第四十五話 厄災の娘(8)
「いいえ、私はレイヒさんの代理の者です」
シハルが手のひらでレイヒを示すと、男性の方のシハルが軽く眉をひそめる。
「それを返してくださると?」
「交渉次第です。ところで、ただの好奇心でおうかがいするのですが――」
シハルには何の気負いも感じられない。この男性は誰なのか、明らかにシハルの血縁だろうが、普通に知らない人を相手にするように話している。
「その姿はどういうおつもりなのでしょうか」
そう、それが気になっていた。さっきはハルミだったし。
男性は小さく首をかしげる。姿かたちは酷似しているがシハルよりもずっと大人に見えた。
「人間が――」
男性はすうっと遠くを見るような目でうっとりと口を開く。
「絶望、恐怖、苦痛、後悔……と、いうような負の感情に追い込まれて死ぬと、肉の甘みが増すのです。その感情が大きければ大きいほど、それはとてもとても甘くて――」
「なるほど。おいしくなるのですね」
シハルはまるで料理の裏技でも聞いたような声をあげる。
「随分と手間のかかることをすると思っていたんです」
にこにこしている。この人、どうかしているのではないか。ここでおいしくなってどうする。
「私はお腹がすいていたら、祈りの言葉も忘れて食べ始めてしまいますが、あなたたちはとても丁寧に下処理をされるのですね」
感心したように頷いている。男は真顔のまま黙ってシハルの顔を見つめていた。わかる。これは真顔になるしかない。気が抜ける。
「なぜその姿なのでしょう。それで私がおいしくなると思いましたか?」
シハルの声にわずかないら立ちのようなものが混じる。こんなに似ているのだから双子ではないだろうか。事情は知らないが、化け物に家族の姿をされるのは気持ちのいいものではない。
男はなぜかじっとシハルを見つめた。それからおもむろに口を開く。
「『シハル、早くここから逃げなさい。村にとどまる必要はありません。』」
わずかにシハルが目を伏せる。
「――なるほど。記憶を読むのですね。それで人間の感情を揺さぶっておいしく調理するわけですか」
レイヒもなるほどと頷いた。それではレイヒの時にハルミの姿で現れたのはどういうつもりだったのだろうか。レイヒの記憶ではハルミに何か言われて心を乱される状況が思い浮かばない。逆に何をいうつもりだったのか気になる。ばあちゃんやオキの方が動揺する気がするが。もしかしてランダムなのか。おいしくなる場合もあるし、ならない場合もある。めちゃくちゃ効率悪いな。
「おいしくするのは交渉の後でもいいのではないですか」
わずかに動揺したかのように見えたシハルだったが、もういつもの調子に戻っている。間違いなくレイヒより神経が図太いので、これは簡単においしくはならないだろう。
「それでは遅いですね。雛たちが随分とお腹を空かせているようで、町の人間たちをつついてまわっています。そろそろ死人が出ますよ。あなたたち二人でも全然足りませんからね」
レイヒはハッと男を見た。それはつまり山の事故のことだろうか。
「ねぇ、ちょっと、シハル早く……」
死人なんて出たらいよいよレイヒの立場は危うい。
レイヒが身を乗り出すと、シハルは静かに人差し指を鼻先に立てる。黙れってこと?
「あまりしゃべらない方がいいよ。言霊といってね。レイヒみたいな素人は口からいろいろしょうもない物が出ちゃうから」
子供がシハルの膳のものをつつきながらくすくすと笑っている。どういう意味だ。子供のくせに酒まで飲んでるし。膳には山の中ではめずらしい魚まである。すごくおいしそうだ。
シハルなんてさっきからべらべらとくだらない雑談をしているのに。しかしレイヒがこの状況をどうにかできるのかというと、どうにもできないので、おとなしく黙っているしかない。
シハルは少し考えるようなそぶりで黙りこんでいる。先ほどの金色の半円がうつくしい音を立てて座敷に転がった。男の目が一瞬それを追う。
「こちらも代替わりがあったものですから、これをお返しして、契約をなかったことにさせてもらおうかと思ったのですが」
シハルがちらりとレイヒを見たので、レイヒはこくこくと頷いた。知ってしまったからにはやはり人間を贄に差し出すなどできない。ばあちゃんの言い分もわからなくはないが、レイヒには重すぎて無理だ。――というか、現時点ですでに破綻している。町の人たちは困るかもしれないが、レイヒにはどうすることもできない。ああ、もう、何ならこのままどっかに逃げちゃおうか。
「雛たちのために町の人間を七人もらえるならば、それに応じよう」
またシハルがちらりとレイヒを見る。今度はぶんぶんと頭を横に振った。それはまずい。まずいでしょう。今まで旅人を贄にしておいて調子がいいといえばその通りだが、知ってしまったからにはここから先、死人は出したくない。もちろん自分も死にたくない。
「困りましたね。交渉決裂です」
レイヒは恐ろしくて頭が真っ白になっていたが、シハルは相変わらずのんびりした口調である。何か考えがあるのか知らないが、どうしたらそんな図太くなれるのか。
声をあげそうになるレイヒにまた子供が「しぃっ」と、レイヒを黙らせようとする。茸を食っていた。いや、もうそういう段階ではなくないか。町の人が化け物に殺されてしまう。
また金色の半円の音が響く。その瞬間に視界の端で光がひらめいた。
シハルがいつのまにか短刀のようなものを抜いて、干からびた心臓に突き付けている。その武器はいつの間にどこから出てきたのだろう。
「では、こうするしかないですね」
男がシハルを睨みつける。その目つきだけでレイヒはちびりそうになる。シハルの顔をしているのに、まったく別のものに見えた。まなじりは裂けんばかりで、唇の端に牙のようなものがのぞく。よく見ると爪がまるで鉤爪のように鋭く伸びていた。昨日の屋根をひっかけていった爪の音を思い出してぞっとする。
しかし心臓というからには、この化け物にとって大切なもののはず。大丈夫。まだこちらが有利だ。今は偽物だけどその内、ハルミとヴァルダが本物を持ってくるはずだから問題ない。これでまだ交渉できる余地がある。
「――そこに見落としはないかい?」
男は血走った目をして、狂気じみた笑い声をあげた。背を湾曲させ、ニタニタとシハルを煽るように見る。もはやシハルに似た端正な顔立ちの男性の姿ではなくなっていた。
怪訝な顔をしていたシハルだったが、突然「あ」と、何とも言えない間の抜けた声を出す。そしてものすごい速さで男に向かって、膳を蹴あげると「レイヒさん、失敗しました」と、とんでもないことを叫んだ。
そのまま短刀と心臓を持って座敷を飛び出す。子供が器用に徳利をキャッチして、残念そうにひっくり返して中をのぞきこんでいる。
男の姿はまた変わりつつあった。
「ちょっ、ちょっと、置いてかないで!」
レイヒもあわてて立ち上がる。
「レイヒ、待って。どこにも行くな」
オキだ。
いや、わかってる。これは偽物。いくらなんでもそこまで単純じゃない。
「レイヒ」
手をつかまれる。思わずふり返ってしまった。じっと見つめられて動けない。いつかのようにオキの姿をしたものはそっとレイヒの手をなでる。本当に記憶を読まれてしまうのだな。
先ほどわずかに動揺を見せたシハルの気持ちがよくわかった。むしろなぜあの程度ですんだのか。
ふと見ると視界の端で徳利を持った子供が変顔をしている。ふざけんな。どういうつもりだ。
「いや、おいしくなるつもりはないから」
レイヒは思い切り手を振りほどいた。