5.「起きないとキスしちゃいますよ」
──それはオークションが始まる前日の事であった
オルゼオン帝国。
大陸屈指の大国であり、多くの優秀な人材を輩出してきた軍事国家。この世界における列強国の一つだ。
同じ大陸に存在する大国ヴィンフェリア王国と競うように覇を争っている。帝国拡大主義を標榜する彼女らにとって、他国への侵攻は当然の事だった。
だが、そんな帝国でも侵攻できぬ場所がある。
それがこの地、永世中立存在ラインフィルだ。ラインフィルは大陸の丁度中央に位置しているが、あらゆる国々から隔絶された土地となっている。
古代に存在した超文明の強大な防衛魔法と守護者がラインフィルの地を護っており、いかなる者も侵入する事はできないのだ。
その昔、とある国が侵略を試みた事があった。しかしその国はたった一日で壊滅し、地図上から消滅したという。
以来、誰もその地に攻め入った事はない。
だが、ラインフィルの地は侵略者以外の来訪者には寛容である。商人や冒険者などは自由に出入りしており、その者達の手によって様々な文化が発展している。
そのせいかラインフィルは多種多様の文化が入り乱れている。様々な人種の人間が暮らし、人間以外の多様な種族も共存していた。
また、その環境故に他所の国では手に入らない珍しい商品が多く流通しており、それを求めて各地より多くの人々が訪れる。
この場所で手に入らない物はない。
万病に効く神薬も、伝説の武器も、どんな願いも叶う聖杯も、そして…男ですらもこの地で手に入ると言われている。
そのため、ここを訪れる者は後を絶たない。
連日連夜開かれる怪しげなオークションには様々な国の富豪が訪れている。
しかし、ここに集まる富豪達は誰もが皆、ただの金持ちではない。各国の王侯貴族の子息令嬢、またはその当主本人なのだ。
ここでは国同士の争いは関係ない。帝国も、王国も、森林国も、機械国も、全てが平等に…無価値である。
彼らは自身の持つ財力や人脈を駆使して欲しいものを手に入れる。
ラインフィルという場所はそう言う場なのだ。
「う〜ん……」
そんなラインフィルにある貴族街の一角…。
貴族の中ではラインフィルに邸宅を持つ事が一種のステータスとなっていた。全ての物が手に入るこの混沌とした地は貴族には魅力溢れる地であったからだ。
その中でも最も広い敷地を誇る大豪邸。その屋敷の一室で一人の女性が天蓋付きのベッドで身体を伸ばして寝転んでいた。
その女性は二十代前半ほどの容姿をしており、その美貌はこの世のものではないかのように美しく、思わず見惚れてしまうほど。
しかし、その美しさは見る者に恐怖すら抱かせるような妖艶さを兼ね備えていた。
その女性の名はアイリス・ノーヴァ。オルゼオン帝国の大貴族、ノーヴァ公爵家の現当主である。
「んあぁ……もう朝ぁ……?」
彼女は大きな欠伸をすると、ゆっくりと起き上がり窓の外を見た。カーテン越しに射す朝日に目を細める。
そして彼女の造りものめいた美しい容貌が僅かに歪んだ。
「ふわぁ……まだ眠いわね。もう少しだけ…いや、お昼までゆっくりしてましょう」
再びベッドに潜り込む彼女。その様子はまるで猫のようだった。
「むにゃ…ふふっ…おはよう……。今日もいい天気にゃあ……」
彼女が寝言を言いながら幸せそうな笑みを浮かべる。その時、部屋の扉をノックする音が響いた。
「失礼致します」
ガチャリと音を立てて部屋に入ってきたのはメイド服に身を包んだ若い女。年齢は恐らく20歳前後といったところだろう。
その髪色は鮮やかな金色で、まるで太陽の光をそのまま染め上げたかのような美しさを放っている。
その瞳もまた、透き通るような碧眼で、彼女の美しい顔立ちをより一層際立たせていた。
「ご起床の御時間で御座います、お館様」
彼女は恭しく頭を下げた。その声は鈴の音のように澄んでおり、聞く者の心を癒やす。
だが、ベッドにいる彼女の主人にはその声は悪魔の言葉に聞こえた。
だから、彼女の言葉を無視して布団にくるまるようにして丸くなる。
「……」
「……」
暫くの間、沈黙が流れる。やがて根負けしたのか、彼女は諦めたように溜息を吐いた。
「はぁ、仕方ありませんね。奥の手を使いますか」
そう呟くと、彼女はベッドへと歩み寄る。そして、耳元で囁いた。
「起きないとキスしちゃいますよ」
その瞬間、顔を真っ青にしたアイリスがベッドから飛び起きた。
「や゛め゛ろ゛お゛ぉ゛ぉ゛!!!!」
その反応を見て満足げに微笑むと、メイドは言った。
「なら早く支度をして下さい。朝食の準備が出来ておりますので」
「おぇ、おえぇ…なんてキモい事言うのよこの腐れメイドは…うっぷ」
吐き気を堪えながら渋々と言った感じで身仕度を始めるアイリス。
その様子を見て、金髪の美女は苦笑いを浮かべた。
「流石にそこまで嫌がられるとは思いませんでした。私も傷つきました。まぁ、私も女なんかとキスなんかしたくありませんが」
「じゃあなんであんな事を言うわけ? 嫌がらせ?」
「もちろん」
悪びれもせずに言い切る彼女に殺意を覚えるアイリスだったが、今は我慢することにした。
この従者は一体ノーヴァ公爵家をなんだと思っているのだ。世界に名だたるオルゼオン帝国の最重鎮にして実質的に軍の実権を握ってる権力者、それが自分なのだぞ。こんな扱い許される筈がないではないか。
そう心の中で愚痴っている間にも、アイリスの着替えをさっとこなし瞬く間に着替えを終わらせる。
──この従者は、口が悪いのだけを除けば完璧な従者だ。
彼女の名はマリアと言い、アイリスが幼少の頃から付き従う古くからの関係だ。
見た目も、そして行動も洗練されたメイドのマリアはあらゆる事に精通し、そしてそつなくこなす理想の従者なのだ。
……しかし口の悪さだけは最低最悪の女だ。昔からの付き合いというのもあるが、それにしても限度がある。
アイリスはそんな従者マリアの事をいつかぶっ殺したいと思っているのだが、それが出来ない理由がある……。
「さぁ御屋形様。ブタのように怠けてないっさっさと御仕事に取り掛かって下さいまし。外面はともかく、内面はブタそのものなんですから油断すると本当にブタになってしまいますよ」
「……」
我慢だ、我慢……。そう、自分は女神のように心が広く、そして優しい公爵なのだから……。
眼の前の毒舌糞女とは違う……。アイリスは自分にそう言い聞かせると、無言で部屋を出る。
マリアもその後を追い、食堂へと向かう二人。
「それで、何か分かったの?」
「はい。例のオークションについてですが、どうやら明日開催されるようですね。出品される商品についても粗方判明しております」
「へぇ、相変わらず仕事が早いわねぇ。何が出るの?」
「はい。どうやらエルフの奴隷が出品されるとの情報が入っています」
アイリスの目が細く、そして鋭くなる。
「……へぇ?確かなの?」
「はい。情報屋によれば確かな筋からのリークだとの事。間違いないかと」
それを聞いてアイリスの顔に邪悪な笑みが広がる。それはまさに悪魔の如き表情であった。
巷で天使と評される彼女の外見であるが、その本性は苛烈な戦女神だ。
彼女の本質は、強者との戦いを求める戦闘狂であり、軍の長として冷徹な判断を下す冷酷な将軍でもある。
その二つを併せ持つ彼女はまさしくオルゼオン帝国最強の存在と言っていいだろう。
「ふふっ、エルフの奴隷…!それを手に入れれば森林国から宣戦布告させる事が出来るかもしれない……!」
アイリスは…いや、帝国は大陸に存在する全ての国を支配下に置く事を夢見る野心を持っている。そんな彼等にとって森林国との戦争は悲願なのだ。
エルフを主な種族とするレメゲスト森林国は小国ながらも豊富な資源を有し、また独自の文化を発展させている。
だが、天性の魔法使いであるエルフ達はレメゲスト大森林に引き篭もり堅固な防御魔法で国全体を覆い守っている。基本的に人間の国とは断絶状態にあるのだ。
これまでにも帝国は森林国を無理に攻めようとしたがレメゲスト大森林という自然の要害とエルフ達の魔法によって阻まれてきた。
故に、彼奴等をレメゲスト大森林から引き摺りだす必要があるのだ。
そこで白羽の矢が立ったのがラインフィルの地である。
この古代文明が興した聖なる場所は金さえ持っていればどんなものでも手に入る。あらゆる欲望が渦巻いているこの地には世界中から人が集まり、物が集まり、また更に人が集まるのだ。
そこに目を付けたアイリスはこの地を拠点として森林国を…ひいてはエルフを挑発する為に暗躍している。
今回のオークションでエルフの奴隷を手に入れれば森林国の野蛮人共の怒りを買う事が出来るだろう。上手く行けば戦争に発展する可能性だってある。そうなった時はこちらのものだ。
「ふふふっ、あははははっ!!」
思わず笑い声を上げるアイリス。その様子を見ながら、金髪金眼の女……マリアは冷ややかな視線を送っていた。
「まったく、外見はお綺麗ですが中身はドブ川のように濁っていますね。貴女様の笑顔は醜悪そのものですよ」
「アンタ本当に私の従者?」
「もちろんで御座います」
アイリスのジト目に臆する事なく微笑むマリア。その様子に溜息を吐くと、アイリスは言った。
「まぁ良いわ。それより明日のオークションへの出席だけど……」
「お任せ下さい。既に手筈は整えてあります」
「流石ね」
感心したように呟くと、二人は食堂へと足を踏み入れた。
食堂では数人の使用人が忙しそうに動き回っていた。皆一様に若く美しい女性達だ。
アイリスの姿を見た瞬間に全員が頭を下げる。それを見届けると、アイリスは満足気な笑みを浮かべる。
テーブルの上には既に料理が並んでいる。どれもこれも高級品ばかりだが、しかしそれが霞んで見えるほどにアイリスの美貌は際立っていた。
煌めく金色の瞳、絹のように滑らかな白銀の髪、シミ一つない白い肌、整った鼻梁に薄く色づいた唇。それらが絶妙なバランスで配置された顔は神が造形したとしか思えない程に美しい。
彼女が動く度にふわりと舞う髪からはシャンプーの良い香りが漂ってくる。その姿はまるで絵画のように美しく……しかし同時に淫靡でもあった。
そんな女神のようなアイリスは使用人が見守る中、優雅に席に座る。
「は〜どっこいしょ……」
「……」
面倒くさそうに座る自らの主人を見て、マリアは溜め息を吐いた。あまりの優雅さに吐き気がする。
お前は何処のおばはんだ。とてもではないが公爵位を賜る人物とは思えない。
『クソブタが……』と彼女は心の中で悪態を吐くが、なんかもう面倒くさくなったのでスルーした。
「そういえばお館様、一つだけ不確定な情報が」
マリアが紅茶を注ぎながら口を開く。
「ん、なに?」
「件のエルフの奴隷ですが、男か女かは未だ判明しておりません」
それを聞いてアイリスは目を丸くした。そして少し考え込み首を傾げる。
「いやアンタ…女に決まってるでしょ?流石にエルフの男みたいな本当のお宝がオークションに出品される訳ないじゃない」
「そうですね。私もそう思います。ただ、情報屋が言うには『性別不明』だそうです」
「ふーん。まぁ、あり得ないでしょうけど万が一、億が一にそのエルフが男だったら確実に森林国のエルフ達は怒り狂うでしょうねぇ。あははっ、楽しみ!」
アイリスはその光景を思い浮かべて笑うのであった。