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十三.ヴァージンロード

ぐしゅぐしゅ、ぐしゅ…
ばしゃばしゃ、ばしゃ…
はぁ、はぁ
ふぅ、ふぅ
ピピッ
ガッチャ
「入って。」
「お邪魔、します。」
ずぶ濡れの二人、ようやく家に着いた。時間にして三分余りだと思うが、もはや豪雨となった天候に、我らの服装は形無し。年末の雑巾のごとく水を吸っている。カズのワンピースなんて、たなびくことを忘れ、雨を吸って重たく垂れ下がっている。
ふぅー、ふぅ
カズの息が切れてる。早く休ませてやりたい。
「待って、タオル探してくる。」
「うん。」
しんなりしたカズを玄関に残し、スニーカーを脱いで上がる。靴下も気持ち悪いから脱いでしまう。ハンカチで足裏を軽く拭ってから、洗面所に向かう。靴下とハンカチをカゴに放り投げ、ラックからこれでもかとタオルを引き出す。
「これで良いか。」
駆け足で玄関に戻る。さっと廊下に一枚引いて、大きい一枚をカズに押し付ける。
「拭いてくれ、いっぱいあるから。」
「ありがとう。」
カズは帽子をタオルの上に置いて、髪の毛を静かに拭き始めた。せっかくの黒髪もたわんで見える。俺も拭かなくちゃ。
残りのタオルを端に置いて、自分も髪をわしゃわしゃ拭く。シャワー上がりと同等だなこりゃ。服も替えないと。
「タオル置いておくから、好きに使ってくれ。あと…」
ちょっと躊躇って、
「着替え、何か持ってくる。」
「?あ、え、う、うん。」
カズはちょっと目を丸くしていた。濡れたワンピースを着せたままにしておくのは論外。着替えは必須だ。自分の部屋に行き、さっさと自分の着替えを済ませる。パンツも替えてさっぱり。さて、ここから問題。カズに、何を着せるか。
脳内会議開催。
「着せるといったって、何があるんだ!男物しかないんだぞ、こっちは!」
「まぁ落ち着けって、男物でも着られるものはあるだろうさ。」
「ふざけるな!昔から着てた服しかないだろうが!俺の体臭が染み付いてるのしか、な、い、ん、だ、よ!」
「いっそのこと、お母さんのクローゼット漁っちゃう?」
「そんな日には死ねるな。母親の服荒らし、死後もその汚名は残るがな。」
「だから適当な俺の服しかないって。」
「下着もびしょ濡れだろうが、下着は要らないよな?」
ごくり
想像してみよう。あのワンピースの下に秘めた、肢体を覆う秘密の肌布を。きっとそれは今、水を吸って、卑しく秘部に貼り付いてるに違いない。
バチィィィン
自分の頬を鋭くビンタした。あまりにも不適切な思考を止めるためだ。頬の内側から血の味がしなくもない。
「い、要らない。」
「要らないだろ。」
「要る訳が無い。」
「上に着るものだけで良い。」
「そうだ。」
「そうしよう。」
「激しく同意。」
「それで、結局、何があるか。」
「うーん、無難に黒シャツ黒ズボンで良いんじゃ?」
「そうだな。」
「いや待て、生地が薄いと下着のラインが見えるかもしれない。それに俺とカズはガタイが結構違う。襟元から下着の紐が見える、何てことも考えられる。」
「良いじゃん、結構なことじゃん。」
「下衆が。その後のことを考えろ。無配慮な変態として、二度と口を利いてくれなくなるかもしれん。」
「それはきつい。」
「死ねる。」
「だから、もっと厚手の方が良い。」
「そうか。」
「うーん…。」
ピキーン
「体操服は?長袖の長ズボンの、上下。」
「は?センス、悪いだろ。」
「いや、悪く、ないぞ。悪くない。」
「うん、むしろ安牌だ。」
「厚手だし、風通しも吸水性も悪くない。濡れてる今着ても寒くなさそうだ。」
「確か全然使ってない上下があったな。」
「他のシャツを着せるより全然良い。」
「良いんじゃないの?」
「良い。」
「仕方無い。」
「異議無し。」
カンカンカン
「それでは、着替えを、体操服の長袖長ズボンに決定する!」
うおおおおおおぉぉぉーーー!
というわけで、あまり来てない体操服の長袖長ズボン、それに半袖体操服を持って行く。自分の濡れた服を洗濯カゴにシュートした後、それらをカズに渡す。ついでにリビングの隅から、母親が無駄に保管してる、何かを買った後の空袋の中から、丈夫で大きいのも渡す。タオルを踏んで進ませながら、脱衣所までオーライオーライする。
「すまん、こんなのしか無いが、そのままより良いだろう。ワンピースはここに入れれば良い。」
「…」
カズは黙ったまま、両手に抱えた体操服を見ている。え、何?やっぱ、着たくない?
ガーン
勝手にショックを受ける。許せよぉ。本当にそんなのしか無いんだよぉ。
「悪い、それ以外に着てもらえるのが無いんだ。でも嫌だったら…」
「え?!う、ううん、そんなことない、嫌だなぁ、そんなこと、あるわけないじゃないかぁ。うん、そうだ、ありがたく着させてもらうよ。ありがとうありがとう。」
そう?それなら、良いけどさぁ。脱衣所のドアを閉めてやり、外で待つ。何の気は無いが、両耳に血が集結し、聴覚が自然と鋭敏になる。聞こうとして聞いているわけではない。何かあった時のために、俺はこの場を離れるべきではなく、その都合上仕方無いのだ。そうなのだ。勘違いするな。
しゅ、しゅっ
ふぁっ、ぱさ
ドア越しに分かる、衣擦れの音。聞こえるたび、心臓から強く血液が全身に送り出される。
すぅ、ふぅ、はぁ、
びっくりした。俺の呼吸が荒くなっている。興奮してるようだ。無理も無い。ドア一枚隔てた先に、意中の相手の下着姿があるのだ。ふと、あの夢の女性と重なる。黒のレースだった。いったいカズは、本物は、どんな感じのを、こう、着けているのだろうか。
じぃぃっ
ばっ、とドアからさらに距離を取る。ジッパーを上げる音がした。長袖体操服の襟元のジッパーだ。つまり、着替えがもう終わるということ。
ガッ、チャ
「借りたよ、ありがとう。」
すっ、と俺の体操服姿のカズが出てくる。手には膨らんださっきの袋。白帽子が収まりきらず飛び出してる。
「お、おぉ。」
違和感極まり無い。長袖の丈は膝上まで届くかというところで、襟は顎にかかり、袖は萌え袖。長ズボンは足首で不格好にだぶついている。つい十分前まで白い帽子、白いワンピースに髪をなびかせ、世界のヒロインかのような佇まいだったカズが、ぶかぶかの紺色体操服に身を包み、髪は萎びてしまっている。実にあられもない、ないが、何で、何でだ?アリ、アリだ。ニヤける口元を押さえ込む。俺の体操服を着ているという異常性、雨に濡れた髪、肌、それに、走ったからか?顔もはっきりと赤くなってる。ともかく、妙に色っぽい。
ハッ
いかんいかん、カズの体調のことを考えろ。相変わらず身体は冷えたままなんだ、何か、他には、
「そうだ、何か飲もう。こっち来てくれ。」
「ありがたいけれど、ご両親は?ご迷惑では、と思って。」
「大丈夫、二人とも今日出掛けてていないから。」
そう、と返事するカズの声は聞こえなかった。
母親の趣味の引き出しを開ける。葉っぱと粉が大量に入ってる。分からん。これで良いや。紅茶であろうパックを二個引き摺りだし、お湯を沸かす。カズはリビングのソファに座って、ぎこちなさそうに周囲を見渡している。
しゅっしゅっしゅっ
お湯待ち。今思えば、異性を家に連れ込んだのは初めてだ。同性ですら、最後に招いたのがいつだったか覚えてない。それが今、ずぶ濡れの異性に着替えを用意して、お茶を振る舞おうとしている。俺も成長したもんだ。
「クーラーちょっと入れてるけど、寒くないか?」
「いや、大丈夫…寒くないよ。」
やはりカズにさっきまでの元気が無い。しおらしくなっている。無理も無い。俺だって気持ちの整理がつかないでいる。せっかく、せっかくなのに。マグカップを用意する手に力がこもる。
ピィーーー
お湯が沸いた。カップにパックを入れ、お湯を注ぐ。二つ分。スティックタイプの砂糖も忘れずに持って行く。
コト、コト、ばさ
俺もカズの左横に座る。不思議な熱源が隣にあるのが分かる。
「ありがとう、色々してもらって。世話、かけるね。」
「大した事無い。」
格好つけて、紅茶をすする。
「あっづあぁ!」
勢い良過ぎた。唇と舌先を遺憾無く火傷する。ちくしょう、俺はいつもこうだ、詰めが、甘い。
くっ、ふっ
カズの失笑。いいよもう、笑ってくれればそれで。お前の気持ちが少しでも晴れるならそれで。
「イッセーは、優しいね。」
「あぁ、長所だ。」
ふふっ
「そういうところも、だよ。」
何だ、それ。
口にする前に、
すっ
左頬に手が伸びてきた。
く、ぐいっ
その手が、俺の顔を右に向かせる。
あっ
カズの、顔。今までで一番近くにある。前髪が俺のおでこをかすめる。瞳には俺の目が映って見える。口から吐息がかかる、俺の、口に。
激しく鼓動する心臓も気にならない。瞬きもしない。
唇が、光っていた。
ぐっ
首を伸ばし、行った、自分から。
ちゅっ、ん
はっ
唇に、唇で触れに行った。触れて、すぐ離れた。堪らなかった。それ以上は無理だった。約一秒の淡い時間。それでも長かった。確かにこの唇に感じた、カズの、夢にまで見た、唇。あれ、これ、現実?リアルな夢?良く分からない、けど、頼む、もう、現実であってくれ…
ぽろ、ぽろぽろ
涙が出てきた。現実、現実じゃないとやだ。やだやだ。ここまで来たんだ。カズと一緒に頑張ったんだ。ちゃんと人間らしく、生きてきたんだ。目を両手で拭う。それでも、指の隙間から、思いの丈が溢れ出る。
ぽろぽろぽろ
夢なんて絶対やだ。報われたい。結ばれたい。幸せになりたい。なぁ、
カズ、
「夢じゃない、よな…?」
ふと、言の葉が漏れる。すると、
すっ
また頬に手が伸びる。
ぐいっ
さっきより強く引き寄せられる。ダメ、俺の顔、涙も鼻水もちょちょぎれて、まるで赤ん坊みたいにみっともないから。慌てて手で顔を隠そうとする。
ガッ
?!手が、止められた。カズの手は俺の手首をがっちり掴んで離さない。いやぁ、いや。顔を引いて逃げようとしたが、
ずいっ
身体を俺の上に乗せてくる。もう、顔の逃げ場が、無かった。
ちぅっ
唇が吸われた。今度は、カズから。
んくっ、んんぅ、むぅ
今度ははっきりと、唇の感触が分かる。柔らかい。それで、熱い。互いの体温がどんどん上がってきて、唇が溶け合いそうなほどに燃えている。涙が垂れ、頬を伝って流れ落ちる。
んんっ、ぅうん
熱が脳まで届く。今何をしているのか、互いの境界線がどこなのか、考えられなくなっていく。
うん、ううん
うっ、んなっ、げぇ、わぁっ!
がばっ
思い切り離れる。
「な、ながぁいっ!」
げほっごほっ
急に叫んで咳き込んてしまう。溶けた脳でも分かる、さっきの十倍長い。目線を上げる。カズは目を伏せて、唇を指で撫でる。横顔は真っ赤に染まり切っている。
「夢、ではないだろう、全く…」
ブツブツ言ってる。俺は、とりあえずソファに座り直す。両目を拭う。涙は落ち着いた。鼻をすする。とりあえず紅茶を飲む。まだ熱い。カップを置く。
沈黙。目を合わせないまま、長い時間が流れていく。夢ではない、か。そうか。
「夢じゃ、ないんだな。」
「だから、そうだよ。そのために、もう一回、したんだから。」
カズが紅茶を啜る。ビクッと跳ねる。まだ熱いだろ。カップを戻す。なるほどな。もう一回、してくれたのか。俺を現実に戻すために。
「世話、かけるな。」
「そうだね、お互い様だよ。」
そうだな。波立った心が落ち着いていく。紛うことなき現実を、受け入れていく。あの夢より十倍良かった。理由は分からない。純粋な快楽だけ見れば、何も変わらないのかもしれない。だが雰囲気なのか、今まで築いた関係値ゆえか、とにかく、ずっとずっと良かった。唇に指で触れる。あぁ、俺は、幸せだ。
「好きだ、付き合ってくれ。」
何の滞りも無く言えた。もっと早く言うべきだったかもしれない。でも、良い。俺なんて、これで良い。
沈黙…かと思いきや、すぐに、
ふっ
あはっ、あはははぁっ
隣から大きな笑い声が聞こえる。真剣なんだけどな。
「はぁ、そうだね、今更だけど、そう言うことは言ってなかったねぇ、ふぅ。」
「そうだな。だから言った。」
「だが、私達は既に、世間一般で言う恋人以上の関係ではなかろうか?」
俺もそう思うよ。でも、
「形式的に、だ一応。」
「そうかい、大事かもね。」
「だな。」
沈黙。カズが紅茶を、一口飲んで、置く。俺もそれに倣う。熱さが少し和らいだ。ふぅ。
「私も好きだよ。」
「あぁ。」
そうかい。
「これからもよろしく頼むね。」
「こちらこそ。」
紅茶を飲む。ようやく味が分かってきた。苦いけど、甘い。

「全く君は、人の心というものを本当に知らないね、そこも勉強したらどうだい?」
「うるせぇって、負けたくらいでゴネるな。」
ふん、とカズが俺のベッドに寝転がる。ガキがよ。あの後、俺の部屋でゲームをしていた。兄弟の名残で、携帯用ゲーム機が二台に、ローカル対戦ゲームがあったから、それで勝負していた。当然、初心者が歴戦の猛者(対兄限定)たる俺に勝てるはずが無い。ルールも知らないうちからハメ技で連勝してやった。こういうのは手を抜く方が失礼だからな。あぁ気持ち良い。最近あれこれ悩んでたのが嘘みたいにスッとしたぜ。ざまぁみろ。カズが放り出したゲーム機の電源を切り、片付けていると、
ガタガタ
不自然な音がする。何してんだ?振り向くと、カズが横になりながらベッドの下に手を突っ込んでガサゴソしている。いやがる。
「何やってんだ、お前?!」
「何って、こういうところに、エッチなものを隠すのが定番なんだろう。」
あのなぁ。
「今時そんなとこに隠すやつ、いるわけねぇだろ。」
「おや、そうなのかい。なんだい、風情が無い。」
がっかりした様子で手を引きやがる。
「じゃあイッセーは、どこに隠すのかな?」
にたぁ、と意地の悪そうな顔を浮かべてくる。
「教えるか。」
「おや、その返事、少なくともエッチなものはあるんだねぇ。うんうん、イッセーもちゃんと男子高校生、なんだねぇ。」
「うるせぇって!」
カズの頭をはたく。
こんな感じで、さっきのキス、告白の趣もへったくれもない雰囲気になってしまったが、ワーキャーして楽しく過ごした。いつもと変わらないが、ほんの少し、さらに距離が縮まった気もする。いややっぱしないかもしれない。

やがて、夕方近くになった。
「そろそろお暇しようかな。ワンピースらをクリーニングにも出したいし。」
「そうか。」
引き止める理由も無い。これ以上は、追い追いな。今日でも、大き過ぎる進歩だよ。二人して玄関に向かう。傘を二本引っ張り出す。雨は勢いこそ衰えたものの、まだ小雨が降っている。
「駅まで送る。」
カズは、何か言おうとして、一旦口をつぐんで、そしてまた開き、
「ありがとう、お願い。」
本当に遠慮がいらない関係になったようで、大変嬉しかった。傘をさして並んで歩く。
「祭はちょっと残念だったね。でも雨が止んできたし、大丈夫なのかな?」
「まぁ、盆踊りはやるんじゃないか。」
「やる?」
「誰がやるか。」
「まぁイッセーはそう言うだろうね。私も興味はあるけれど、今日はやめておこうかな、こんなだし。」
体操服の袖をひらひらっとさせる。可愛い。一生着てろ。
「こんなとは何だ。」
「冗談だよ、ありがとうね。」
「あぁ。」
歩いて行く。駅までもう少し。胸が痛くなる。寂しい。
「明日も来ようかな?」
「やめてくれ。俺が嫌だ、もう楽しくない。」
「辛辣だねぇ。地元愛とか、無いのかい?」
「無いな。カズこそあるのか?」
「私も無いよ、特に。」
「だろ。」
「だね。」
駅前には人が戻ってきており、そこそこ賑わっていた。直に盆踊りが始まる。そしたら元の賑わいに戻るだろう。駅に着いた。電車の時間まで、あと十分。くそ。時間がズレれば五十分待つことだってあるのに。運命を呪う。ベンチに座って待つ。時よ、過ぎるな。
「この借りは、必ず返すからね。体操服は、洗って明日…は無理か。明後日かそこらに返すから。」
洗わなくても問題無いが。
「いや、別に、借りというほどのものでもない。呼んだのは俺だしな。」
「いや、さすがに恩を貸した気になって良いと思うけどね。」
「そうかね。」
「そうだよ。案内してもらったし、トマトも買ってもらったし、くじも引いてもらったし、それでそれで、タオルも貸してもらって、体操服も貸してもらって…」
ん?で、何?カズの目が俺を捉えた。
「それに、キスもされた。」
うっ
目を合わせられない。今更恥ずかしくなってきた。いややって良かった、良かったんだけど、なんかこう、もっとお淑やかに、優雅に出来た気がする。あんなしゅっ、ばっ、ってやるもんじゃ、なかったかもぉ。頭を抱える。
「どうしたんだい。この私の唇を奪ったんだ。胸を張りたまえ。」
「恥ずかしくないのかよ、お前は。」
「恥ずかしかったさ、もちろん。」
そう言うカズは、頬を膨らまして、目を細めている。どんな感情?
「最初にキスされたとき、」
がくっ
その話に戻るのね、やっぱり。
「嬉しかった。イッセーから来てくれたのが、特に。自分を包み込んでくれるような、そんな優しさを感じたよ。」
そんなふうに思ってくれてたのね。俺にはそんな意図、毛頭無かったが。
「でも、すぐ離れてしまった。短いよ、あまりにも。」
カズが俺を睨めつける。視線が痛い痛い。そこは俺も反省してる。ムードが、無かったな、一秒だと。
「それで、夢?それとも現実?なんておろおろしてるじゃないか。この野郎、と思ったね。踏ん切りがついて、だったらもう一回してやろう、という気になった。」
「すみませんでした。」
「長めにやったよ。しっかりとね。」
「誠にすみませんでした。」
「感想は?」
「素晴らしかったです。」
「よろしい。」
はぁ
溜息が出る。こんな調子じゃあ、しばらくはカズの尻に敷かれたままだな。俺が爆発的な成長を見せないと、リードを奪うことなんて出来やしない。されるがまま、でも良いんだけど、漢のプライドとして、たまには圧倒してやりたい。アキラさんにアドバイスでも、もらうかぁ。先は長そうだ。空を見上げる。立派な曇り空。太陽を覆い、辺りをすっかり暗くしている。雨が降ったからか、空気は少しひんやりしていて気持ちが良い。コンクリートが濡れた匂いが鼻をつく。子供の金切り声がどこからか響く。いつもなら眉を顰めるが、今日は気にしない。気にすべきことが多過ぎるからな。
「そろそろだね。行こうかな。」
もうそんな時間か。時計を見る。九分経ってる。早い。慌てて立ち上がる。ゆっくりと、改札に向かって歩くカズ。ちょっと後を追って、止まる。俺はこれ以上ついていけない。歯痒い。カズは改札を通り、ホームへ向かう、途中で振り返る。ありがとう。
「じゃあ、また。」
小さく手を振ってくる。それに応えて、左の掌をかっ開き、肘を起点にして大きく動かす。加えて大きめの声で返事する。
「じゃあなぁ。」
ふっ
カズの身体が少し曲がって笑い出す。どうだ、愉快だろう、俺は。また小さく手を振り返してくれた後、カズの姿は見えなくなった。左手を下ろす。もう立っていても意味が無い。右足を引き、綺麗に曲がれ右して、来た道を戻って行く。
「かーえろ。」
一人になってからの足取りはなぜか重く、ゆっくりとした歩みになった。背後の祭囃子が大きくなり、太鼓の音が増える。踊れ踊れ、踊り狂っちまえ。一人、俺は振り返らない。祭はもう終わった。

その夜。両親が帰ってきた。誰かが来たことはバレてない。食器は洗って戻し、余分なタオルも片付けておいた。紅茶が二パック減ってることなんて気付くはずも無い。何事も無かったように夕飯、風呂まで済ませる。父よ母よ、あんたらは知らんだろうが、息子は今日、さらに階段を上った。恐れるが良い。子供は知らぬ間に大人になるんだよ。その思いを秘め、自室に戻る。ベッドに転がると、カズの匂いがする、と思ったが、普通に俺の体操服の匂いしか残っていない。がっかり。スマホを手に取り、SNSを開く。一時間前に、カズからメッセージが来た。
『家に着いたよ。体操服は洗って返すから、心配無用。』
『分かった。』
これだけ!終わり!
ぼふん
枕に顔を埋める。もっと話を展開できるんじゃないか?でも疲れてるだろうし、俺から話を振って良いんだろうか?この状況、何がベストなんだ?考えれば考えるだけ分からなくなる。
タッタッ
何となくでメッセージを打ってみる。
『電話かけても良いか?』
送信しかけて、
タタタ
全部消す。分からん。また会えるだろうし、今あえて電話をかけるべきなのか、さっーぱり分かんね!スマホを放り出し、背伸びをする。
うーん、んん
はぁ
案ずるより産むが易し、と言うが、産んだ後をどうするかも考えるべきでは?と思うよ。一旦、歯磨きでもしよう。ベッドから降り、ドアノブに手をかけた。
ヒュポン
その瞬間、まるで閃光のように身を翻してベッドに転がり、スマホを手にする。メッセージだ、メッセージが来た。やはり、カズから、
『電話できるかい?』
エスパーかよ。怖いわ。笑顔で返信する。
『良いぞ、今。』
送ってから、十秒ほど。
ヴーーーンヴーーーン
わわっ。マジで来た、マジで来たぞ!直ちにスワイプ、電話に出た。
「やぁ。」
カズだ、カズの声がする。今はどんな顔しようが問題無い。ニヤケにニヤケさせてもらおう。
「今晩は。」
ニヤケながら返事したのでちょっと声高になっちゃった。
「そういや、電話で話すのは初めてかな。」
確かにな。何かあれば翌日対面で、それ以外はメッセージでやり取りしてたから、電話の必要性が無かったな。
「何か、新鮮だな。」
「そうだね、変な感じだよ。」
「で、どうした。」
「どうした、とは?」
「何か用があるんじゃないのか。」
「無いよ。」
ねぇのかよ。全くこいつは。
「無かったら、かけちゃダメかい?」
「ダメでは、無い。」
むしろいっぱいかけてほしいな。
「だよね。それにイッセーが、かけてほしいって思うころかな、と思ってね。」
「そうだよ。」
やべ、漏れちまった。まぁ良いや、隠さなくて。
「え。」
「声が聞きたかった。」
「…そ、そう。なら良かった。」
おや?俺の素直な好意に、面喰らったか?やっぱお前も、いっぱしの女子だな。
「風邪でも、引かなかったか。」
「全く大丈夫、元気だよ。仕事をする余裕もある。」
驚いた。こんな時でもやるのか。社畜じゃあるまいし。感心通り越して、心配だぞ。
「無理すんなよ。」
「気遣い、痛み入るね。ちょっと、ちょっとだけだから。」
「本気で、心配してる。」
思わず声が低くなる。こんな真剣なトーンで話すこと、あまり無かったな。カズは少し黙って、
「分かった。もうやめる。ありがとう、心配してくれて。」
「おぅ、俺に仕事回してくれなきゃ、金稼げないからな。」
「ふふっ、確かに、そうだね。」
楽しい。ベッドに転がりながら駄弁るのが、こんなに心地良いとは。毎日やりたい。いや毎日は鬱陶しいか。三日に一回はやりたい。
「仕事はまた忙しくなるのか。」
「どうだろうね。結局依頼が来るかどうかなんだけれど、まぁ今はそんな気配は無さそうだね。」
「じゃあちょっとはゆっくりできるか。」
「だと良いね、」
ううん、と背伸びする声が聞こえる。ここで、前から思っていたことを聞いてみる。
「なぁ、俺も彫れないのか。」
「ん?彫るって、あぁ、文字を?」
「そう。」
「文字を覚えたいって、つまりそういうことかい?」
「そうだ。」
「ふーん…」
返答に困っている。手放しで賛成できる感じではないんだな。
「難しいと思うよ。」
「だろうな。でも、出来るのならやってみたい。」
「その向上心は素晴らしいけれど、何せ習得するのに時間がかかるから。私も文字に触れてから三年近く経って、ようやく彫り始めたくらいだし。」
三年か。順当に行けば大学生。大学に通いながらカズの家に寄って仕事をする、なかなかきつそうではある。けど、何か良い方法を見出したい。
「イッセーなら一年で出来そうではあるけれど、受験とか進学もあるだろう。大学に行ったら、私の家に来るのも難しいだろう?環境がね、合わなくなってくる。」
「確かにそうだ。」
「だから、」
「だったら、」
遮って続ける。
「一緒に暮らすか。」
俺の考える未来では、もはやその方が効率的だ。
「カズ、大学は行くのか?お前。」
「ええ?あぁ、行こうとは思うけれど。」
「俺もその大学に行く。」
「へぇ?」
素っ頓狂な声が聞こえる。構わず続ける。
「それで、大学近くの下宿を借りて、そこを仕事場にするのはどうだ。俺もそこに住む。」
「…」
あれ、黙っちゃった。もしもーし?
ふぅーーー
息を吐く音がする。長いな。吐き切るのを待ってから、
「どうだ?」
と尋ねる。
「ねぇ、イッセー。」
一段と低い声。ビクッとする。
「な、何だ?」
「君は凄いよ。世間一般の心理的ハードルとか、そういうのが一切無いんだね。」
「おかしいか?」
「おかしいよ。私の心が弄ばれてる。」
そうなの?自覚無いけど。
「良いのかい?」
「?何がだ?」
「進学先とか、そんな感じで決めちゃって。私に引っ張られ過ぎだろう。イッセーにはイッセーの人生も、あるんだからね。」
「確かに、ちょっと安直だったかもしれない。」
「そうだろうとも。」
「だけど、もしそうなったら、幸せだな、とは思う。出来るだけ手伝ってやりたいし、一緒にいたいから。」
「…」
また黙った。いじらしい。
「おーい、黙るなー?」
「黙るよ、本当に。私をどうする気なんだい、もう。」
怒った口調だが、多分満更でもなさそうだ。やはりカズには、素直に伝えるのが一番効くな。
「まぁ今後のことはまた考えよう。文字は、余裕があったらちょくちょく教えてほしい。」
「敵わないな、もう。分かったよ。」
「観念してくれて、助かる。」
「本当だよ、全く。いつか、スコープをもう一台作ってもらって、二人してダイヤを彫る時が、来るかもね。」
想像してみる。机を挟んで互いにスコープを覗き、言葉も交わすことなく、静かにダイヤと向き合う。うん、悪くないな。
「あぁ、良いな。」
実現させるさ、絶対。俺ならできる。
それからも会話を続けた。学校のこと、家族のこと、その他たくさん。話すたびにどんどん胸が温かいもので満たされていった。今日はよく眠れそうだ。
「そろそろ良い時間か。仕事中に悪かった。」
「とんでもない、楽しかったよ。私もそろそろ寝てしまうから。言われちゃったからね。」
「あぁ、そうしろ。」
「うん。」
名残惜しいが、だからこそ次会った時が嬉しくなる、と思う。最後に、もう一言。
ふっ
息を短く強く吐いてから、
「お休み、カズ。」
「お休み、イッセー。」
柔らかい声がした。表情は分からないが、きっと笑っているだろう。スマホを耳から離し、電話を切る。その瞬間、ふら〜っときた。ベッドに仰向けになる。俺は随分満たされている。添い遂げる相手がいて、将来に向けた仕事もある。ただ進学先は考え直さないといけない。それから同棲の件も、親にどう話すか、慎重に検討すべきだ。自分の目の前に、新たな道が開けた。障害が山積みだが、大丈夫。一人じゃないから。俺のこれからの人生に、幸あれ。瞼に重さを感じ、そのまま閉じていく。
歯磨きしてねぇや。起き上がり、洗面所に急行しました。

しおり