、煤が広範囲に伸びた。
「ファビオラさん、頬が真っ黒よ!」
教えてくれたルビーも、鼻に煤がついている。
ガウンの袖で汚れを落とし合っていると、空がうっすらと白んできた。
散々な夜が、ようやく明けたのだ。
◇◆◇◆
「店舗の被害は、倉庫の壁一枚で済んだようです」
翌日、現場検証をしている消防団と一緒になって、火消し後の片付けをしていた用心棒が、会長室にいたファビオラへ報告に来た。
「これはほぼ、確定の情報ですが……」
声量を落として伝えられたのは、ファビオラの予想していた通りのものだった。
「放火の可能性があるそうです。火の気のないはずの場所に、なぜか薪が山積みにされていて……そこが出火元だと断定されました」
「その薪は、うちの人工薪ではないのね?」
「違います。生乾きで質の悪い薪でした。そのせいで、燃え残っていましたよ」
ふむ、とファビオラは思案する。
ヘルグレーン帝国では、警吏と消防は別部門だ。
まったく当てにならなかった警吏と違い、消防はちゃんと調査をしてくれている。
「このまま任せても、大丈夫そうね」
「消防団を総括しているのは、あのヨアヒムさまですから。警吏みたいな不真面目は、しないと思います」
用心棒の口から、思いがけずヨアヒムの名が出て、ファビオラはハッと顔を上げる。
「そうだったのね……知らなかったわ。じゃあ、警吏を総括しているのは?」
「マティアスさまです」
がくりと肩が落ちる。
「不敬なのでしょうけど、なんだか妙に納得できてしまうわ」
「警吏の中にも、いいヤツはいるんですけど……どうしても集団は、トップに似てきますよね」
用心棒の言葉から、民の諦念がうかがい知れる。
ヨアヒムとマティアスの評価は、くっきりと分かれているようだ。
「ありがとう。あなたのおかげで、私もルビーも助かったわ」
恐縮する用心棒へ、ファビオラは無理やり特別手当を握らせる。
「犯人が捕まるまで、まだ安心はできないわ。これからも当直をしてもらうと思うけど、今日はゆっくり休んでね」
ファビオラに温かい言葉をかけられ、用心棒は嬉しそうに退室していった。
一人になったファビオラは、ぎしりと椅子の背もたれに身を預ける。
そして天井を見上げ、考えを巡らせた。
(来週にはカーサス王国へ戻らなければいけない。けれど、このままではルビーさんや従業員たちが心配だわ)
いよいよ、皇弟イェルノに頼るときが来たのかもしれない。
ファビオラはペンに手を伸ばし、銀色の縁取りがしてある便せんを引き寄せた。
◇◆◇◆
仕事の合間に清書をして、ようやく封緘をしたとき、窓の外には朱金色の空が広がっていた。
「もう夕方になっていたのね。なるべく早く出そうと思っていたのに……」
ただでさえ、国境付近にあるヴィクトル辺境伯領は遠い。
救援を求める手紙は、早馬に託そう。
ファビオラがそう考えていると、ルビーが会長室へ駆け込んできた。
また事件か、と胸騒ぎを覚えたが、ルビーの明るい表情がそれを裏切っている。
「吉報よ! 放火した犯人が捕まったわ!」
ぽかんと、ファビオラの口が開いても仕方がない。
何しろ昨日の今日なのだから。
「こんなに早く?」
「ファビオラさん、急いで応接室に行くわよ!」
「何があるの?」
「第二皇子のヨアヒムさまが来ているのよ!」
「どうして!?」
「今回の放火事件の、陣頭指揮を執られたからよ!」
「えええ!?」
怒涛の展開に、ファビオラだけがついていけない。
イェルノに出すはずだった手紙を持ったまま、応接室へ放り込まれる。
ルビーも同席するのかと思えば、身分差が激し過ぎると辞去してしまった。
残されたファビオラは、取るものも取りあえずお礼を伝える。
「あの……ありがとうございました」
ヨアヒムはバートと共に窓辺に立っていた。
今日はフードを被っていないため、黄金の髪が露わになっている。
そこへ、眩しい朱金色の光が、ふり注いでいた。
(やっぱり、あの男の子に似ている――)
オーズにそっくりな髪色と、紅玉に似た赤い瞳。
ファビオラがじっと見つめていると、ヨアヒムもまたこちらをじっと見ていた。
夕陽はファビオラの髪にまで届いて、銀色を朱金色に染めている。
その美しい光景は、ヨアヒムの思い出の中にある、あの一日と完全に重なった。
あまりの懐かしさに、ヨアヒムの唇がふわりと弧を描く。
「昨夜は大変だったな。犯人は検挙したので、今日からは安心して眠って欲しい」
よく通る声が、ぼうっとしていたファビオラの意識を覚醒させる。
もてなしもせず、ヨアヒムを立たせたままだ。
「お茶をお持ちします。どうぞ、おかけください」
「すぐに出立しなくてはならないので、このままで」
ヨアヒムが手を挙げて、ファビオラの動きを制す。
詳細は後ほど紙面にて報告させるが、と前置きして、ヨアヒムは手短かに説明する。
「把握できた事件のあらましを話そう。この店舗に放火をした人物と、ビラを貼っていた人物は同じだった」
「やっぱり……」
「人工薪が普及したせいで、自分の薪が売れなくなったと、『七色の夢商会』を憎んだようだが――そもそも薪の質が粗悪だったから、取引を解約されたというのが真実のようだ」
つまり逆恨みだな、とヨアヒムは付け加える。
「逮捕の決め手になったのは、燃え残った薪だ。焚きつけに使われたビラと共に証拠として押収し、似たような薪を扱う販売店をしらみつぶしに当たった」
「そこまで、してくださったんですね」
雑だった警吏との違いに、ファビオラが感嘆する。
ごほん、とヨアヒムが咳ばらいをした。
その頬が心なしか赤い。
「手書きのビラの筆跡や、薪にしていた樹の種類、生乾きで燃えにくい特徴を検めた結果、犯人特定に至った。……昨夜は消防団が到着するまで、現場の差配をしてくれたそうだな。おかげで、周囲へ延焼しなかったと聞いた」
ヨアヒムがファビオラに頭を下げた。
「ありがとう。消防団を総括する者として、礼を言わせて欲しい」
「どうか頭を上げてください。火事についての対応を、たまたま知っていただけなんです」
ファビオラはヨアヒムを押し留める。
「私たちは、カーサス王国から来た新参者です。それを温かく迎え入れてくれたご近所さんの店舗を、燃やすわけにはいかないと思ったから……」
「普通は気が動転して、それどころではないのだが――とにかく助かった。この地区は古い建物も多くて、火事には弱いんだ」
商都の地区ごとの特徴を把握しているのか。
ファビオラはヨアヒムの優秀さに、内心で舌を巻く。
「助けてもらったから、という訳でもないが、何か困りごとがあれば相談に乗ろう。その手紙の宛先である叔父上からも、ファビオラ嬢を気にかけて欲しいと頼まれている」
「あ、これは……」
ずっと手に持っていたため、ヨアヒムの目にも入ってしまったようだ。
しかし、もう救援を頼まなくてもいいだろう。
「実はもうすぐ、カーサス王国へ帰るんです。私がいない間、『七色の夢商会』の従業員を、どうやって護ろうかと考えて……ヴィクトル辺境伯のお力を、貸してもらえないかとお願いするつもりでした」
でも、とファビオラは顔を上げると、真っすぐヨアヒムの目を見た。
「第二皇子殿下のおかげで、こんなにも早くに犯人が捕まり、私は安心して帰国できます。本当にありがとうございました」
「っ……!」
ファビオラの満面の笑顔に、ヨアヒムが固まる。
すかさずバートが肘打ちを入れた。
「そ、そうだ! 叔父上からの紹介状を、店舗内に掲げてはどうだろうか。もし模倣犯が現れたとしても、皇族のお墨付きがあると分かれば、抑制力になるかもしれない」
「たしかに……紹介状は商業組合の方にしか、お見せしたことはありませんでした」
「せっかく後ろ盾になってもらっているのだから、最大限に利用したらいい。その方が、叔父上も喜ぶだろう」
「そうしてみます!」
会話を通じて、ヨアヒムとの距離が近づいた気がした。
だが、ここで時間切れだった。
バートが辞去を促す。
「ヨアヒムさま、そろそろ――」
「ああ、分かった」
ヨアヒムが別れの挨拶を切り出した。
「それではファビオラ嬢、私たちはこれで失礼する。あなたがいない間も、なるべく消防団がこの地区を巡回するよう手配しよう」
そう言ってヨアヒムがバートと立ち去った後、ファビオラはソファにぺたりと座り込み、真っ赤になった顔を両手で覆う。
「事件を解明するなんて……完全に、オーズそのものじゃない」
ヨアヒムの姿が、オーズとも、あの男の子とも重なる。
ファビオラの心臓は、話している間中、ずっとドキドキと早鐘を打っていた。
「恋物語を読む前に、もう分かってしまったわ」
ヨアヒムへの気持ちを何と呼ぶのか、ファビオラは自覚せざるを得なかった。