第八話 アメリカーノ
今日の繁華街はいつも以上に上付いた雰囲気が漂っていた。
祭りが終わって静寂が訪れることもなく、祭りの余韻を楽しむ者たちで、繁華街は賑わっていた。
「マスター」
男が、静かだった店の静寂を壊した。
店で静かにグラスを傾けていた者たちの視線が男を非難している。
男は、視線の抗議を無視して、勝手に指定席にしている席に座る。
「・・・」
マスターは、男の様子から冷えたおしぼりを差し出す。
「ありがとう。あれ?彼らは?」
「休み」
「そう・・・。彼らは大丈夫?」
「質問の意図がわからない。大丈夫だから雇っている」
「それが聞けたら十分だよ。そうだ、マスター。アメリカーノをお願い」
「わかった」
マスターは、カウンターに、カンパリとスイート・ベルモットを置いた。
グラスに大きめの氷を入れて、数回ステアする。
氷を取り出したグラスに今度は形を整えた氷を数個入れてから、カンパリとスイート・ベルモットを同量注いだ。
男に見えるような位置で、液体がしっかりと混ざるように、ステアする。
冷えた炭酸水でグラスを満たしてから、炭酸が抜けないように軽くステアして、レモン・ピールを添えて男の前に置いた。
「アメリカーノ」
男は、赤く奇麗な液体が入ったグラスを持ち上げて、ライトに翳す。
「マスター。明日は?」
「休みだ」
「明日。ひとりの女性が来ると思う。”注文ができない”と思うから、アメリカーノを出してほしい」
「・・・。わかった」
「彼らも同席させてほしい」
「・・・。わかった」
アメリカーノを喉に流し込んだ男は、懐から封筒を取り出して、カウンターにおいて立ち上がった。
「明日は、来られないけど、彼女が辿り着けたら相手をしてあげて、時間通りには来るとは思うけど、少しくらいの遅れなら許してあげて」
「わかった」
男は、依頼だけ告げて店から出て行った。
店の中に残っている人たちは、マスターの男の関係を知っている者たちだけだが、静かに二人のやり取りが終わるのを待っていた。
【バーシオン】には、いつもの静寂が帰ってきた。
話声は聞こえるが、闇に消えていくように聞こえなくなる。注文する声と、マスターが作るカクテルが奏でる音を聞きながら、闇を楽しむ者たちが集っている。
翌日、マスターは”貸し切り”の札を掲げて店を開けた。
注文はわかっている。
男から渡された封筒には、1cmの札束と資料が入っていた。
マスターは札束から3枚の1万円札を抜き取って、アルバイトとして来ている男に渡す。
「マスター?」
「リブートに届けてくれ」
「わかりました」
アルバイトの男は、マスターから無造作に渡された封筒を大切な物を扱うように受け取り、ロックがかかるカバンに入れる。マスターから鍵を受け取り、ロックをしてから鍵をマスターに返す。
開けるのには、リブートを回している弁護士が持つ鍵で開けることになる。
「マスター。封筒の中に、資料が入ったままでいいのか?」
どこか片言の日本語だが、しっかりと意図は伝わる。
「大丈夫だ。そのまま、美和に渡してほしい」
「わかりました」
アルバイトの男は、もう一人の男と話をしてから、店の奥に入っていった。裏口から外に出て、リブートに向かう。
残っている男は、マスターから指示されて、店のボトルを磨いている。
マスターがグラスを磨く手を止めた。
男も、ボトルを磨いている布を隠して、正面を向いた。
三秒後。
店の扉が開いた。
「あの・・・」
扉から顔を出したのは、まだ幼さが残る女性だ。
資料では、23歳だと書かれていた。
「どうぞ、カウンターにお座りください」
ボトルを磨いていた男が、女性をエスコートするようにカウンターに座らせる。
「あの・・・。私、こういう所・・・。初めてで・・・」
「大丈夫ですよ。バーは、お客様に楽しんでもらう場所です。お気になさらずに」
「ありがとうございます。それで・・・」
「うかがっております」
女性は、カウンターに座ってからも、周りが珍しいのだろう、キョロキョロと見ている。
「お酒は飲めますか?」
「はい。あまり飲めませんが・・・」
「わかりました」
マスターは、頼まれていたように、アメリカーノを作る準備を始める。
女性の様子から、炭酸水をいつも使っている物よりも、炭酸が弱めの物に変えた。
カクテルを作るマスターの手元を女性は凝視するように見ている。
レモン・ピールを浮かべたグラスを、マスターが女性の前に置いた。
「アメリカーノです。炭酸は弱めにしてあります。ゆっくりお飲みください」
女性は、赤い液体で満たされたグラスを持ち上げた。
「綺麗・・・。マスター。このカクテルの名前をもう一度、教えてください」
「はい。アメリカーノ。カクテル言葉は、『届かぬ想い』です。イタリアで作られたカクテルです」
「へぇ・・・。アメリカーノという名前なのに、イタリア生まれなのね・・・。私みたい・・・」
「はい。使われているボトルも、イタリア産です」
「本当に・・・。私みたいなカクテル」
女性は、赤い液体を見つめながら呟くように言葉を発した。
そして、グラスに赤い唇を付けてから、グラスを傾ける。
「おいしい」
「ありがとうございます」
「マスター。話を聞いていただける?」
「もちろんです」
女性が語った話は、マスターたちは書類で知らされている内容だ。
違うのは、女性目線での感情が追加されていることだ。
女性の両親は、正規の手続きで日本に移民として認められた人物だ。
両親は、若いころに祖国を追われて、日本に流れ着いた。他の国では、両親のもともとの身分が邪魔をして、入国さえも拒否されてしまっている。日本での移民申請の難しさは世界でもトップクラスだ。彼女の両親は、正規の手続きで移民として認められた数少ない例だ。日本で日本語を覚えて、誰もやりたがらないような仕事も率先して行って、移民から日本に帰化した。
日本人として、会社を設立して小さいながらも生活が安定してきた時に、できた子供が彼女だ。
両親が40半ばをこえた時にできた子供だ。
子供は、祖国の血を色濃く受けていた。
彼女は、日本で産まれて日本で育った。
そんな彼女が恋する相手も日本人だ。
彼女の両親も彼を認めて、彼も彼女を受け入れた。
潮目が変わったのは、結婚の話をしはじめた時に、違法移民やオーバーステイの問題をマスコミが取り上げ始めてからだ。
彼は何も変わらずに彼女を支えている。
しかし、彼の周りの人間が、彼に”忠言”をしてくる。
彼は、とある企業の次男で、長男のスペアとして育てられた。
彼は彼女と駆け落ちしてもよいと言い出した。
祖国を逃げ出したことがある彼女の両親は、それは認めなかった。
彼女の長い話が終わった。
彼女と彼の想いは、彼の周りには届かない。彼女の両親には届いているが了承をもらえない。
「どうされますか?」
「え?」
「お二人で旅立つのなら、お手伝いができます」
女性は首を大きく横に振る。女性もわかっているのだろう。
マスターは、戸棚から紙を取り出して、彼女の前に置いた。
「え?」
「あなたのご両親からです。もう一枚は、彼のご両親からです」
「・・・」
女性は、恐る恐る差し出された紙を受け取り、内容を確認する。
小さな声で”嘘”とだけ呟いた。
「そして、彼からです」
「・・・」
「どうしますか?約束の時間には、まだ間に合いますよ?」
「・・・。ありがとう」
「私たちは、止まり木です。疲れた翼を休める場所です」
「ふふふ。優しいのね。私、行きます。想いは届いたのですね」
「どうでしょう。それを確認するのが、あなたの役割だと思いますよ?」
「そうですね」
女性は立ち上がって、財布を取り出す。
マスターは女性の動きを制止した。
「お代はいただいております。あと、彼の周りに居た者たちでよからぬことを企んでいた者たちは、彼のご両親にお伝えしました。”ご安心ください”と彼にお伝え願いますか?」
「わかりました。必ず伝えます」
女性は頭を深々と下げてから、急ぎ足で店から出ていく。
ドアを開けてから、振り返って、マスターと男に礼をしてから、ドアを閉めた。