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第21話 玻璃の愛しき者たち。

 玻璃の帰路は、おぼろげな輪郭の商店街を抜け、おぼろげな色彩の集合住宅へと続く。
 その中で、玻璃の家のドアだけが妙に現実味を帯びている。鍵を回すと、中から元気な声が漏れ聞こえてきた。
 扉を開けた途端、五歳の娘と三歳の息子が飛び出してきた。「ただいま」という間もなく、二人は玻璃を見るや否や、騒ぎ立てながらリビングと走り去ってしまった。
「お帰りなさいぐらい言いやー」
 玻璃は姿の見えなくなった子どもたちに向かって、軽く叱るような口調で声をかける。
 いつもの習慣通り、リビング脇の椅子の背に(かばん)をかける。その動作には、家に帰ってきた安心感が(にじ)み出ている。
 キッチンに目をやると、エプロン姿の夫が背を向けて立っている。
「お帰り、曽我井。もう少しで完成だから、少しだけ待ってて」
 玻璃は返事をする代わりに、テーブルに目を向けた。そして、思わず息を()んだ。
大柳(おおやなぎ)くん、これ……なんなん?」
 テーブルの上には、まるで宴会場のような料理の数々、色とりどりの皿が、所狭しと並んでいる。
 大柳はエプロンで手を拭きながら、にっこりと笑って言った。
「担任に決まったんでしょ。おめでとう。お祝い」
 玻璃は一瞬驚いたような表情を見せ、ため息をついた。
「あんたも校長から聞いたんか」
喜多垣(きたがき)校長先生から電話がかかってきてさ。玻璃さんを支えてあげてくださいって」
「あーあーあーもー手回し手回し」
 両手で頭を抱え込み、玻璃はその場で右往左往した。
「喜多垣夜澄、まるで油断ならん」
 玻璃の脳裏に、自分より若く見える、年齢不詳の夜澄校長の顔が(よみがえ)る。心の中で夜澄が意味ありげに微笑(ほほえ)み、玻璃の苛立(いらだ)ちが増す。顔をしかめ、苦々しげに舌打ちをするほかなかった。
 玻璃は一呼吸置いて気持ちを整え、リビングを見渡した。長男の姿が見えない。
草平(そうへい)は?」
 と、玻璃が尋ねると、大柳は湯気の立つ料理を、中華鍋から大皿に移しながら答えた。
「飲み物の買い出しだよ」
 程なくして、飲み物の袋を抱えた草平が帰宅した。ぽっちゃりとして、まるで可愛(かわい)らしい、動物のキャラクターのような草平は、まだ学生服を身につけたままだった。
「草平、まだ制服着替えてへんの?」
 草平は玻璃の問いかけには答えず、無言でテーブルの上にペットボトルを並べ始める。千歩(ちほ)(さとる)も椅子の上に立ち、兄の作業を手伝おうと身を乗り出している。
「真面目やな。私なんて下校途中でさっさと私服に着替えてたのに」
 三人の子どもたちの姿を眺め、玻璃は我が子たちの愛らしさに、にやつきながら言った。
 ペットボトルを黙々と並べ続けたまま、草平が素っ気なく応じる。
「玻璃ちゃんと一緒にされたくない」
 草平の言葉に、玻璃は痛いところを突かれたように「ぐう」と声を漏らした。
 草平は玻璃が十四歳の時に出産した子だ。息子からそう言われては、返す言葉もない。
「だいたいさ」
 と、草平が切り出した。
「おーやんが家に来た途端に仕事辞めて、絵本作家になるとか言い出してさ」
 彼はさらに追い打ちをかける。
「絵の練習なんてしてるところ見たこともないのに」
 玻璃は次々と急所を突かれたかのように「うぐぐ」と声を漏らした。
「でも」
 と、草平が言葉を続け、少し照れ臭そうな様子を見せる。
「それよりはまあ……先生って格好(かっこ)いいから、いいよ」
 玻璃は思わず草平に抱きついた。
「草平! 大好きや! 草平!」
「うっざ!」
 草平は嫌がり、必死になって身をよじった。

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