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29話 恋物語の新作

 なんとか論文の題材を決定したファビオラは、長期休暇へと突入した。

 王都からグラナド侯爵領へ、グラナド侯爵領からエルゲラ辺境伯領へ、そして『七色の夢商会』があるヘルグレーン帝国の商都を目指す。

 今回の旅にモニカは同行していない。

 お付き合いをしていた子爵家の三男と婚約し、今は結婚に向けての準備をしているのだ。

 

「私も商都での暮らしにはだいぶん慣れたし、卒業後は移住するつもりなんだから、モニカに頼りっぱなしもよくないわよね」



 モニカは嫁げば退職する。

 それは当たり前のことだが、長く仕えてくれたモニカとの別れは寂しかった。

 

「……いい方向に考えなくちゃ! モニカの結婚が早まれば、私の身代わりにされることもないのよ!」



 予知夢の中のトマスが横領の罪に問われて、家族一同が投獄されるのは今年だ。

 しかし現時点では、それらしい額のお金が、国庫から抜き取られた形跡は見当たらない。

 まだ少額ならば思い当たる節がある、とトマスは言っていた。

 

「お父さまが目を光らせているから、横領するのが難しくなったのかもしれないわ」



 トマスは犯人を追うために、疑わしい部門を監視するだけでなく、国内のお金の動きも探るそうだ。

 数年かけて莫大な金額を横領し続けているのならば、それをどこかで使っているはず。

 

「横領の件は、お父さまに任せましょう。私はヘルグレーン帝国について、調査しなくちゃ」

 

 赤公爵家と青公爵家の間で内戦が起きると、未来はどう変化するのか。

 もう予知夢はあまり、あてにならなくなっている。



「ここからは、私の目で見て、耳で聴いて、頭で考えて、判断しないといけないわ」



 正確な情報が欲しい。

 叔母アルフィナを通じて、ヴィクトル辺境伯イェルノを頼ろうか、とも考えた。

 しかし自国のややこしい内部事情を、すんなり他国のファビオラに明かしてくれるだろうか。

 それに、イェルノがどちらかの派閥に協力していたら、不利な情報は隠されるだろう。

 

「もっと私自身が、赤公爵家や青公爵家と、お近づきにならないと駄目だわ」



 青公爵家へは、無事に青色に燃える薪の納入が始まった。

 赤公爵家には、継続して赤色に燃える薪を購入してもらっている。



「『七色の夢商会』として、仕事上の繋がりはある。でも、あと一歩、踏み込めないかしら?」



 ファビオラが考えを巡らせる間にも、馬車は進む。

 やがて、ヘルグレーン帝国の商都が見えてきた。



「まずは、たまった業務をさばかないとね! きっとルビーさんが、首を長くして待っているわ」



 想像していた通り、ファビオラは店舗につくなり会長室へと引っ張られ、雪崩が起きそうな紙の山と格闘させられる。



「まだまだあるからね! ファビオラさん、今夜は寝かさないわよ!」

「え~っと、こっちは商業組合からの登録更新で……こっちは貧困地区への寄付の依頼と……」

 

 しばらくは忙殺され、なかなか休日にならなかったファビオラだったが、十日目にしてようやく一区切りがつく。

 そして念願の、ヘルグレーン帝国の皇都の本屋へと、足を伸ばしたのだった。



 ◇◆◇◆



「すごい……」



 ファビオラが見上げた書店の佇まいには、老舗の趣があった。

 店内には天井に届くほど背の高い書架があり、その中にはぎっしりと本が詰まっている。

 端から端まで紙で満たされた空間は、得も言われぬ圧迫感を醸し出していた。

 

(まるで王城の図書室みたい。これは余程の本好きでなければ、居心地が悪いでしょうね)

 

 店頭には長蛇の列ができていて、今日発売されたばかりの新刊を、求める客が次々と並んでいる。

 

(とても人気があるみたい。一体、どんな内容なのかしら? もしかしたら、恋物語だったりする?)



 興味津々でファビオラは最後尾に近づく。

 そして前の人に声をかけた。



「すみません、こちらでは何という本が売られているのですか?」

 

 くるりと振り返った青年は、どこかで見たような顔だった。

 フードで覆われた茶色の髪はありふれていたが、真っ黒な瞳が珍しい。

 相手もファビオラを見て、息を止めたので、初対面ではないだろう。



(『七色の夢商会』のお客様ではないわ。でも……店舗で会った気がする)

 

 思い出そうと苦心しているファビオラに、青年が返答した。



「有名な恋愛小説家の、新作らしいですよ」

「まあ、ちょうどいいわ。私も一冊、買ってみましょう」

「……題名とか作家名とか、聞かなくていいんですか?」

「恥ずかしながら、これまで恋物語を読んだことがないのです。最初の一冊を何にしたらいいのか、迷っていたので」

「だから、ちょうどいい、と?」



 青年がくすりと微笑んだ気がしたが、顔はどこも動いていなかった。



「奇遇ですね。俺の主人も、同じことを言って列に並びましたよ」



 青年が親指で前方を指す。

 そこには青年と同じように、フードで上半身を隠した男性がいる。

 男性だと分かったのは、肩幅が広く、かなりの長身だったからだ。

 ファビオラはその見上げる角度に、覚えがあった。

 

(え――? もしかして、第二皇子殿下?)



 正体に気づいたファビオラが、慌てて青年に視線を戻すと、無表情なのに必死に笑いを堪えていた。

 その顔を、ファビオラはまじまじと見る。



(そうだわ! ルビーさんが店舗先で絡まれていたのを、第二皇子殿下が助けてくれたときに会ったのよ。次の予定があると促していたから、きっと側近なのね)

 

 だけど、それならどうして、今にも噴き出しそうなのか。

 ファビオラがこてんと首を傾げる。

 その様子に我慢ができず、咄嗟に口元を手で覆い、青年は頑張って冷静を装う。



「あえて名乗りませんが、理由は察してください」



 つまり、今のヨアヒムはお忍び中ということか。

 そう理解したファビオラは、分かりましたと力強く頷いた。

 ついに、ぐふっと青年がむせたのを、前方の男性が肘打ちする。



「いてて、分かりましたよ。もう何もしゃべりませんって」



 青年は礼をすると、前を向いてしまった。

 ファビオラは青年越しに、ヨアヒムの後頭部に視線をやる。

 あのフードの下に、黄金色の髪がある。

 初代皇帝と同じ、人目を惹きつける眩い色だ。

 だから目立たぬように隠し、民に混じって並んでいるのだろう。



(本が好きなんて……またあの男の子との、共通項が増えてしまったわ)



 予期せずヨアヒムの趣味を知れて、ほんわりとファビオラの心が温かくなる。

 逆にヨアヒムは、恋物語を買おうとしているのをファビオラに知られて、狼狽していた。



(恋物語を読む男性は、変だろうか? でもこの列には私以外の男性の姿もあるし……いや、他の男性は女性のお遣いで来てるかもしれないな……)



 ヨアヒムもファビオラと同じく、恋物語に指南を求め、だが門外漢のため何を選べばいいのか分からず、たまたま出来ていた列に並んだのだった。

 

(ファビオラ嬢に会えて嬉しいのに……恥ずかしくて振り向けない)



 顔を見て、話をしたバートが羨ましい。

 鬱々とするヨアヒムの後ろでは、まだバートが笑いを堪えていた。

 ヨアヒムのタイミングの悪さが、ツボにはまっているのだ。

 だがバートは、意外にもヨアヒムの胸中を慮っていた。

 

(後でちゃんと教えてやらなきゃ、凹みっぱなしになるだろうな。ファビオラ嬢は男性が恋物語を買うことに、嫌悪感を抱いていなかったって――)



 やがて購入者の列が動き出すと、ヨアヒムの番になり、ファビオラの番になった。

 それぞれが本を手にして、お互い軽く会釈をして別れる。

 二人の耳が赤かったことは、バートしか知らない。



 ◇◆◇◆



 ファビオラが本を胸に抱き、上機嫌で『七色の夢商会』へ戻ると、そこでは騒動が起きていた。



「ファビオラさん、開店準備をしていた売り子が気づいたんだけど……こんなものが今朝、店舗の壁に貼られていたらしいわ」



 そう言ってルビーが見せてくれたのは、罵詈雑言が書きなぐられた紙片だった。



『人工薪は危険だ!』

『目に見えない煤があなたを襲う!』

『すでに何十人もの死者がいる!』

『ただちに販売を中止しろ!』



 内容はどれも荒唐無稽なものだ。

 もし本当ならば、人工薪を長いこと使ってきたグラナド侯爵領で、同じ現象が起きているはずだからだ。

 しかし何も知らない人は、根拠のないこの文面を、信じてしまうかもしれない。

 ファビオラは癖のある筆跡に目を落としながら、溜め息をついた。



「営業妨害ね。そろそろ来ても、おかしくないと思っていたわ」



 この数年で、『七色の夢商会』の人工薪は、皇都を中心に広く普及した。

 今や商都に構えた店舗を本店とし、地方へ支店を出す話も持ち上がっている。

 あまりに盛況すぎて、従来の薪を売っていた店舗からは、嫌味を言われたりもした。

 そのときは商業組合が仲裁してくれて、事なきを得たのだが――。

 

「これは内容が穏やかじゃないわね」

「どう対応する、ファビオラさん?」

「まずは、従業員の安全確保が第一だわ。当分は警備を厳重にしましょう」

「朝に張り紙が見つかったということは、犯人は私たちが寝静まった、深夜に来てるんじゃないかしら?」



 店舗の三階では、ファビオラとルビーが共同生活をしている。

 その灯りが消えたのを見計らい、犯行に及んでいる可能性はある。

 ファビオラはルビーの考えに頷いた。



「じゃあ、私が徹夜で店舗の見張りを――」

「駄目! ファビオラさんには日中しっかり、仕事をしてもらわないといけないんだから!」



 全てを言う前に止められる。

 

「幸いなことに、私たちの店舗には用心棒がいるでしょう? 少しの間、夜の当直をお願いしてみましょう」



 ファビオラの介入を防ぐため、ルビーによって早々に対策が決定してしまった。

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