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第19話 任命されたないわ。

「実だったら、好きなだけ食べていいんですよ」
 夜澄校長がそう言いながら、前に突き出した手のひらを広げると、中から毒々しい色をした実が現れた。その実の色彩は、まるで警告のように鮮やかで不自然だった。玻璃は、その実を冷ややかな目で見つめた。
()()()()()()()変な薬なんていらないんですよ」
 玻璃が、拒絶の意思を込めて言った。
「実って……名前すらついていないじゃないですか。少なくとも仮称くらいは付けるべきでは?」
 夜澄校長は柔らかな微笑(ほほえ)みを浮かべながら答えた。
「そのうち使わなくなるものですからね。おぼろげであった方がいいんです」
「私、怪しい合法ドラッグはやらないんですよ。一応、看護師さんの資格持ってるんで」
 玻璃は突き放すように言った。「看護師さん」と、まるで他人(ひと)事のことのように語る自分に、玻璃は自嘲の笑みを浮かべた。
 両方の世界の記憶を持ちながらも、前の世界のアイデンティティがより強く残っているからこそ、現在の立場を客観視しているかのようだった。
「それならまず禁煙なさいよ」
 夜澄校長が(あき)れたように言う。しかし、すぐに口調を変えて続けた。
「いいわ。曽我井先生、校長室までついて来てください」
 時間の流れは依然として止まったままだった。夜澄校長は玻璃に背を向けると、凍結した世界を抜けるように校舎の中へと歩み入った。
「やれやれ」
 玻璃はため息交じりに(つぶや)き、「まだ三パフしか吸ってないのに」と、不満そうな表情で電子タバコをケースに収めた。

 ――校長室。夜澄校長と玻璃は、ソファ向き合って腰を下ろしていた。
「は? 担任? 私が?」
 夜澄校長の予想外の提案に、玻璃の声は驚きで裏返った。対して夜澄校長は、穏やかな笑顔で玻璃を見つめている。
「いやいや、待ってください。うち、子ども三人いるんですよ。末っ子はまだ手がかかって」
 玻璃は焦りを隠せない様子で説明を始めた。この予想外の話をなんとか断ろうと、必死に言葉を探しているようだった。
「話が違うやないですか、ヨスミさん。保健室にいて、生徒たちの悩みを聞いて、()()()の状況をチェックする、そういう立ち位置で雇われたんやなかったんですか?」
 玻璃は身を乗り出し、まくし立て始めた。普段の落ち着いた雰囲気が消え、()のキャラクターが表に出ていた。
 玻璃の詰問に、夜澄校長もくだけた口調で応じた。
「緊急事態なのよ。モブ谷先生、いなくなっちゃった……というより、いないことになっちゃったから。代替えを配置しなきゃならないの。申し訳ないけど、玻璃先生以外に選択肢はないの」
 この世界から退()()()()ということは、周囲の記憶も含め、かつて存在していたという痕跡すら消し去られ、すべて書き換えられてしまうということだ。
 ()()()以外の者にとって、世界にとってイレギュラーな出来事は()()()()()()()()()日常の中に吸収されていってしまうのだ。
 しかし、モブ谷の替わりが自動的に現れる、などということは起こらない。
 教職員の中で自覚している者は、玻璃と校長以外にはいないはずだった。少なくとも屋上で皆、カチコチに固まって動いていなかったのだから。
「ねえ、モブ谷先生、どうなったん?」
 玻璃が尋ねた。先ほどの、モブ谷の最期の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
「モブ谷先生の体は既に回収されたわ。しかるべき場所に転送されるの」
 夜澄校長は一瞬言葉を切り、玻璃の表情を(うかが)うように見つめた。
「だけど、再生されて元通りになるかどうかは、不明」
「再生されたら、またここに戻ってくんの?」
 玻璃が、おそるおそる尋ねる。
「それはさせない」
 夜澄校長は表情を引き締め、毅然(きぜん)とした態度で言った。
「玻璃先生を危ない目に遭わせたんだから、ここには戻さない」
「ヨスミさん、黙って見てたん? ひど」
 玻璃は困惑しつつも、少し(あき)れたような口調で応じた。千里眼でも持っているのか。一体どこから見ていたのだろう。
「せめて家族に相談するまで、回答を待ってください」
 冷静さを取り戻した玻璃が、真剣な面持ちで申し出た。
「ごめんね。命令。明日からよろしくね」
「いや、めちゃくちゃやん!」
 玻璃は思わず声を荒らげてツッコんだ。

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