蝸牛
その蝸牛は、自分の生まれた時のことをよく覚えていない。いつともなしに、木の上で暮らしていた。背中の殻はいつ背負ったものであろうか。それもまたこの蝸牛にとっては茫漠たる記憶の彼方の出来事であった。自己を自己とする自覚。それが芽生えた時には殻は蝸牛の分かちがたい一部としてその地位を確立していた。ある時はその中で眠り、ある時は背に乗せながら歩く。殻は薄い褐色に縦縞を浮かべ、軽快な旅の道づれとしてその役割を果たしていた。
蝸牛にとっての小さな棲処を殻とするならば、その大きな棲処はいつもいる木だった。苔むした樹木の表面は適度な湿り気を帯びていて、蝸牛にとっては実に居心地のいい場所だった。また、時間を掛けながら枝の先端にたどり着けば、葉を心ゆくまで食べることができた。
蝸牛は雨の日が好きだった。絶え間なく降ってくる雨粒は体を潤し、木や地面が濡れていると気軽に散歩をしに行くことができた。また、天気が晴れでも水たまりが出来ているうちは、その周辺をうろついて身体を湿らせるのがたまの楽しみだった。
蝸牛にとっての良き話し相手は蟻だった。蟻はいつも忙しく木の上を歩き回っていて、蝸牛とは全く違った性格をしている。だが蝸牛が話しかけるといつも気さくに相手をしたし、また反対に蟻から話しかけてくることもあった。
あるとき蟻がこんな話をした。
「蝸牛よ、お前、そんなに水が好きなら、ひとつ海にでも行ってみたらどうだ」
「海?」
「ああ。おれも噂にしか聞いたことがないが、なんでも水が沢山あるところで、その広さは果てもないそうだ。想像できるか」
「果てがないって、雨の日に出来る水たまりより大きいのかい」
「当たり前だ。甘く見ちゃあいけない。聞いたところによると、おれの巣やお前の木、ここら一帯の百倍の広さの地面をその海に放り込んでも、まだ余りがあるらしい」
「ふーむ」
蝸牛はそれを聞いて黙り込んでしまった。世の中には考えもつかないような水たまりがあるものだと思った。そんな大きな水たまりの端に行って水浴びをしながら景色を眺めるのはさぞかし気分が良かろうとも思った。
「よし、ひとつ行ってみるか」
これが蝸牛の出した結論であった。蟻と別れた後も、蝸牛はずっと海のことを考えていた。
思い立ったが吉日で、蝸牛はさっそく出発することにした。大体の位置は蟻に聞いていたので、方角に迷うことはなかったがあらゆることがこののんきな蝸牛には新鮮だった。草は至るところに生えていたので食うには困らなかった。ただ暑い日差しの照りつけるアスファルトは蝸牛の身を削るような固さと渇きを持っていて、それが蝸牛を苦しめた。そんな時蝸牛は海を思い浮かべて、その端で水浴びする自分を想像して気分を慰めるのだった。
やがて坂の上にさしかかり、蝸牛は遠く彼方にきらめく何かを見つけた。一面にきらめくそれは、あれが海なのだと蝸牛に確信させる何かを持つ一方で、あまりの大きさにそれが全て水なのだとはにわかに蝸牛は信じられなかった。しかし結局、
「ああ、あれこそが海なのだ!」
この感激が全てを押し流してしまった。
その時である。近くを通ていた軽トラックの荷台から、水滴が飛んできた。トラックは海で獲れた魚を輸送している最中であった。その水滴、つまり海の水が、あろうことか蝸牛に当たってしまった。
言いようもない苦しみが蝸牛を襲った。自分の命がまさにこの瞬間消えていくことを蝸牛は悟った。それでもなお、今際の際で蝸牛が考えていることといえば、自分のこの渇きと痛みを癒してくれるに違いない海のことなのだった。
三日が過ぎた。かつて蝸牛だったものはもうなく、唯一残った殻は奥の奥まで干乾びていた。風がころころと殻を運び、殻はただ無心に転がっていく。
いつしか殻は海へと落ち込み、波にゆらゆらとたゆたいながら、やがて見えなくなっていった。