あの夕暮れの教室で
「理由がないと人を嫌うことも好くこともできない。俺は卑怯者だ。」
一人の男子生徒が斜陽に照らされて赤黒く光る教室でこんなことを言った。顔には影がかかっていてよく見えない。体の輪郭は夕日が照らしてぼうっと光り、曖昧だ。
「なんだよ、ソレ。誰でも誰かを嫌いってことも好きってことにも理由があるんじゃないのか?」
僕はいぶかしげにそう答えたような気がする。
「かもな」
こんな会話を昔したことを帰りの電車に揺られながらふと思い出した。もうなぜそんな会話になったのか、だれとしたのか、いつしたのかも忘れてしまった。
あの時はニヒルを気取っているとしか思わなかったが今になって思えば彼の言葉は案外的を得ていたのかもしれない。僕たちはなんとなくで人を嫌いになったり好きになったりする。向けられる方からしたら理不尽ともいえる感情を多くの人は開き直れる。その方が健康的だ。
しかし彼はそれができなかったのだろう。開き直れなかったから何か理由をつけて自分を正当化しようとして、それすらも気休めどころか逆効果になってしまったのだろう。
一ノ瀬始は小学校で教鞭をふるうようになってからそのことを強く痛感させられた。子供の頃は先生は生徒、ひいては子供が好きなものだと思っていた。しかしいざ教師という立場になると当然あの生徒はなんとなく嫌いだというのはあり、そこに理想とのギャップや子供たちへの罪悪感を感じるようになった。
悟られてはいけない。そんなことを自然に思った自分にも、驚くほど自然に子供たちの前で「子供好き」の仮面をかぶれる自分にもひどく落胆した。始はそうしてやっと彼の言っていた言葉の意味が分かった気がした。
悟られないように接するのが日に日にうまくなって、だんだんとその子供が嫌いな理由をつけて自分を正当化していることに気が付いた日の夜、始は大嫌いな缶チューハイに手を伸ばした。鼻につくアルコール臭とそれをごまかそうとしているわざとらしいレモンの風味が不愉快で仕方がなかったがその時の自分にはそれがふさわしいような気がした。
夕日が赤黒く染めた教室の中で二人の生徒が話している。ただ淡々と、抑揚はないが無感情というわけでもない不思議な話声だった。
「俺はお前の感覚はよくわかんないけどさ、それって結局誰かと真摯に向き合おうとしてるってことなんじゃないか。」
「…そうか。そうなのかもな。」
佐々木雄一はいつだったかしたそんな会話に思いをはせていた。誰とどんな文脈でいつしたのかもおぼろげな記憶の中でその時の眼前が急に開けたようなとまではいわなくともなんだかすっきりした気分は鮮明に覚えている。突如、
「何呆けてるの?青鯖が空に浮かんだような顔をして。」
プラスチック製の深緑のかごを持ったロングスカートにTシャツの女にわけのわからない喩で声を掛けられさっきまでの考え事はどこかに消え去ってしまった。
「いや、少し考え事をね。というか青鯖が空に浮かんだら呆けた顔になるの?」
「知らない。どこかの性格の悪い本で中原中也が太宰を罵るのに使った語彙だってきいて使ってみたくなっただけ。」
雄一が彼女と出会ったのは大学生の頃していた三日間だけのイベントスタッフアルバイトの休憩室だった。その時も唐突に
「オレンジって果物と色どっちが先だと思う?」
と声をかけられた。雄一は戸惑ったが
「色じゃないスか?いやでも黄色がかった赤色の果実がオレンジだからオレンジ色なのかもしれないし、オレンジ色の果物だからオレンジなのかもしれないし。うーん、」
後で調べたら果実が先だった。
「そっか。」
彼女は淡々と抑揚のない声で返事したが雄一にはそれが少し嬉しそうに見えた。同時に彼女はその疑問に対する回答が欲しかったのではなくただ自分の何の生産性もないなんとなくの疑問に対して同じように考えてうなってくれる人が欲しかったのだと気が付いた。
それからこんな会話を休憩の度にするようになり、お互いになんとなくその時間を大切に思っていた。心の沸き立つような物もなくお互いにある程度距離をとってなんとなく一緒にいると気が楽で、別に何の会話もなくとも気にならないような、そんな二人だった。