第4話 カースト
それから夏休みの間ずっと、健斗は「女の子になる準備」に全力を注いだ。家ではスカートを履いて過ごし、和葉から教わった「女の子らしい仕草」を一つ一つ身につけていく。最初はぎこちなかったけど、次第に手つきや歩き方が自然になってきた。
もちろん、真由にはこのことを秘密にしていた。和葉と真由が夏休み中に何度も会っていたのは知っていたけど、和葉には「女の子になること」を黙っていてもらった。すべては始業式での「サプライズ」のためだ。
――始業式で女の子になった自分を真由が見たら、きっと感激してくれる!
「えっ、健斗くんが女の子に!? しかも、私のために!? 感激!」――そうやって、真由がびっくりしてからの流れで付き合える、なんて妄想を何度繰り返したことか。
これで真由と一緒になれる……!そんな淡い期待を胸に抱きながら、始業式の朝を迎えた。
学校に着くと教室には直接行かず、まずは職員室へ向かった。そして、村中先生と一緒に教室へと歩く。緊張で心臓がバクバクしてるけど、今さら後には引けない。
教室の前で先生が立ち止まり、こちらを振り返る。
「先に私が入って、事情を説明するから。そのあと、稲垣さんが入ってきてね」
先生がドアを開けた瞬間、さっきまで騒がしかった教室が一気に静まり返る。ピタッと音が消えて、ドアの向こうからは村中先生の説明する声だけが聞こえてくる。
「LGBTやトランスジェンダーというのは……」
その言葉が、閉じられたドア越しに微かに漏れ聞こえてくる。
やがて、ドアが開き先生が顔をのぞかせた。
「説明はしておいたから、稲垣さん教室に入ってきて」
教室に足を踏み入れた瞬間、クラス全員の視線が一斉に集まってきた。突き刺さるような視線に、足が震えそうになる。
――や、やばい、めっちゃ見られてる……!
頭が真っ白になりそうになりながらも、家で何度も練習したセリフを思い出す。けど、緊張で声が震えてしまう。
「え、えっと……お、女のこに……なりました、い、稲垣健斗です……。お、女の子になりたてで……あ、慣れないことも……お、多いけど……よ、よろしくお願いします……」
声がか細くなりながら言い終えると、教室全体が一瞬、凍りついたように静まり返った。
――おかしい。
夏休み中に参考にしたTSや性転換もののラノベや漫画では、女の子になった主人公が教室に入ると「キャー!カワイイ!」「男に見えない!」なんて声が飛び交うはずなのに。けど、現実は……静寂が続いている。
村中先生が口を開く。
「それではみんな、さっき説明したように、多様性を受け入れることが大事だから、変な目で見たり、いじめたりしないでね」
先生が話を終えた後、健斗は自分の席へ戻るよう促された。教室の前から3列目――その席まで歩く間、誰一人として声をかけてこない。席に座っても、まだ誰もこちらを見ようとしない。
――おかしいな……。
期待していたようなリアクションがないどころか、1時間目の始業式の後も、2時間目が終わった後も、誰も健斗の席に来ない。
――本当におかしい。
健斗は、てっきりクラスメイトたちが「いつから女の子になりたかったの?」「下着はどうしてるの?」なんて好奇心で質問攻めにしてくると思っていた。でも、誰も関心を示さない。誰も話しかけてこない。
3時間目の授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。古文の先生が慌ただしく授業を締めにかかる。
「えー、というわけで、尊敬語と謙譲語の違いは大事です。ここ、テストに出るから必ず復習しておくように。それでは授業を終わります」
「起立!礼!ありがとうございました!」
生徒たちが声をそろえて挨拶すると、古文の先生は教室を足早に出ていった。すると、その瞬間、教室は一気に騒がしさを取り戻す。退屈な授業から解放されたお昼休みの始まりだ。
教室のあちこちで友達同士が笑い合い、カバンを開けてお弁当を取り出す音が聞こえる。けど――健斗の周りだけは、相変わらず静かだった。
健斗は席を立つと真由の元へと近づいて行った。
「倉田さん」
声をかけると、真由がこちらに振り返る。
「ああ、稲垣さん。良かったね、女の子になれて。中学から一緒だったのに気付いてあげられなくてごめんね」
他人行儀過ぎる返事に健斗は戸惑いながらも、お昼を一緒に食べる誘いをしようとする。
「いや、いいんだ。そ、それよりさ、どう、い…」
「あっ、ごめん、私、売店に行ってくるから。早くしないと、売り切れちゃう」
真由は健斗の話を最後まで聞かずに、カバンから財布を取り出すと、逃げるように教室を飛び出していった。
健斗はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて周囲の女子生徒たちから鋭い視線を感じ取った。
――えっ、俺、なんか悪いことした……?
その視線の刺さり具合に、健斗は居心地の悪さを覚えながら自分の席に戻った。
すると、一人の女子生徒が静かに近づいてきた。三つ編みのおさげ髪に、黒くて太いフレームの眼鏡をかけた彼女。名前は……たしか、米川文恵。クラスメイトなのに、これまで一度も話したことがない。
健斗が戸惑っていると、文恵は小さな声で囁くように話しかけてきた。
「稲垣さん、ちょっと……いい?あっちで、一緒にお昼食べよう」
健斗はコンビニのお握りが入った袋を手に、文恵に続いて教室を出た。廊下には、明るく楽しそうな声が響いているが、それを抜けると一転、静かな非常階段にたどり着いた。
文恵は周囲を見回し、階段に腰を下ろす。
「ここなら、誰も来ないから。稲垣さんも座って」
「……ああ」
健斗も階段に腰を下ろし、お握りの包装を破ってかぶりついた。文恵も手に持っていたサンドイッチの包装をゆっくり剥がしながら口を開く。
「稲垣さん、さっき倉田さんに話しかけてたけど……あれ、ダメだからね」
「えっ?なんで?」
「だって、稲垣さん、4軍でしょ。倉田さん、1軍なんだから。4軍が1軍に話しかけたらダメなんだよ」
―——4軍?1軍?何のことだ……?
「その顔だと、分かっていないようね。カーストよ、スクールカースト」
「スクールカースト?」
「そうよ。もともと男子としても3軍だったけど、女の子になった稲垣さんは4軍からスタートね」
「4軍なの、私?」
健斗は卵サンドを頬張る文恵を前に、スクールカーストという現実を突きつけられ、ただ呆然とその言葉の重さを噛みしめるしかなかった。