決戦の壱
1週間後。
おはようの会と歌のお稽古が終わり、わしはいつものように窓際の書物調査専用席に座っておった。
目の前には、“みにくいアヒルのこ”。
醜悪なアヒルちゃんわっぱが、実は美しいハクチョウさんだったというお話じゃ。
でも……。
ぶっちゃけわしは近寄った人間に襲いかかるというハクチョウさんの獰猛な習性を知っておるし、アヒルちゃんの親子がよちよち歩く姿がいと愛らしいことも知っておる。
……うーむ……
そう考えると、ハクチョウさんとアヒルちゃんの立ち位置が逆のような気もする。
なんか納得できないけど……まぁいいか。
この話の教訓は――?
大人になると、持って生まれた才能がものをいう?
子供の頃にいじめを受けると狂暴な大人になる?
こんなところか……?
他にも何か隠されていそうだけど――この話に関する調査は一時中断じゃな。
「佐吉? ちゃんと大人しくしてる?」
背後から寺川殿に小さく話しかけられたのじゃ。
じゃなくて、今日から寺川殿が復帰じゃ。
1ヶ月の故障者リスト入りにもかかわらず、先々週の金曜日から数えて中8日での復活登板。
プロ野球選手だったら、来季の年棒が倍に膨れ上がるぐらいの復活劇じゃ。
もちろんわしらが嬉しくないわけがない。
よくぞ戻って来られた!
と、両手を広げて寺川殿を迎え入れたい気持ちも十分じゃ。
朝寺川殿の顔を見た時、わしは実際にそれをやったしな。
そんで、そんな感じで奇跡の早期復活を果たした寺川殿が、前世の関係を匂わせながらわしに話しかけてきたのじゃ。
でも……。
こないだの“さんびきのこぶた”さんの件もあるから、ぶっちゃけわしが書物調査をしておるこの時間は寺川殿には邪魔されたくない。
意見を求めるわしに対して、焼肉の感想と人間社会の現実を語り始めたあの寺川殿となればなおさらじゃ。
とはいえ奇跡の復活劇を果たした寺川殿を、今日のわしがテキトーにあしらうわけにはいくまいて。
「んー? 見ての通り、大人しくしてるよう!」
なので、わしは5歳のわっぱにふさわしい笑みと、幼き雰囲気の言を前面に押し出しておくことにする。
しかしあれじゃな。
こういう時に武威を放ちながら近寄ってくるのは、本当にやめてほしいな。
こっそりと背後に回られるのも嫌じゃが、流石に武威はないって。
もちろん今日のわしはまだ何も悪いことをしてはおらんし、寺川殿が機嫌を損ねているという様子でもない。
なので寺川殿のこの武威がわしに対する敵対行為を表しておるというわけではない。
それは断言できる。
これはおそらく、歌のお稽古の影響なのじゃ。
寺川殿にとって実に5日ぶりとなる歌のお稽古。
久しぶりの戦線復帰だから、歌のお稽古にかける寺川殿の意気込みがいつもと違ったんじゃ。
とりわけ今日の歌のお稽古は、グル―ヴ感とビートのうねりがすさまじかった。
んで、今はそれが終わってからまだ四半時(約30分)も経っておらん。
寺川殿といえどもその興奮を即座に抑えきれず、武威を無意識に体から垂れ流しておるのだろうな。
さすればこの武威も仕方なし。
わしとして、幼稚園にいる時ぐらいしっかり武威を隠しとけと思うけど、まぁ寺川殿の武威は他のわっぱには感じ取れんし、今日ぐらいは良しとしよう。
と思っておったけど、そうじゃなかったわ。
「ならいいわ。このまま大人しくしてなさいね。いい? 絶対だよ? わかった? ね? そうでしょ? 約束だよ? そう思うでしょ?」
寺川殿……念を押し過ぎじゃ。
どう考えてもわしのことを危険人物扱いしておるよな?
アンド……
この武威はわしに対する脅しのためにわざと放っておるよな?
くっそ……。
おそらく寺川殿のこの警戒は遠山殿から仕入れた情報によるものじゃろう。
先週月曜日の円陣事件。
遠山殿があの件を寺川殿に伝えておるとすれば、過剰ともいえる寺川殿の警戒も納得じゃ。
あんちくしょうめ。最後に余計な置き土産を置いて行きよったわ。
ちなみに先週の月曜日の1件以来、血を見るほどの大きな戦いは起きず、わしらは比較的平和な日々を過ごしておった。
まぁ、ひまわり軍のやつらから園庭の遊具の使用権を奪われたり、室内練習場で故意にぶつかられたりしておったけどな。
でもわしらはもめごとを避けに避け、そのおかげで遠山殿が戦力外通告を受けるに値するほどの大事件は無かったのじゃ。
にもかかわらず、遠山殿は戦線を離れることになった。
その理由はシンプルじゃ。
わしらがあまりにもアウトロー過ぎて、遠山殿が根を上げたのじゃ。
まぁ、わしらは今まで寺川殿の歌のお稽古でストレスを発散させておったから、それをさせなかった遠山殿が悪いんだけどな。
ただでさえ特殊なわっぱの多いこの足軽組。あと足軽組メイトたちのストレスの蓄積。
この2つの状況が合わされば、繋がる結果は1つしかない。
足軽組崩壊じゃ。
徐々に苛立ちを見せ始める足軽組メイトたちが次第に遠山殿の言うことを聞かなくなり、2日とたたずに重度の足軽組崩壊が起きたのじゃ。
それで先週の週末に寺川殿が緊急招集され、週の明けた本日から彼女の戦線復帰が認められたのじゃ。
でも、この件についてはもう2人感謝しなくてはならん人物もおる。
片方はジャッカル殿の母上じゃ。
聞けば、寺川殿の早期復帰に1枚絡んでおるらしい。
わしが寺川殿の長屋に赴いた日、ジャッカル殿から話を聞いたのだろうな。
あんな事件が起きたにもかかわらず、幼稚園側から何の連絡もなし。
ところが自分の息子からはその件を聞いた。
あれ……? 幼稚園側、事件をもみ消してねぇ? と。
こんなん父兄としてブチ切れるのは当たり前じゃ。
それに加えて事件当時、ジャッカル殿は廊下であたふたする他の先生殿の無能っぷりもわしらと一緒に見ておった。
その旨をジャッカル殿から聞いていたとすれば、ジャッカル殿の母上はさぞかしご立腹だったことじゃろう。
なのでジャッカル殿の母上は幼稚園側に2つの要求をした。
PTA臨時総会の開催と、寺川殿の復帰じゃ。
PTAの方は、“役員会”ではなくて、“総会”じゃ。
役員会となると、由香殿の母上を囲むママ友一派が多数派になっちゃうから、旗色が悪くなるのは明白。
なのでジャッカル殿の母上は、全ての父兄が参加できる総会の方の開催を目論んだのじゃ。
おそらく勇殿の母上が役員会で反撃にあったという情報を事前に仕入れておったのだろうな。
いい判断じゃ。
でもPTAの総会を臨時に開くためには相応の人数による開催要求が必要らしい。
一軒家城の押し入れ深くにしまってあった“PTA規約”にそう書いてあった。
それを調べる時、一緒に探してくれた父上が隣にいるのを気にせず、わしはふむふむ言いながら漢字いっぱいの文章を読んでしまったけどな。
あの時のわしを見る父上の視線……まぁ、その件はどうでもいい。
臨時総会の話じゃ。
最初の壁は開催を要求する人数の確保。
でも1週間前の戦ではかなりの数の足軽組メイトが負傷していたし、彼らの父兄も黙ってはおらんだろうから、PTAの臨時総会を開くための人数の確保は難しくはなかろう。
と、ジャッカル殿の母上が知り合いの父兄に連絡を回しておったところ、ここで邪魔が入ったそうじゃ。
由香殿の祖父の圧力じゃ。
PTA総会を開催するとなると役員側が不利になるから、そんなものは認めるな。
PTAの会合が開かれるのは主に幼稚園内の部屋だから、それの使用を断れ。
と、こんな感じの圧力が幼稚園側にあったとのことじゃ。
往生際が悪い話じゃ。
まぁよい。
んでもって、もう1つの要求。寺川殿の復帰の件じゃ。
寺川殿が謹慎して遠山殿が代わりに来たその日に似たような事件が起き、さらには2回目の事件の方が被害の規模が大きくなった。
寺川殿から遠山殿に指揮権が移った後にじゃ。
それはつまり、遠山殿の指導力に問題があるということではなかろうか? と。
そういった理由を前面に出しつつ、ジャッカル殿の母上は遠山殿の戦線離脱と寺川殿の復帰を要求したのじゃ。
でも幼稚園側はこれら2つの要求に対し、煮え切らない態度に終始したとのことじゃ。
なのでジャッカル殿の母上はとりあえず寺川殿の復帰の件のみで手を引いたらしい。
……うん。
おそらくPTA総会の開催要求は、寺川殿の復帰を実現するための布石じゃ。
最初に高い要求を突き付け、後に妥協する。みたいな。
駆け引きの時によく使う手法を、ジャッカル殿の母上は使ったのじゃ。
いやはや、ジャッカル殿の母上も頭の悪そうなギャルっぽい身なりをしておるくせになかなかやりおる。
と思っておったら、ジャッカル殿の母上に入れ知恵したのはわしの父上とのことじゃった。
あの夜、わしの話を聞いて――あと、あの日わしは寺川殿の長屋に行った後ジャッカル殿の家にも足を運んでいたので、父上はそのお礼も兼ねた電話を入れつつ、その流れでジャッカル殿の母上をあおったらしい。
それが先週の火曜日。
わしとしては、(父上、もしかして矢面に出たくないだけじゃ……?)とか思ってしまったけど、父上はPTAの幹部どもを毛嫌いしておるので、あながち間違いではなかろうて。
PTA総会の開催には、事前に幹部どもと相応のやりとりをこなさねばならぬからのう。
あと我が家は母上がPTAに入っておるので、父上が表立ってPTAの運営に注文をつけれる立場でもないのじゃ。
なので父上は父兄ならだれでも出席できるPTA総会の開催要求をジャッカル殿の母上に実行させ、それが上手く行ったら母上の代理として出席しようと画策しておる。
数十を超える父兄に混じってのちゃっかり出席。
これならば幹部どもと私的に連絡を取る必要もないから、父上もやる気じゃ。
うん。そういうとこ卑怯じゃぞ、父上!
とはいっても、その前にわしら足軽組の身の安全を確保するため、寺川殿の復帰を優先させたのじゃ。
寺川殿の復帰が最優先。あわよくばPTAの臨時総会の開催。
そんな感じの優先度で話を進め、遠山殿のギブアップもあって、寺川殿の早期復帰を実現させたのじゃ。
んでんで……。
寺川殿と遠山殿。
本人同士の間には敵対する理由はなかろうから、円陣事件のこともしっかり引き継ぎしやがったのじゃろうな。
そのせいで、わしだけすっごい疑われておる。
寺川殿の長屋を訪れた時、わしは円陣事件の件だけ綺麗に報告内容から外したから、それを後になって知った寺川殿からなおさら濃い疑いを向けられておるのじゃ。
まぁここは表向きだけでもよいから、寺川殿の念押しに一応誠意を見せておくとするか。
「わかってるって! テラせんせーい!」
でもさ……。
わしだけここまで疑われる筋合いはないよな……?
どっちかってゆうと、寺川殿はわしが石田三成としての大人の価値観と判断力を持っていることも知っているんだから、ここは見境なく仕返しを実行しそうな勇殿たちに注意を向けるべきではないのか?
それなのに、寺川殿はわしにだけ集中して警戒を向けとる。
なんか腹立つな。
なので、わしは寺川殿の念押しに答えながら、最近身についた武威をちょっとだけ放ってみることにした。
「わかってない!」
そんで、わしの武威を感じ取った寺川殿が叫びながら即座にわしの右腕を掴む。
わしは手首を背中につける感じで肩関節をキメられてしまった。
「じょ……冗談じゃ……」
「ホントにやめろ。ホントだぞ。絶対だからな。でないと、てめぇの四肢きざむぞ……?」
挙句はわしの耳元で低い声を発する寺川殿。
立派な脅迫じゃ。
……じゃなくて、こういう点も含めて寺川殿の統率力は並みのものではない。
その証拠に、わしらの暴動も今日を境にきっぱりと収まっておる。
逆らうと痛い目見るからな。
今、実際に右肩がすっごい痛いわしが言うのじゃから間違いあるまい。
でも、寺川殿の統率力はそれなりに評価できることだけど、寺川殿とねね様が同一人物だということを知っておるわしとしては少し複雑じゃ。
今よりもはるかに劣悪な教育水準で育った前世のわしらを、我が子のように育ててくれたねね様。
あの時代のわっぱは、今とは比べ物にならんほど暴力的だった。
現代のわっぱがプロスポーツ選手にあこがれるように、あの頃のわっぱは侍にあこがれるのが普通だったから、喧嘩となればすぐさま暴力を用い、自身の武力を見せつけるのが一般的じゃった。
侍はそうやって戦国大名までのし上がっていくものだからな。
んで、殿下の城にはそんな輩が足の踏み場もないほどに行き来しておったのじゃ。
でも殿下はいろいろと忙しかったから、普段わっぱのわしらを面倒見てくれたのはねね様じゃった。
その記憶と、現世で得た幼稚園の先生としての経験。
同世代はおろか隠居間近のベテラン先生殿と比べても、寺川殿の統率力は明らかに突出しておる。
統率力を養う過程が、もはや卑怯と言ってもいいレベルなのじゃ。
と、わしが長浜の城の懐かしい記憶を思い出しながら肩の痛みに耐えておると、その時、腕をキメられて脅迫されておるわしを助けるべく、砂漠の冥界神が姿を現した。
「テラ先生? なにしてんの?」
ジャッカル殿じゃ。もちろんその後ろにはカロン殿たちもおる。
てっきり室内運動場の方に行っておったと思ったけど、帰って来たんじゃな。
まぁよい。わしに気を取られて背後に隙を作っておっただけに、その隙をつかれた寺川殿の顔がたいそう面白い!
「きゃ……な……何でもないわ。光成君とじゃれていただけよ!」
ぬけぬけとまぁ……。
「そうなの? 光君がなんかプルプルしてるけど……」
「だ、大丈夫よ! ね、ねぇ!? 光成君?」
「う、うん。プルプルする遊び……大丈夫だよ」
ここで寺川殿をかばうわし、いとかっこいい!
首を最大に回すことでなんとか視界の隅に寺川殿の顔を捉えてみると、寺川殿が(あ、ありがとう)といった視線を送ってきておった。
これで寺川殿に貸しが1つ増えたな。
寺川殿の視線に対してわしが罪深き笑みを返しておると、彼女の背後におるジャッカル殿が三度、言を発した。
「それならいいけど……僕も光君に用事あって来たんだけど……」
ほう。わしに用事とな?
通常わしは書物調査をしておる時、“話しかけるなオーラ”を発しておる。
それでも気づかずに話しかけてくるわっぱもおるが、もちろん差し障りのない対応もしておる。
でも1年もこのような習わしを続けておると、いつしか書物調査中のわしに話しかけるわっぱはいなくなっておった。
たまに勇殿が事務的な用事を伝えに来るぐらいじゃな。
でも今日のジャッカル殿は珍しく、そんなわしに話しかけてきた。
先だって寺川殿がわしに話しかけていたことで、わしの“話しかけるなバリアー”が破られ、それでジャッカル殿たちも気兼ねなく話しかけてきたのじゃろう。
でも、そもそもわしの書物調査は一刻一秒を争う作業でもない。
“できれば静かに調査させてほしいけど、なんかあったら別に話しかけてもいいよ”程度の意気込みじゃ。
なので調査の途中に話しかけられてもそれほど嫌ではないのじゃ。
あと、ジャッカル殿たちも寺川殿から少なからず警戒されておるので、ここでわしとジャッカル殿たちがわっぱっぽい平和な会話をしておくことも重要じゃ。
それを見た寺川殿の警戒心が緩むかもしれないからじゃ。
(あらまぁ! この子たち、かわいらしい会話しちゃって! これなら安心ね!)
――みたいな!
いける! 絶対いける!
ジャッカル殿とそのような会話をして、寺川殿の警戒心を解きほぐすのじゃ!
わしはふと思いついた付加効果を画策しつつ、悪い笑みを必死に隠しながらジャッカル殿に答えた。
「ん? なぁに? どうしたの?」
しかし……
「うん。僕たち、室内運動場でフラフープしてたんだけど、ひまわり組の人たちに横取りされちゃったの。
だから教室戻って折り紙でもしようってなったんだけど……光君、折り紙上手だからちょっと教えてもらおうかなって」
ちなみに、わしは折り紙大得意じゃ。
今よりももっと幼き頃。幼稚園に参陣する前は、わしは野球を見ながら毎日のように折り紙を折っておった。
手元が暇だったのじゃ。
あとあの頃はこの体の細かい動きに苦労しておったという理由もある。
なんというか、細かい筋や肉の操り方が前世の体のそれと微妙に違うのじゃ。
意図せぬ力が入ってものを壊したり、逆に予想に反して力が弱くてものを落としたり。
その違和感をなくすために指先の細かな作業を訓練として行っていたのじゃ。
なのでわしは折り紙が大得意だし、手裏剣や兜は瞳を閉じても作れる。
今となっては独自の技術を発展させ、スカイツリーや国会議事堂を如実に再現できるレベルまで折り紙スキルを上げたしな。
でも去年の秋ぐらいかのう。
その噂が足軽組内に広まって、他のわっぱから毎日のように折り紙の講師を求められるようになった。
それがわしの書物調査に支障をきたし始めたので、わしは筋のよかったあかねっち殿に技術の全てを授け、折り紙道の一線から退く決意をしたのじゃ。
でも、たまにじゃが今でもこうやって師事を求めるわっぱもいるし、わしも現行の予定がなければ気兼ねなくその想いに応えるようにしておる。
惜しむらくは、今のわしはまだ今日の書物調査を終えてはおらんということ。
寺川殿という悪質な邪魔が入ったから、アヒルちゃんの処遇についてまだわしの分析の始末が終わっておらんのじゃ。
傍目には書物調査を終えて彼女と戯れておると見えるだろうけど、もう少し――あと10分ぐらい考える暇を与えてもらえれば、この問題にも結論が出せようし、その後ならば……なんじゃと!?
「ひまわり軍のガキども! まだ懲りないか!」
叫びながら即座に立ち上がり、室内運動場に行こうとするわし。
そんでもって、即座に取り押さえられるわし。
というか寺川殿に腕をキメられたままだったから、寺川殿がわしの腕と背中を机に押しつけるだけで、身動きがとれんようになってしまった。
「おい! 言ったそばから!」
寺川殿の怒った声が耳元のすぐ近くから聞こえ、わしは慌てて弁明する。
「ぐぐ……いや、待て。寺川殿……じょ……冗談じゃ。わしはしばらく大人しゅうしとる。しとるから……肩が……はずれ……」
「知るか! お前が私の言うこと聞くと誓うまで、この腕は離さ……」
「離してくれないと……明日の夜から2泊3日で寺川殿の長屋に押しかけるぞ? 日曜の夕方までたっぷりじゃ。毎食後に黒いしゅわしゅわ飲むためになぁ……。それでもいいのか?」
もちろん、ジャッカル殿たちに聞こえないように、この駆け引きは低い声で……
「ちっ」
案の定、わしの押しかけを嫌がった寺川殿はその手を話してくれた。
いや、待て。
前世では家族みたいなもんじゃったろう?
一緒に住んでおったじゃん。
なのに……わしのお泊り、そんなに嫌がらなくても……。
と、わしが思わぬ傷心をくろうておったら、寺川殿が低い声で反撃に転じた。
「本当に何もしないで。でないと、三原にあんたの素性ばらすわよ。前世の記憶をまるまる持った、異質な転生者。鎌倉源氏だけじゃなくて、いろんな勢力からお誘い来るかもね。まぁ、それら全てが平和的なお誘いならいいんだけどね!」
この外道、今のわしが最も恐れておることを平然とぬかしおったわ。
さすればこのへんでわしが屈しなくてはなるまいて。
「うん。わかった。テラせんせーい? 僕、おとなしくしてるねぇー!」
こんな感じで若干毒の効いたわしらのじゃれあいは終わり。
わしの答を受け、寺川殿は満足したように離れて行く。
わしはというと、肩のストレッチを行いながらジャッカル殿に10分後の折り紙講習会の開催を申し伝えた。
「うん。わかった! じゃ、僕らで準備しておくね」
「よろしく!」
会話の最後、ジャッカル殿が元気よく言を発し、わしもそれに答える。
静かな時間が再び戻り、わしは窓の外に目を向けた。
おっ!
外におった農業三騎衆と目があったぞ!
今日は何をくれるのかな?
と思って口を広げてみたら、華殿が両手で大きなバツ印を描きおった。
くそ……まだ春の半ば……。
この時期に収穫できる実はないか……。
悔しい気持ちを心に覚えながら、わしは再び書物調査に戻る。
5分ほどじっくりと思考を進め、わしは大きく背伸びをした。
なんかあれじゃな。
途中で邪魔が入ると、集中力が切れてやっぱ勉学が進まなくなってしまうな。
アヒルちゃんは悪くない。
ハクチョウさんになってしまった子が悪の化身だっただけじゃ。
少し単純な分析になってしまったけど、今日のところはその結論でいいじゃろ。
とりあえずジャッカル殿たちには10分の待機を告げてあるし、でもそれまで残り5分ぐらいの余裕もある。
厠にでも行って、気分転換に顔でも洗ってこよう!
「ふぃーいぃ……今日のお勉強終わり! っと!」
わしは立ち上がって背伸びをし、書物を棚にしまう。
折り紙講習会の準備をしておるジャッカル殿たちに、先に厠に行ってくると告げ、わしは廊下に出た。
我が足軽組は平和。冥界四天王も農業三騎衆もいつも通りの日暮らしを送っておる。
だけど……。
「まぁ、軽く種もまいておかないとな……」
わしはにやりと笑い、いつも使っておる最寄りの厠を通り過ぎる。
幼稚園の城内においてわしらの足軽拠点から少し離れたところにある、ひまわり軍のわっぱがよく使う方の厠に向けて歩き出すことにした。