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第1話

 暗い深い闇がどこまでも広がっていた。辺りを見まわしてみても一筋の光さえもなく、完全な虚無の世界にいるような感じがする。肉体の感覚がまったくなく、自我の境界が失われて、意識だけが、そこに自己の存在をかすかにつなぎとめる役割を果たしているように感じられた。
 自分を認識できているということは、ここに自分が存在しているたしかな証拠(あかし)だろう。しかし、身体があるべき像を、あるべき形をなしてはいなかった。そのために、自分がナニモノなのかも曖昧で、どのような身体的特徴を備えているかも不確かだった。
 自己認識の(コア)が自我に求められるのなら、その周縁部には身体の特徴、特質があるはずで、それが他者との違いを明らかにするのだろうが、今の自分にはそれがなかった。身体的特質の周りには、名前や生年月日や血液型などの情報が附随していて、それらが揃うことで、自分がナニモノなのかを認識できるようになる。しかし、今あるモノは自我のみで、己がナニモノなのかの情報が不足していて判然としなかった。だが、自分がナニモノなのかと考える自意識は存在していて、ナニモノなのかと探し求めている。この闇の中では自分がナニモノか、その根源的な疑念(とい)に答え得るのもまた自分自身でしかなかった。
 考えた。自分がナニモノなのかを。答は、単純にして明快だった。
 オレハ、オレダ。
 瞬間、周囲を取り巻く闇が消え去り、真っ白な暖かい光につつみこまれた。
 少年は目を覚ました。見開かれた眼前に見慣れない天井があった。ここがどこかを確認するために身体を起こそうとしたが、思い通りに動かなかった。腕の感覚はあるようだ。脚の感覚もそこにあるように感じられる。ただ、望んだ通りには動けなかった。
 少年は目を左側へ向けた。心電図モニターだろうか、医療ドラマなどで見たことのある機器が置かれていて、定期的に機械的な小さな音を発していた。
 目を天井に戻した少年は、声を出そうとしたが、思うようにはいかなかった。呼吸器マスクのようなもので口元が覆われているようだった。
 ここは、病院だろうか。
 そのように考えていると、慌てたように若い看護師が天井を遮るように少年を覗き込んで、なにか話しているのか口が動いていた。しかし、少年の耳にはなにも聞こえてこなかった。手脚の感覚と同じように、五感すべてが鈍っているのかもしれない。
 白衣を着用した若い医師が視界をふさいだ。ペンライトのようなものを手にして光を少年の目にあてた。眩しい。なにをしているのか、なぜそんなに慌てているのか、まるでわからなかったが、少年の名前を呼んでいる声が徐々に聞こえてきた。左腕の感覚も次第にはっきりとしてきて、おそらく看護師が脈を計っているように感じられた。
 ここがどこかわかりますかと医師が尋ねる声がはっきりと聞き取れた。
 そんなこと、わかるわけがない。ただなんとなくだが、ここが病院なのは間違いなさそうだった。自分の部屋とは異なる天井だったし、車の中でもないようだ。それに、医師や看護師がいるので、それは正しい認識だろう。
 瞬間、少年は目を大きく見開いた。
 そうだ、おれは家族と一緒に父の実家がある松本市に向かっていた。父が運転する車で。
 少年は思い出した。あの忌まわしい事故のことを。両親と妹の無残な姿を。その情景が鮮明な像となって少年の脳内を駆け巡った。
 胃の内容物が喉の奥から迫り上がってきて、堪えきれなくなった少年は嘔吐(もど)した。事故の様子が無音の静止画となってフラッシュ・バックを繰り返し、少年は錯乱状態になったようだ。医師がなにかを投与したような感覚が左腕にあった。意識が混濁して、ほどなく、消えた。

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