第1話
祖母がテレビの電源を落としたのは、少年の心の平穏を乱させないためだろうか。少年は映像の消えた黒い画面を眺めたまま、身じろぎひとつしなかった。少年はテレビを見ているのではなく、己の内面に深く沈潜していたのだ。加害者が生きているという事実に、驚きとともにひどく心を掻き乱されていた。
相手の名前は今のところわからない。なんとかして知りたいと少年は望んだ。
険しい表情をしている少年の心情を察した祖母は、あまり事故のことは思い出さないで、これからどうするかをよく考えて、納得のいく答を見つけなさいと、たしなめるような口調で語った。
少年は適当に相槌を打ち、
また明日来るからねと言って祖母が病室から出て行くと、一人残された少年は、口元に手を添えて考え込んだ。そこへ、ドアをノックする音が聞こえたので少年は、どうぞと入室を促した。姿を見せたのは看護師だった。その背後に二人の見知らぬ男性がいた。白衣ではなくスーツ姿だったので、医師ではないのは理解できたものの、病院に似つかわしくない難しい表情をしていたのが引っかかった。
少年が口を開くより早く、そのうちの一人が声をかけてきた。少年の名前の確認だった。怪訝な表情で少年は、頷くことで相手の質問を認めた。困ったような看護師を押しのけるようにして、二人の男性はベッドに近づいて、懐から取り出した。警察手帳を。
訝しむ少年に、年配の刑事がここに来た経緯を語った。
少年が事故現場から救出された際、ドライバーは既に死亡していて、所持品を探したところ免許証が見つかり、ドライバーの名前が判明した。当初、事故の加害者と思われる男性は危険な状態であり、病院に運ばれて救急処置がおこなわれたものの、意識の回復を待つよりほかなかった。少年も同様で、容態は芳しくなかったが、意識が回復したとの連絡が病院側からあり、事故の情況を確認しに来た、ということらしい。
少年は刑事の質問にすべて応じた。誇張も想像も脚色もなく、客観的に、感情的になることなく語った。
受け答えしている時、その場に相応しくない
本当か、その刑事はその時ばかりは大きな声で尋ね返した。一瞬少年に目をやり、ふたたび小声で話をしている。もう一人の若い刑事を手招きして何事かを囁き、その刑事は少年に言葉をかけてから病室を出て行った。話し終えた刑事がスマートフォンをポケットにしまいながら、少年に近づいてきた。
話はまたいつか、と言って立ち去ろうとした刑事に少年は声をかけた。相手の男性、生きているそうですね、と。刑事はゆっくりと振り返って
さすがの刑事もその言葉にはおいそれと本当のことを話すわけにはいかないようで、守秘義務を盾にして言葉を濁した。
少年は、そうですかとあっさりと引き下がった。返事はもとより承知していたからだった。
それでは、と言って立ち去ろうとした刑事に少年がふたたび声をかけた。その人、どうなるんです、と。
先程も話したことの繰り返しになりますがと前置きして、刑事が語った。
我々には被疑者を裁く権利はない。証拠を集め、疑いが濃厚であれば検察に送致して、必要があると認められれば立件して司法が裁くでしょう。この場合、あくまで我々がおこなうのは被疑者の話を聞いて、送致するかを判断する。その際、話を聞くにしても、自白をさせるにしても、あくまで中立でなければならない。だから被疑者の権利を損なう行動は慎み、被疑者を一方的に庇うこともできない。そういう建前になっている、と。
最後の言葉は、少年に対するリップ・サービスか、あるいは本音なのかもしれない。
刑事は深々と頭を下げると、今度こそ立ち去ろうとした。ドアの前に立ち、開こうとした瞬間、少年はみたび声をかけた。今の電話はなんだったんです、と。さすがに刑事は気分を害したようだった。少年に振り返り、突き放すような口調で、また、いずれ近いうちに、とだけ応えて病室から出て行った。
少年は一人残された病室で、ベッドに横たわり、天井を見上げた。
加害者が生きている。その事実を確認できたのは充分過ぎる収穫だった。そう思った。そう思ってしまっていた。
なぜだろう。
自分の家族を事故とはいえ明らかな過失で死亡させた、その加害者がのうのうと生きているのは我慢がならなかった。そうだ、殺されたのだ。法律用語でいうところの過失致死という罪状ではないか。
なにか危険な香りをするものが、少年の心の奥底に生まれようとしていた。