10
直樹の体が水に流されて行く。まるで物のように扱われるその姿を巫女さんだけはただ静かに見守り、神社があるだろう方角を睨む。そして、何を思ったのか涼佑に振り返り、「行くぞ」とだけ告げた。簡素で冷酷な言葉に残された皆は、「信じられない」と言いたげに彼女を見る。巫女さんの態度に、涼佑が噛みついた。
「ちょっと待てよ、巫女さん。今、直樹が死んだんだぞ? なのに、何だよ。その態度」
いつも温和な彼らしくなく、憤りのまま巫女さんの胸倉を掴む。乱暴に扱われているというのに、それでも巫女さんは顔色一つ変えずに彼を睨み上げた。
「なんだ、この手は。痛い、放せ」
涼佑の手を叩き落とし、襟を直す巫女さん。その行動を見ていくらか我に返った涼佑は自分の行動が信じられないようで、やや放心状態になっている。大人しくなった彼に、巫女さんは尚も冷たく言い放つ。
「ここで泣いていれば、直樹は喜ぶのか? 葬式みたいに暗くなってれば、この怪異は解決するのか?」
「そ……れ、は……」
違う。頭では分かっているのに、涼佑はそれでも今回ばかりは、彼女の言うことを飲み込むことができなかった。彼女の言うことを加味しても、涼佑は巫女さんのように割り切って考えることなどできない。
「でも……オレ、は…………」
その場に蹲りそうになった涼佑の胸倉を、今度は巫女さんが掴み上げる番だった。無理矢理立ち上がらされ、「そのまま膝を付いたら、死ぬぞ」と鋭く注意される。首元が締まって苦しげに呻く涼佑に構わず、巫女さんは自身の顔を至近距離まで近付けて言った。
「涼佑。前に話したよな? 他人を救うには……?」
「…………『考えることを諦めるな』」
「そうだ。分かったら、膝を付くな。もう一度、あの神社に行くぞ」
情けなく「分かった」と涼佑が答えたところで、真奈美達にも伝えようと、振り返った時だった。直樹が倒れた辺りの地面を呆然と見つめている絢。彼女の傍にいた真奈美と友香里を囲むように地面から青白い腕が音も無く、生えてきていた。それに気付いた友香里が小さく悲鳴を上げ、急いで絢の手を引いたが、絢は逃げようとしない。
「何してるの!? 絢! 早く逃げよう!?」
しかし、絢はその手を振り払って呟く。
「いいよ、先に行って。私、行かない……ううん、行けないんだ」
絢の様子がおかしいと思った友香里は、その表情を見ようと、彼女の前に回る。絢は絶望しているようで、何も無い地面を涙を流しながら、じっと見つめたままだ。真奈美は既に涼佑と巫女さんの許へ着き、なかなか来ない二人を心配そうに見ている。
そうこうしているうちに腕達は絢と友香里に迫り、もう数歩分しか互いの距離が無かった。もうなりふり構っていられない。判断してから友香里の行動は早かった。ばしんっ、と一発絢の頬を張り、普段の彼女とは思えない声を張り上げ、絢を一喝した。
「しっかりしなさいっ! 絢! 今はあんたの自滅願望に付き合ってる暇無いのっ! 本当に直樹君に悪いと思ってるなら、生き残って償いなさいよっ!!」
楽に死ぬより生きて償うべきだと言い放つ友香里の言葉と頬を走った痛みに、図星を突かれたと表情で語った絢は、打たれた頬を手で押さえることしかできない。「ほら、早く! 行くよ!」と友香里にそれでも手を引かれ、「う、うん……」と大人しく従った。
だが、そう悠長なことをしている暇は無かった。走り出そうとした友香里の足に腕が追いついてしまった。走り出しとほぼ同時に物凄い力で足首を掴まれ、体勢を崩した友香里は咄嗟にその勢いを利用し、絢だけでもと彼女の手を無理矢理引っ張って前へ押し出す。そのお陰で絢は何とか腕達から逃れることができたが、友香里は駄目だった。
「友香里っ!」
「いいから、行って! 早く!」
自分はもう駄目だと判断した友香里は、助けようと振り向こうとした絢の背中を押す。二人で無理をして逃げるより自分が犠牲になる方を選んだのだ。地面から更に伸びた腕達が友香里を包む。足首から始まり、太腿、腰、胸、肩と腕は巻き付き、魔の手から逃れた絢は真奈美に受け止められ、転ぶことは免れた。
「走れ! 友香里が時間を稼いでいる間に!」
巫女さんの声に急かされ、振り返る余裕も無く、また大粒の涙を流しながら絢は背後で友香里が倒れる音を聴いた。
誰もいない、霧で包まれた畦道を涼佑達は神社を目指して必死に走っていた。直樹も友香里も死んだ。もうこれ以上、誰のことも犠牲にしたくない。そうは思うが、自分に何ができる。そんな気持ちが頭を擡げ始め、止まりそうになる足を必死に動かして、涼佑達は真っ直ぐあの神社を目指した。その間も地面から生えてきた青白い腕は行く手を阻もうと伸びてくる。それらを避け、或いは飛び越え、或いは踏み付け、切り伏せながらも巫女さんを先頭に走り続けて、漸く廃村まで後少しというところまで辿り着いた。
ここまで来ると不思議と腕達は追って来ず、一先ず涼佑達はここで休憩することにした。ここまで必死に走って来たせいか、苦しい呼吸を整えることにかまけていて、絢も悼む涙すら出てこないようだ。魂だけの存在の筈だが、ここが夢の世界だからなのか、それとも違う要因があるのか、とにかく疲労は感じている。疲労を感じるということは、いざという時、動けなくなる可能性もあるということだ。そうして少し休んでいると、精神的に落ち着いてきたのか、絢がまたぐすぐすと泣き出してしまった。
「ご、め……ごめん……。私のせいで、ゆかっ……友香里、が……」
「絢のせいじゃないだろ。あの場合、二人一緒に助かるのは無理だって友香里が思ってやったことなんだから」
「誰のせいとか無いよ」と元気づける涼佑の言葉に絢はぼろぼろと涙を零しながらも、うんうんと頷く。今は誰かのせいにしている場合じゃない。今更、原因を探っても何の解決にもならない。感情的な部分とは切り離して、涼佑はそう割り切る。しかし、それもすぐにいや、と思い直した。あの時、絢が話を持って来なかったとしても、この怪異は遅かれ早かれ、きっと自分達に忍び寄って来るのだ。巫女さんの存在は怪異を呼ぶ。それは彼女自身でも制御することはできないのかもしれない。だから、誰も悪くない。そう結論付けて涼佑は周囲を警戒している巫女さんへ声を掛けた。少しだけ彼女ともう少し分かり合おうと思ったのだ。
「巫女さん……」
「どうした? もう少し休んだ方が良い。まだ襲って来る様子は無いが、これからの道も走るからな」
「そうじゃなくて、その……さっきは、ごめん。オレ、気が動転してて、どうしたら良いのか、分からなくて……」
「そうだろうな。いや、私の方こそ無神経で悪かった」
そう言って、ふ、と微笑んでくれる巫女さんに涼佑はいくらかほっとした。でも、と続き、「あんな言い方は無いと思う」と少しだけ涼佑が不満を述べると、巫女さんはからからと笑いながら、「いや、すまん。あの状況で身動きが取れなかったら、全滅の可能性があったからな。お前を怒らせる必要があった」とあっさりと答えた。
「怒りは悲しみや絶望を乗り越えるエネルギーになる。さっきはそれを利用させてもらった」
「嫌な思いをさせたな」ともう一度謝った巫女さんに、涼佑は自分が良いように利用されたと理解し、「じゃあ、三日間、お供え物のデザート禁止な」と僅かな抵抗を示した。それを聞いた巫女さんは「え゛っ!?」と思いの外、ショックを受けていた。せめてもの仕返しである。