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十四.残響

いつかの日、いつかの時間。俺は一人、小屋に向かっていた。彼女はなぜかいない。先に着いてるのかもしれない。もう歩き慣れた道を進んで行く。暑さは大分和らいだとはいえ、日差しはまだ痛々しく、汗がとめどなく滲む。風があるのが救い。運ばれてくる薫は、どことなく酸っぱく、苦い。青々とした草木のせいだ。人間には不快に感じるこの時期に、皮肉のように成長を続けている。虫達も懸命に叫び散らかしている。その叫びが自分達の救いになるのかどうかは、人間様には分からない。歩みを進める。命とは何のためにあるのか。
小屋が見えてきた。もはや実家である。ほぼプレハブであるそれは、他の住宅を嘲笑うかのように鎮座している。ふと隣の家、というか彼女が生活している家に目をやる。至って普通の家だが、俺は入ったことが無い。自室はどんな感じなんだろう、シャンプーやリンスは何を使ってるんだろう、と気になることは止まらないが、無理に覗きたいとも思わない。時が来れば、自然と入れるだろう。玄関先を横切る。小屋のドア前に立つ。この向こう側に入った時から、俺の人生は驚くほど変わった。自分以外の人間を理解し、その温かさを知り、自分自身を変えていった。もし彼女と会わなかったら、前までの俺では…
あれ?
俺、前まで、何に悩んでたんだっけ?何に困ってたんだっけ?大事なことだった気がするのに、思い出せない…
まぁ良いか。忘れるってことは、大した事無いのだ。そうに違いない。気を取り直して、ドアノブに手をかける。今日は何をしようか。依頼をチェックする、備品を管理する、部屋の片付けをする、コーティングをする、色々ある。新しいことも始めていこう。魔法文字、勝手に覚えてやろうかな。
ガッチャ
ドアノブを回す。
俺なら、
そう、
俺なら、できるよ。
キィィィ
ドアが、開いた。


暗い。
何も見えない。
何かがあるのかもしれない。だが見えないことには、無いのと同じだ。
コッ、コッ、
足音が響く。その響きが、空間の虚しさを象徴する。
コッ、コッ、
彼女は歩く。疑問を持たず、真っ直ぐに。
コッ…コッ…
足音が緩む。目の前に、視界を遮るカーテンが現れる。彼女は、ゆっくりと手を差し伸べ、カーテンを開いた。
ザッ、シャァァァ

ピッ、ピッ、ピッ、ピッ
カーテンが隠していたものは、人間。いや、人間と思われる何か。それは全身が分厚い包帯と布地で覆われている。顔も、指先も、爪先も。誰なのか、誰だったのだろうか。今では知る由も無い。包帯の隙間からは大小の管が痛ましく伸びており、傍にある多様な機械に吸い込まれていく。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ
機械が指し示すバイタル。これを人間だと証明する、唯一のもの。果たしてこれは人間なのだろうか。これは何のために生きているのだろうか。このまま生きていることが、これにとって幸せなのだろうか。生きるとは何なのか。命は何のために生まれ、何のために死ななければならないのか。
すっ
彼女がこれの腹に向かって手を伸ばす。布地の隙間から、小さな袋を抜き取る。その中には、微かに光を持つ欠片。虚しく悲しい黄色が目に映る。彼女はそれを仕舞い、懐から別の小袋を取り出す。中には何が入ってるのか。分からない。黒く深い靄がかかっているかのよう。それをさっきの場所に挿し入れる。
そして、彼女は踵を返す。カーテンを閉じ、道を戻る。
コッ、コッ、
足音がバイタルを上書きする。彼女は振り返らない。あれはまた、闇に消えていった。
彼女は外に出た。雲一つない晴天。日差しが無慈悲に降り注ぐ。風はしきりに熱気を運び、全身に浴びせられる。コンクリートの匂いがする。熱されて水分を奪われた、その残穢を感じる。虫はいない。誰もいない。その中で、彼女が大きく振り返る。
白くつばが広い帽子が、顔に陰を落とす。肩までかかる黒髪が、日の光を受けて煌めく。白いワンピースが、熱気を切りながらたなびく。白いサンダルが、しっかりと地面を捉えて、振り向く彼女を下支えする。
青みがかかった瞳が、陰に紛れて静かに輝く。
にたぁ
彼女は笑う。意地悪く。

「次はどんな夢を、見るのだろうね?」

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