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1-7 不思議な少女

「ねえ、ライ。この鉢植えの一つ、動かせる?」
「え?」
 
 鉢植えと一言で言っても、それは一メートル程の幅で、植木の大きさを合わせると六十キロ以上はありそうだ。普通の人間には引きずるのも難しいだろう。
 だが、蕾生(らいお)はこれを軽々と持ち上げることができる。この力は家族以外では(はるか)しか知らない。
 
「ちょっと動かしてよ」
「マジで言ってんの?」
 
 それは蕾生にとっては忌々しい秘密で、幼少の時から並外れた怪力のせいで散々な目にあってきた。永だってその現場にはいくつかいたはずだ。
 本当に隠しておきたい力で、永もそれはわかっているはずだし、今までに一度たりとも永は蕾生の力を頼ったことはない。ずっと隠し通す努力を一緒にしてきたのに。
 
 それを。
 今、ここで。
 やれと言うのか。
 
「──お願いだ、ライ」
 
 それまでに見たこともない真剣な表情だった。
 
 見たことがない?
 いや、ある。
 
 記憶にはないのに、この眼差しに出会ったことがある。
 
「──わかった」
 
 そうすればずっと拭えなかった違和感の正体がわかるだろう。永が初めて見せた表情の意味も。
 もうあの日常には戻れないかもしれない、そんな不安はあった。
 けれど永がそこに行くと言うのなら、自分は従うだけだ。それが蕾生には自然な感情だった。

  
 教室の机を持ち上げるような感覚で、蕾生は自分の背丈くらいの植木をプランターごと持ち上げた。人が通れるくらいの隙間を作って、静かに地面に置く。
 
「ありがとう」
 小さくそう言って、永は駆け出した。真っ直ぐに広場の中心、ガラス張りの建物を目指す。
 
「永!」
 蕾生も後を追って走った。不思議な気配をその建物から感じていた。何か、懐かしいものがそこにあるような。

  
 その温室の入口に着くと、永はためらいもせずにそのドアノブに手をかけた。
 鍵はかかっていなかった。滑らかに扉が開く。

 中は沢山の植物であふれていた。どこを見ても、緑、緑、緑。多くの木々や植物が太陽の光を受けて青々と輝いている、生命にあふれた空間だった。
 
 二人は少しずつ中へ進む。中央に大きな木が植えられていて、その下で一人の少女が小さなテーブルと椅子に腰掛けて、本を開きながら目を見開いてこちらを見ていた。
 肩ほどまで伸びた黒い髪はつややかに光の輪を描き、とても簡素な白いワンピースを着ている。
 
「リン……、か?」
 
 永の言葉に、蕾生は急に胸が痛くなった。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響く。
 
「ハル様、ですか?」
 
 少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
 
「そうだよ」
 
 永が答えると、少女は次いでその後ろの蕾生に視線を移す。
 
「では、そこにいるのがライですね」
 
「……ああ」
 
 永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな視線を向けて言う。
 
「何故、来たのですか?」
 
「なぜって、お前がいないと始まらないだろう。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」
 
 何が始まらないって?
 いつもより若いって、何?
 
 二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。
 
「ハル様、私はもう協力できません」
 
「──え?」
 
 突き放すような口調で、少女ははっきりと言った。
 
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
 
「な、に、言ってんの、お前?」
 永は動揺して、その少女に一歩近づいた。
 
「近寄らないでください。人を呼びます」
 
「お前、どうしたんだよ!何があった?お前こそどうしてここにいる?」
 
 詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットから取り出した防犯ブザーのようなものを鳴らした。
 
 途端に温室の照明が赤く点滅し、けたたましいサイレンが鳴り響く。
 
「リン!」
 
 戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言う。
 
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
 
 とんでもないことを言われたが、少女の雰囲気からその言葉に嘘はなく、また従わざるを得ない迫力があった。
 
「永、一旦帰ろう」
「馬鹿言うな!せっかく会えたのに!」
 
 こんなに狼狽している永は初めて見る。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
 
「早く!走って!」
 
「──クソっ」
 どんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
 
「離せ、ライ!リンが、リンが──ッ!」
 
 とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。
 出る直前に少女の顔をもう一度振り返る。そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。

  
「さよなら、少しでも平穏な人生を生きてください」

  
 その言葉に胸がひどく痛くなる。けれどサイレンの轟音に負けて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
 
 白い道路が見えるまで、振り返らずに。
 
 その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく粒を、見なかったことにして。
 
 蕾生は、逃げ出した。

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