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戦闘メイド、そして報告

 執務室の扉を押し開くと、擦り切れた装丁の古い本や随所に用いられた木材の香りがツンと鼻を突いた。部屋の中央と右には重厚な印象の木製の机が二脚据えられ、上にはインク壺と羽ペンが並んでいる。その脇には文書が山と積まれ、見るだけでこの先の多忙が察せらて気が滅入る。

 机の側にある窓には薄手のカーテンが掛かっており、換気で開け放たれた窓の風にゆっくりと揺れている。向こうに見える陽光を透かし、執務室の重苦しさを幾分か柔らかな印象にしてくれる。

「お飲み物をご用意致します」

恭しく礼をすると、トーマスが部屋から出た。



 扉が閉まり、俺は机と一揃いであろう上等な椅子に腰かけた。背骨と骨盤を預けると、一人でに溜息が漏れて瞳を閉じた。漏れ出た英気を補うように深呼吸をすると、木や皮とはまた違う、もっと野生的な臭いが微かに感じられた。

「ハティ容疑者、最後に体を拭いたのはいつだ?」

 執務室唯一の憩いの場と言ってもいい、革張りのソファに横になる彼女がどうやら怪しい。

「マック失礼。ハティ、毎日水浴びしてる」

 ハティの抗議を込めた熱い視線と俺の疑念を込めた冷めた視線が虚空で火花を散らした。直下の絨毯はその身に獣臭さを纏っているであろうことを思えば、俺の味方についてくれるはずだ。

 全くもって甘やかでも艶やかでもない男女の視線を断ち切るように、ドアがギィと軋んだ音を立てた。

「お待たせして申し訳ございません。果実水と菓子をお持ちしました」

 トーマスが盆にカップと茶菓子だろうか茶色い物を乗せて戻ってくると、漂う甘い香りが執務室の空気を蹂躙した。

「有難う。――こらハティ、お前の直属の上司にあたるトーマスの前で寝転んでいていいのか?」

「構いませんとも。後で言い含めておきますから」

 ホッホッホと好々爺の笑いを見せるトーマスだが、キュイジーヌ家の使用人の頂点に立つような男だ。まともであるはずがない。後でこってり絞るのだろうか。

「言って聞くような奴ではなさそうだが?」

「彼女は戦闘力を買われて雇われた特別なメイドです。給仕や掃除洗濯といった仕事は契約外なので問題無いのですが、弛みが目に余りますね……」

 片眼鏡の奥の瞳が、年齢を感じさせない覇気を発して光った。件の駄メイドは、神経を直接刺すような視線にゾクリと震え、縋るように俺を見つめている。

「よろしく頼む」

 俺は彼女を見捨てることにした。今後一緒に生活していくなら、ここで再教育を受けて矯正された、いわば”綺麗なハティ”と過ごしたいものだ。

「かしこまりました。――それにしても、道中大変だったとお聞きしました。まずは果実水をいかがですか」

「貰おう」

 果実水は葡萄の果汁を割ったもののようだ。仕事中にワインを飲むのは憚られるというのは理解できるが、その気遣いは専ら逆効果だろう。空しい気持ちを埋めるように茶菓子に目を向ける。バターの香り高いタルト生地に何か乗せて焼き上げられている。

 意を決して一口含むと、酸味を失ったキウイのような濃厚な甘みが広がった。続けて乳の香りと脆い触感のタルト生地が追いかけて来る。

 ――無花果か。タルト生地の出来は正直褒められたものじゃないけど、クリームは濃厚だな。カスタードか。アーモンドクリームが定番だろうけど、貴族に食わせる物じゃないってことだよな。

 タルト生地とカスタードクリームの濃厚さに、無花果の爽やかさの取り合わせがとても良い。惜しむらくは、生の無花果とアーモンドクリーム、またはチーズでも無花果の爽やかさが活かせただろう。

「おいしい!」

 ハティは満面の笑みで頬を膨らませている。水分の少ないタルトを果実水で流し、次を口に詰め込んだ。

「あぁ、なかなかイケるな」

 俺ならこうする、というポイントは多くあるが、それを指摘するのは礼を失する行為だ。実際、味は悪くない。今度キッチンで一緒に菓子作りに興じたいと思うくらいの完成度だった。

 食べ終われば億劫な仕事が待っている。勿体ぶるように時間をかけてタルトを食べると、書類の一枚を手に取った。




 窓明かりが赤くなる火ともし頃、ようやく山が片付いた。農地の拡大や河川工事の承認など、授与の儀で父上が不在にしていた間に滞った事業の決済がメインだった。書類の文字が夕闇に融け、その輪郭が朧げになると、マークスが立ち上がった。

「残りはオークの件ですが……。その前に明かりを点けましょうか」

 どこからか種火を持ってきたトーマスが壁の燭台に火を寄せると、淡い蝋燭の火が部屋の闇を払った。

「最初にオークの被害に遭ったのは、ライゼ村というキュイジーヌ領の端にある小村です。静かな森の中に拓かれた開拓村なのですが、オーク共は森から姿を現し、村人たちの耕作地を荒らし、家畜を襲っていったそうです。一体二体であればやりようはあったのかもしれませんが、凄まじい数であったらしく……。必死の抵抗も虚しく、生き残ったのは先に逃がされた数名の女子供のみでした」

「……そうか」

 ライゼ村の村民達が受けた苦難を思うと、胸を掻き毟られるような、腸が千切れるような、そんな思いがする。窓からは風が庭木を揺らす音が響き、夕日の赤さとは対照的に冷えた風が部屋を舐めた。

 トーマスは愁色を漂わせ暫く言い淀んだ後、報告の続きを喉から絞り出した。

「現在、ライゼ村跡を拠点とし繁殖していると冒険者から報告がありました」

 俺とハティは顔を見合わせ、息を呑んだ。

「報告資料によれば、オークにも多少の打撃を与えられたようだが、奴らは多産だからな。その上、魔物の成長は速い。オークのように知能の低い魔物は猶更だ」

 被害の報告が早馬で王都邸に届き、俺達が戻るまでに、ざっと見積もって一月強。ややもすればオークは減った頭数よりも増えた頭数の方が多いだろう。そう考えるのが自然だ。食欲を満たし、安全な寝床を得た生物の欲は残り一つしかない。余暇を楽しむような生物ではないのだから。

「そして、つい先日、ライゼ村跡を警戒させていた騎士の一人が殺されました。遺体は酷く損壊していたのですが、矢傷から毒が検出されたのです。人を超す体躯と膂力にまかせた蛮的な肉弾戦が、”通常の”オークの戦いです。――毒を扱う、これはオークの中に多少なり知恵のある個体が存在する、ということではないかと」

老執事の瞳は、焦りと不安、それから大きな怒りを内包し、その闇のような黒目の色を一層濃くしたように見えた。

「そうか……。烏合の衆を率いる可能性のある上位個体が産まれた以上、今後組織的に動くと思われる奴らの脅威は大いに増したわけだ。つまり、これ以上の被害が出る前に豚共を駆逐する必要がある、と」

 トーマスは無言で頷いて答えた。

 獣脂の蝋燭は肉の焼けるような香りを放っている。嘆息と共に壁に目を遣ると、キュイジーヌ領の特産品であるオーク脂の蝋燭が、俺達を煽るように揺らめいた。

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