第6話 日常が割れる音
「えー、以上が研究棟の中では主なものであります」
事務的な言葉で案内係の男性が締めくくると、一団の中には微かに溜息を漏らす人もいた。そりゃそうだ、と
副所長の講話から受ける壮大な印象のまま研究所の散策が始まったが、結果は期待外れのものだった。
分野ごとに分かれている研究棟を三棟ほど回ったが、どこもエントランスから先は通してもらえず、蕾生ですら期待していたバイオテクノロジー研究の植物だったり、複雑な名前の薬品を使った実験だったり、新生物研究のヒントだったり等の心躍るような光景には全く出会えなかった。
パンフレットに沿ってただ研究所内をウロウロしただけで、せめて庭木や花でも植えてあれば季節柄目にも楽しいのだろうが、それすらも見かけることは叶わなかった。
全体ががっかりした面持ちでいると、いたたまれなくなったのか案内係の男性は少し明るい声で皆に話しかける。
「では、最後に私共の食堂で昼食を召し上がっていただきます。今日は職員の中で一番人気の高いメニューをご用意させていただきました。サラダバーには当研究所が監修しましたドレッシングの全種類をご用意しておりますので、ぜひお楽しみください」
「サラダかあ……」
少し盛り上がった周囲とは逆に蕾生が肩を落とす。それを見た
「もう、ライくんもたまには野菜を食べないと。普段、肉と米ばっかりなんだから」
「家では食ってるよ。外食で野菜食べる意味がわからん」
「そんなんだからこーんなにでかくなるんだ? うらやましいわー」
ふざけて言う永の様子は普段通りだった。
講演会が終わって研究所の散策中も特に変わったことはなく、あの変な違和感も蕾生の中では薄れていた。
後は飯を食って帰るだけだ、とほっとする。こんな所はさっさと出て、いつもの日常に戻りたい。そう強く願っていた。
食堂に入ると、さすがに内部は普通だった。椅子もテーブルも簡素ではあるが、窓も研究棟に比べればかなり大きく、陽の光が充分に差している。
休憩に使う施設ならばこれくらいは最低は欲しい所だ。──病院の食堂の様な雰囲気だったとしても。
人気ナンバーワンと謳うだけあって、おかずは豪華だった。ハンバーグにクリームコロッケと唐揚げがつけ合わされている。それにご飯と味噌汁。サラダは各々好きに盛り、おかわり自由だと言うことだった。
「野菜がおかわり自由でもなあ……」
「文句言わないの。それからサラダを野菜って呼ぶのやめなさい」
蕾生がサラダを盛らないのは当然としても、永もサラダバーに向かう気配がないまま二人は席に着いた。
「永。サ、ラ、ダ、よそわねえの?」
わざとらしく言うと、永は小声で周りを気にしながら短く言った。
「ライくん、悪いんだけどできるだけ急いで食べて」
「は?」
「頼んだよ」
蕾生の返答も聞かずに、永は急いで箸を動かした。口に詰め込めるだけつめて、急いで飲みこむ。
蕾生にも目配せして「早く食べろ」と促した。
「なんなんだ……」
首を捻りつつも、それきり永は何も言わず黙々と食べ進めるので、蕾生もそうするしかなかった。だが、焦ったため途中で割り箸を折ってしまった。
そのパキッと割れた音は、周りの楽しげな雰囲気に一見紛れたようではあった。だが、蕾生にはその音が頭にこびりついた。
元から早食いが得意な蕾生はすぐに永を追い越して、あっという間に食べ終わる。
永も最後の一口を口に運んで、味噌汁で流し込んだ。周りはまだ和気藹々と食事を楽しんでおり、サラダバーには人だかりが出来ていた。
「静かに立って、静かに運んで」
「……」
永の後について蕾生も皿の乗ったトレイを返却口に出し、そのまま入口に向かう。永は静かな足取りで、けれど迅速に歩き建物の外へ出た。
「どこに行くんだよ? 解散の前に点呼とるから食堂にいてくれって──」
「シー」
口の前で人差し指を掲げて蕾生の言葉をさえぎった永は、小声かつ早口で言う。
「そう、ここからは時間との勝負」
「え?」
「こっち」
蕾生の疑問に答える暇もなく、永は研究所の歩道を早足で歩き出す。
周囲を警戒しつつ、通る人を見ると方向を変えて、誰にも見られないように歩き続けた。
碁盤の目のような道路が幸いしているのだろう、右に左に進路を変えながら二人は誰の目に留まることもなく進んでいった。
蕾生はついていくのが精一杯で方向感覚もよくわからなくなっていた。だが、永は進むべき方向を知っているかのように歩みに迷いがない。何かに導かれているようにも見えた。
急に白くて無機質な道路が終わる。先に続くのは舗装のしていない道路で、土が剥き出しだった。どう見ても部外者が入っていいような雰囲気ではない。
すぐに煉瓦作りの大きなプランターの列に突き当たった。中には成人男性ほどの背丈の木が植えてある。
その先に続く道の左右には頑丈な壁が左右に立っており、植木の上から辛うじて見えるのは、芝生の広場とその中央に立っている温室のようなガラス張りの建物。
あまりに違う景色に、蕾生は目を丸くして驚いた。