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00. 序

 割の良い職に就こうと、寝る間を惜しみ、遊びも知らずただ励み、いつの頃からか没頭してしまった学業から、先日(ようや)く解放された。そして、ふと思い立った世界旅行の道半ばで、私は()()怪しげな薬に魅了されていた。

 文明から遠く離れた森の奥深く、洞窟に住まう老人が(のたま)うには、此処(ここ)とは違う世界に行く()()だという。

 普段なら幻覚剤に過ぎないと取り合わず、早々に切り上げる話である。しかし、有ろうことか老人は、私の眼前で洞窟への入り口を顕現(けんげん)させてしまった。


◇◇◇◇


 足元を揺らし、地響きとともに洞窟が出現する。そう易々と信じられる話では無いが、現に超自然現象を目の当たりにしたのだから、胸が高鳴ったとて()むを得まい。

「どうだ? ついでに酒か金でもつくってみせようか?」

 ……(ある)いは、()うに幻覚剤に(おか)されているのかも知れない。薬の代償にどの程度を要求されるか思案しつつ、早鐘を打つ心臓を決して気取られぬよう、努めて冷静に言った。

「い、いや、その秘薬を一つ譲ってくれないか」

 ……間違えた。交渉する積もりだったのに、気が()いた。このままでは、すっかり言い値になってしまう。

 やはり、人との関わりを持たなかった私は、人生経験がさっぱり足りないのだろう。おまけに十分な、いっそ過剰なまでの教育を受けたにも関わらず、この非科学的な薬を買おうとしている。まあ、疲弊した私にまともな交渉を期待したところで、(はな)から無理な相談だったか。

「ああ、いいだろう」

 そんな交渉下手を相手にして、老人はあっさりと頷いた。売るために魔法を披露したのだから、当然である。

 そもそも麻薬に過ぎないと()(くび)った私に、この老人は何の(てら)いもなく魔法を行使してみせたのだ。金さえ創り出すと言う者を相手に、私は一体何を差し出せるのか。それを考えれば交渉事など、元より無謀に違いなかった。

 結果的に二つ返事で手に入ることになったが、当然、薬の対価として金銭は意味を為さず、老人は他のものを求めた。

 私が了承すると、老人の杖が私の頭に触れる。そして何やら(まじな)いを(とな)えると、間もなく私の意識は消失した。


◇◇◇


 ――目が()めると、そこは未だ異世界ではなかった。酷い頭痛に顔を(しか)めながら辺りを見回すが、既に老人の姿は無い。大凡(おおよそ)、あの洞窟へ帰ったに違いない。私の知識や記憶を見たいと言っていたが、用は済んだのだろうか。

 立ち上がろうと(おもむろ)に上体を起こす。地面に手を突くと、右手が何かを握っていることに気付く。指を開けば、木の葉に包まれた例の秘薬が載っていた。

 異世界に行けるなど、有り得る(はず)がないと解っている。理論もよく解らないし、()(もっ)て物理的に不可能だ。しかし不可能と言えば、先の洞窟顕現は正に白昼夢のようであり、それでも確かに現実の出来事だった。

 日が(かげ)り始めている。はっきり見えていた物事の境界は曖昧(あいまい)に成り行き、光源を失えば見分けなど付かない。現に、極彩色の鳥々は鳴りを潜め、鳥目から解放された虫たちは思いのままに声を上げ出した。

 まだ手元の判る内に、と寝床の準備に取り掛かる。手頃な樹にハンモックを結わえ付け、ライターを火種に()き火を(おこ)す。濾過(ろか)した水を使い、ビタミン剤を入れた高カロリーのスープを沸かす。

 老人は、一度異世界に行けば、帰ることは出来ないと言っていた。あれは、致死性のある薬だと示唆(しさ)していたのだろうか。

 しかし自滅させる算段ならば、忠告など不用だろう。念の為キャンプを準備する際に荷物を改めたが、盗まれたものはやはり何も無かった。

 ぼんやりと口を付けていたカップも、気付けば空だ。お湯を継ぎ足し、汚れを(すす)ぐ。出涸(でが)らしよりも薄い液を喉に通し、水気の残るカップは焚き火に当てる。

 軽くて丈夫だからと薦められたカップは、チタンで出来ていた。チタンの融点は摂氏一六六八度で、焚き火は精々一〇〇〇度だから、(すす)けることに目を(つぶ)れば置いておくだけ、洗剤要らずの片付けである。

 揺らめく炎から目を離し、顔を上げる。先刻まで青々としていた景色は、今や暗闇に塗り替わっていた。そのまま(あお)ぎ見ると、()(しげ)樹冠(じゅかん)から星々の光が(わず)かに(のぞ)いていた。

 あの老人は、単なる法螺(ほら)吹きだったのか。しかし脳裏に(よぎ)るのは、やはり洞窟の顕現だ。それに金を生み出せるとも言っていた。どうせなら少し貰えば良かったか……いや、あの時は代償が恐ろしくて、とてもでは無いが言い出せなかった。


◇◇


 暗闇を照らす炎を見詰め、うだうだと言い訳を探し続ける。(もっと)も、あの洞窟顕現を目撃した時点で、結論は見えていた。

 これまでの人生は、全て学業に(つい)やした。思いの(ほか)()まってしまったが、これは何処に行こうと何をしようが自身の頭があれば事足りる。今まで()ぎ込んできたものは、(すべ)て頭の中に詰まっている。

 世界旅行など突飛(とっぴ)な思い付きだと自身でも半ば(あき)れたものだが、今になって思えば、平坦で順調な人生に飽き飽きし、刺激的な冒険を求めてここまで来たのだ。

 この旅行を終えれば、人生の終わりまで先の見え()いた未来が待っている。それならばいっそ、仮令(たとえ)死ぬとしても、今ここで秘薬を飲むべきではないか。

 何せ異世界である。想像も出来ない動植物や、あの老人の魔法のようなもので満ち(あふ)れているに違いない!

 そう思うと、もうこれ以上悩むことなど何もないように感じられた。





 枝に(つる)した包みを手に取り、左右に葉を開いて中の薬を観察する。

 ……先ほどから気付いてはいたが、暗闇で(まばゆ)く発光している。目覚めた時は、確かに青磁(せいじ)色の錠剤だったが、明るさは徐々に増しており、今では光の(かたまり)となっている。

 もし信心深ければ、或いは神聖な雰囲気とでも言ったのだろうが、しかし信仰とは無縁の私に言わせれば、森の夜闇を侵す純白の光は、不自然な()()でしかない。

 それでも意を決し、手を伸ばすと、なんと指がすり抜ける。

 何だ、そういうオチかと僅かに安堵(あんど)しつつ、まあ念の為と、葉ごと乱暴に口元へ持ってきて、自棄(やけ)酒でも(あお)るように一息(ひといき)で体内に飲み込んだ。

――――こうして私は、まだ見ぬ異世界に降り立つ。

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