妖しい尼僧
小日向に龍興寺という禅寺がある。かなり急勾配の坂を登りきった先にあり、徳川綱吉が母桂昌院のために建立した護国寺からも近い場所にあった。この日、吉保は一人の尼僧と会うために、およそ二月ぶりにこの寺を訪れた。
問題の尼僧は、一人仏の前で祈りをささげていた。尼といっても髪はおろしていない。まだ若い。事実二十二にして表情には、あどけなさも見え隠れした。
「殿!」
吉保の姿に気づくと、すぐに走り寄ってきて、その胸に抱きついた。
「この二月あまりに長うございました。よもや染子のことをお忘れかと……」
「忘れておるわけがあるまい。高々二月ではあるまいか」
「いえ殿には二月でも、私にとっては二年に感じられるほど長いのでございます」
女の名は飯塚染子という。京の出自で、一時期江戸城大奥にもいた。今こうして禅寺にいるのには、それなりの理由があった。
「殿、染子はこの二月ほど仏と対話しながら、考えていたことがありまする。人は死んだら一体どうなるのでしょう?」
と染子は、何事かを憂えるようにいった。その有様が、また奇妙な色気があった。
「何故かようなことを聞く?」
「恐ろしいのです。あのおり刺客の白刃が私めがけて振り下ろされた際の光景が、幾度も夢にでてきて……」
染子は、かすかに目に涙をうかべながらいう。華奢な体格をしている。もしこの女人が、今の桂昌院の地位に座ることになっても、恐らくその負担に耐えきれないので はあるまいか?
それほど染子は可憐な存在だった。そのくせ閨でのこととなると、別の染子がめざめた。あまりにも激しく乱れる様は吉保を驚かせ、また喜ばせた。その点、正室の定子が決してどんな時でも毅然として、女として風格を崩さないのとは対照的であった。
染子は京に生まれた。元々が下級貴族の娘であったといわれる。宮中で、今の大奥総取締の右衛門佐に仕えていたこともあったという。右衛門佐が江戸へ赴いた後は、近衛家の姫君・熙子に仕えることとなった。
やがて熙子は、後に六代将軍となる甲府宰相・徳川綱豊の元へ嫁ぐこととなる。その際は、染子も共に江戸に赴くこととなった。ところが綱豊のいる桜田館での生活にもようやく慣れる頃、かって仕えていた右衛門佐の強い要請により、江戸城大奥にあがることとなった。
ほどなく染子を信じられない事件が襲う。主である右衛門佐の伝言を伝えるため、将軍のもとを訪ねた際、誤って将軍の手が付いたのである。以前から将軍綱吉は、右衛門佐の背後に常に影のように寄り添う染子に、不思議な魅力を感じていた。そして染子は妊娠した。
これは綱吉にとっても、将軍家にとっても恥ずべきことである。
染子は外聞をはばかり、密かに大奥を出て上総国市袋村という場所で、綱吉の子を産むこととなった。ここは吉保の母の実家でもある。染子の出産の面倒は、全て吉保が責任をもつこととなったのである。そしてここで、染子と吉保の間に心の絆がめばえた。
染子は無事、嫡男の太郎を出産した。太郎は実は将軍の隠し子だったわけである。
しかし出産の喜びもつかの間、何者ともわからぬ刺客の凶刃が染子を襲った。その場は、吉保と配下の侍たちがしっかりと染子を守り事なきをえる。吉保には、刺客をさしむけた黒幕が誰なのか薄々はわかっていた。
ここで吉保は一計を案じる。綱吉に、染子が刺客の手にかかり命を落としたと、嘘の報告をしたのである。そして太郎は、表向きは吉保の子として育てられることとなった。
「よもやそなた、由希というおなごを存じておるか?」
吉保にはある疑念があり、ため息まじりに染子にたずねてみた。
「どちら様ですか? その方は?」
「知らぬならよい。いいかよく聞け、人は死んだ後も魂は残る。これは確かなことだ。いや、確かなものなど世に一つとてない。そなたも、そしてわしも、今の世に生きたという確証はないのやもしれぬ」
「それでは私がこの世に生まれ、生きて、殿を愛したということは夢や幻でございましょうや?」
と染子は、吉保の言葉を半分は理解できないながらも、聞き返した。
「わからぬ。ただ人の縁だけは次の世も、その次の世も続く。例え今の世でそなたとわし、この先いかなることがあろうと、まためぐりあい、苦楽を共にすることもあろうぞ」
「それでは次の世も、その次の世も殿を愛してもよろしゅうございますか?」
「もちろんじゃ。必ず来世で会おうぞ」
そのように優しい言葉をかけながらも、吉保はある異変に気付いていた。染子の背後にある襖が、染子も気づかぬうちに、いつの間にか開いていたのである。
吉保が染子のもとを辞去すると、そこに由希が立っていた。吉保はすでにわかっていた。そこに由希がいたとしても、吉保の他に誰にも見えないのである。現に背後に小姓が控えているが、まるで由希のことに気づいていない。
「よいかそなたにこれだけは申しておく。もし染子に何事かあれば、わしは腹切って果てて、魂は未来永劫そなたに祟るであろう」
と吉保は恐ろしい顔でいった。