第三十七話 閑話 目的地
西に存在する悪魔という存在ではないか、と――そう聞いた。
シハルは足元を歩いているヴァルダを見る。シハルの膝のあたりまで大きくなり、動きもなめらかになってきた。ほぼ犬の動きだ。もちろんうるさいのは相変わらずである。
しかし悪魔というのはどういうものなのだろう。異国の悪霊のようなものらしいが、シハルが生きているヴァルダを見たときは確かに人間だった。よくよく確認したのかといわれるとそこまでではないが、シハルが人外のものを見間違えるとは思えない。いや、そもそも悪魔という存在がわからないので何ともいえなかった。人のなりをしてあらわれる存在であれば、それを知らないシハルが見誤ったとしても不思議ではないのかもしれない。もしそうであれば、村を出るとこになった一連の出来事はどう解釈すればよいのか。ヴァルダはあっさりと神に殺されている。西の悪魔というのはその程度のものなのか。シハルは首をかしげた。
「何を考えている」
ヴァルダは凶悪な顔でふり返った。
「次はどこへ行きましょう」
シハルのまだ知らない事象があることはとても興味深いことだが、とりあえず悪魔のことは置いておくことにする。
何となく街道沿いを進んでいたが、そろそろ分岐点があるはずだ。何だかよくわからないものたちが騒ぎながらシハルを通り抜けてゆく。神の声しか聞く必要がなかったシハルにとって雑音だと思っていたこの声こそ旅には役立つ。これを聞き取ることができる人は精霊だとか妖精だとか地霊だとか呼んでいるようだが、シハルにも何かよくわからない。ただそこここに水のように流れ、何事かを伝播してゆく。シハルがなんとか占いを生業にできているのはこれのおかげである。
この騒ぎ方は町が近いときの騒ぎ方だ。
「どこへ行くのか決めてねぇのかよ」
ヴァルダがあきれたように声をあげた。シハルは瞬きをしてじっとヴァルダを見る。
「な、なんだよ。文句あんのか」
ヴァルダが人間じみた動きで後ろにさがった。反応は人間っぽい。表情のつくり方も。顔は犬の化け物だが。
「いいえ。人間だったときのこと、覚えていないんですか?」
ヴァルダはぐっと押し黙った。シハルの記憶が確かなら目的地はヴァルダこそ知るべきである。やはり死んだことでいろいろと忘れてしまったのかもしれない。シハルは黙ったままのヴァルダから目をそらすと、その場でぐっと伸びをした。背負っている薬箱の中のものが揺れてガタガタと音を立てる。ヴァルダには叱られているが、おもしろいものがいっぱい集まった。悪魔のことを知ればもっといいものを入手できるかもしれない。
「疲れてしまいました。休めそうな町へ行きましょう」
指先を伸ばし、何だかよくわからないものたちの声を聞いてみる。
「たぶん右です。この先の分かれ道を右」
「たぶんってのは何だ。そんなんで大丈夫なのかよ」
とりあえず何か文句をいわないと気がすまないらしい。シハルはそれを無視して歩き続ける。
「おい。さっきから何を考えているんだ」
ヴァルダがちょこちょこと足を動かしてシハルの足元を歩いている。まだシハルの歩幅の方が大きい。人間だったころは長身のシハルよりもさらに頭ひとつ分くらいは大きかった。異国人だから大きいのかと思っていたが、この旅でそこまで背の高い人を見ていない。もしかしたら西の方へ行けばそういう人たちが多いのかもしれない。悪魔のこともあるし、やはりちょっと行ってみたい。
「しつこいですね。別に何も考えてないですよ」
シハルは適当にはぐらかす。今までほとんど疑問を抱いてこなかったが、他人から指摘されると、なんとなくおかしいような気がしてきた。しかもこんなにしつこく問い詰めてくるのだから、何か知られたくないことがあるのかもしれない。
「何か隠してるんですか?」
「ああっ?」
怒っている。これはあやしい。
本当にヴァルダは人ではなかったのか。シハルはふっさりとしたヴァルダの尾を目で追った。気のせいではない。赤い。そもそも土人形がこんなに不細工な姿に変わることがおかしい。ごく普通の人間の魂にはそこまでの力はないはず。人から成った悪霊のふりをしているのか。
「もういいです」
シハルは何もかも面倒くさくなってきて、無言で歩を進める。ヴァルダはやはりやましいことでもあるのか、そこからはただ黙ってついてくる。
「お前はどうせ忘れているかもしれないが……」
まもなく町につきそうだというところで、またヴァルダが口を開いた。
「忘れているのはヴァルダの方でしょう」
シハルは遮るように口をはさんでしまう。そもそもシハルが村を出たのは、ヴァルダの提言が発端である。しかしその後、命をおとしてしまったわけだから、記憶を失ってしまっても仕方のないことなのかもしれない。むしろシハルの呪術の腕がいくら確かだとしても、土人形はありえないほどちゃんと動いていた。これも人間の魂ではあまり起こらないかもしれない。
「何の話をしている?」
今度はシハルの方が黙った。
――やはりいろいろ面倒くさい。
「お腹がすきました」
別に人でも人でなくてもどちらでもいい。ヴァルダはふんと鼻を鳴らしてまた歩き始める。
街道の分岐点を右に曲がりしばらくすると、シハルより前を進んでいたヴァルダが不意に足を止める。
「あの町はなんなんだ?」
「やけに静かですね」
指先をかすめてゆくものたちの声も他の町に比べて静かである。先ほどは町までの距離の問題かと思っていたが、ここまで近づいても比較的静かだ。
道の先には山並みが広がっているのが見える。町から先は峠道があればそこを通るか、もしくは街道に戻るしかなさそうだ。どうしても立ち寄る必要がある町というわけではなさそうだが。
「これは、血か?」
ヴァルダがすんと鼻先を上に向ける。さすがに臭いはわからないが、不穏な気配はシハルもかすかながら感じ取っていた。
「嫌な感じだな。戻るか」
ヴァルダが振り返る。普通に考えたら戻った方がいいのだろうが……。シハルは額に手を当てて考え込む。よくない気配は徐々に強くなっているような気がする。通り過ぎてゆく不可思議なものたちが警告じみたことをささやきはじめた。近づかない方がいいらしい。しかし肝心な理由についてはわからない。逆に何が起こっているのか気になった。
「薬箱はもういっぱいだぞ」
先回りするようにヴァルダが口を開く。
「まだ何もいってません」
「気になるんだろう。あの気配」
「気にならないといえば嘘になります」
「いい加減にしておけよ」
ため息をつきつつもヴァルダはそのまま町の方へと進みはじめる。
「いいんですか?」
シハルは首を傾げつつ後に続く。
「ダメだといったらやめるのか?」
「やめませんけど」
ふんとヴァルダは鼻を鳴らしただけで、歩き続ける。ふさふさと揺れる尻尾を追いながら、濃密になってくる「嫌な気配」を感じていた。あまりに面倒だったら早めに戻ろう。
町の入口が見えてきた。
「何がしたいんでしょうか、あれ」
入口をはさむように石像が二体ある。よくある魔除けのつもりらしいが、シハルが見る限りまったく意味をなしていない。見様見真似というか、それより悪い。その町の作法というものがあるだろうから一概にはいえないが、まともな神職者やシャーマンの仕事とはとても思えなかった。
「逆によくないものを集めようとしているんでしょうか? それにしても中途半端ですね」
シハルは額に手を当てる。魔除けをしたいのか、逆に災いを集めたいのか、すべてが中途半端で意味がわからない。供物が置いてあるが、それもひどい。
「泥団子?」
ヴァルダが供物に鼻を近づけてからこれ見よがしに「おえっ」と舌を出した。臭いは嗅ぐ前からわかっていただろうに。とりあえずそういうことをやらないと気がすまないようだ。とにかくおおよそ神饌とは思えない物体であることは間違いない。
いうならば――素人仕事。
それでもヴァルダは町へ入っていこうとする。てっきり「冗談じゃない。戻るぞ」と騒ぎ出すかと思っていた。
「いいんですか?」
ヴァルダは振り返らない。
「うるさい。お前が行きたいところが目的地だろうが」