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第三十六話 楽師の長い旅(9)

「え? 人間ですか?」
 リシャルドは拍子抜けしたような顔でシハルを見ている。手にしたお茶のカップの存在を忘れてしまったかのようで危なっかしい。
「人間ですけど、それが何か問題ですか?」
 体の調子はすぐに戻ったが、自身がいまだに神の加護から逃れていないというショックからは脱し切れていない。そのことを思い出すと、とにかく全身が不快だ。
「ヴァルダさんのことですよ?」
 そんなシハルにリシャルドは重ねて問いかけた。何が引っかかっているのかは不明だが、どうにも会得がいかないという顔をしている。それからようやく思い出したかのようにカップに口をつけた。つられたようにシハルもお茶に口をつける。お砂糖を入れてもらったので甘くておいしい。
 例の町の入り口にある食堂の中だ。真昼が近く旅人たちを送り出した後の宿は静かである。ときおり町のご隠居らしき人物が軽食をとりにくるくらいで、店主も暇そうにグラスを磨いたりしている。
「ええ、ヴァルダは元々人間でした。死にましたけど。素行が悪くて元から悪霊寄りだったので、今でもそんなに違和感はありませんね」
「いやいやいやいや」
 何がいやなのか、リシャルドはぶんぶんと首をふっている。それから「うーん」とうなりながら手元の楽器を、まるで犬か猫のようになでまわした。
 相変わらずリシャルドの楽器はシハルのことが気に入らないようで妙な気配を発している。そしてシハルの方もいつも通りその声を聞かないよう、意識を遮断していた。
「見たんですか? その、人間だった頃のヴァルダさんを?」
「はい、会いました。確か西の方から来たと言っていましたが、詳しくはわかりません」
 その頃シハルはまじめに神に仕えている身だったので、異邦人であるヴァルダと多く言葉を交わしてはいないが、そう言っていたのは確かだ。ヴァルダは遠い異国から突然村にやって来たのだった。今から思えば確かに不思議なことである。村人たちもなんだか変なヤツが入ってきたと警戒したり、好奇心から見に行ったりとちょっとした騒ぎになっていたものだ。
「やはり西から……」
 シハルが気を失っている間に何があったのかわからないが、リシャルドは突然ヴァルダのことが気になって仕方がなくなった様子である。
「――どういう感じでしたか?」
「どうといわれても……。ずいぶんと背が高くて、燃えるような赤い髪をしていました。それから……大きな剣を持っていましたよ。村では異国の傭兵ではないかと噂になっていました」
 その剣はいまだにシハルが持ち歩いているのだが、それはあえて言わなくともいいだろう。
「粗暴で下品で、年はリシャルドさんと同じくらいに見えましたけど、異国人なのでよくわかりません。そういえば、そもそも何をしに来たんでしょうね。村を見にきたというようなことをいっていた気がしますが、見るべきものなんてないところですから」
 シハルは素直な感想を述べただけだが、リシャルドの方は何かに呆れたような顔をして首をふっている。何が問題なのだろうか。
 そんなことよりもシハルは早く昼食にしたかった。
 とりあえずこの町の雨をとめる事に成功したので、ちょっとした歓待を受けている。体の具合がよくなるまで泊まっていてもいいと言われ、食事まで出してもらっているのだ。どうやら町の人たちがお金を出し合ってくれているらしい。
 しかし竜神がいなくなってしまった今、また砂に侵されるのにおびえることになってしまうが、それは大丈夫なのだろうか。
「それで人間だったヴァルダさんはどうして亡くなったのですか」
 リシャルドはまだヴァルダにこだわっている。ただの悪霊の何がそんなに気になるのだろうか。
「見ていないので知りませんが、どうも神に粗相をしたらしいです。気づいたら死んでいたので、私が葬儀を執り行うことになってしまいました。客死というのはなかなか取り扱いが難しいのですが、だからといって……放っておくのもよくありません」
 シハルは少しいいよどんだ。シハルが村を出る事になったのもその「葬儀」が原因である。取り扱いが難しいというのはまさしくその通りだった。
 シハルの心情を知ってか知らずか、リシャルドは一人で頭を抱えてうなってた。ヴァルダの何がそんなに引っかかっているのだろうか。
「具体的に何をしでかしたんでしょうね」
 ようやく顔をあげたリシャルドにシハルはただ「さぁ?」とこたえることしかできない。その経緯は本当にあいまいなのだ。どうせ神殿で暴れたり、供物にいたずらをしたりしたのだろう。
 ただ神罰が下ったわりには神官であったシハルの耳に詳細が入ってこないのはおかしいといえばおかしい。通常であれば神官を通して神からの警告があり、神罰はその先にある。ちなみに警告を伝えただけのはずの神官もその段になるとただではすまない。当時は何も考えていなかったが、不条理極まりない話である。
「それと――」
 リシャルドは楽器を胸に抱え直した。何か楽器の声に耳を傾けているような沈黙がある。
「何か、約束をされたんですか?」
「え?」
 今度こそシハルは言葉を失う。リシャルドは一体何を知っているのだろう。
「何が起こったのか全然知りませんが、とにかく何らかの事情で悪霊となったヴァルダさんと、何か契約をとり交わしたのでしょうか」
 リシャルドはわざわざ丁寧に言い直す。シハルはリシャルドの胸に抱えられている楽器を見た。直感的にこれだと思う。リシャルドに何かを伝えたのかもしれない。リシャルドは禍々しい道具を持ちながらも、その手の知識には疎い。悪霊と契約という発想は普通浮かばないだろう。それはまさに邪法だ。
「契約……」
 シハルはただ言葉を繰り返した。あれは契約だったのかもしれないが、契約というよりは――。いや、あれはヴァルダが死ぬ前の話か。
「何をこそこそと探っていやがる」
 そこに当のヴァルダがあらわれて当たり前のようにシハルの膝に飛びのった。体はさらに大きくなり、体毛はふさふさと健康的に輝いている。少しだけ人間だったヴァルダの髪の色のように赤みを帯びてきている気がして怪訝に思う。
「重いです」
 リシャルドはぴたりとその話をやめた。
「――今日の昼食は何でしょうね」
 その話題はシハルにとっても望むところである。
「私はまた蒸した鶏肉に溶けたチーズをのせたものが食べたいです」
「シハルさん、今朝もそれを食べていましたね。飽きませんか?」
 翌日にはもうすっかりシハルの体調はよくなっていた。実のところ前日から問題なく動けていたのだが、何もしなくともおいしいものが食べられるのでついつい長居をしてしまった。
「お昼ごはんをいただいたら、ここを出ようかと思います」
 シハルの目的はひとつの村でごはんを食べ続けることではない。そろそろ潮時だろう。竜神も立ち去ってしまったので、得たものはあまりなかった。死ななかっただけましというものだろうか。
「……それは、また急ですね」
 リシャルドは眉根を寄せる。しばらく黙っていたが、仕方がないとでもいうように大きなため息をつく。
「では、僕も今日ここを出ることにします。ただ、シハルさんにはまたお目にかかるつもりですので」
 リシャルドがシハルの手を取る。すかさずヴァルダがその手にかみついた。リシャルドは「痛ッ」と手を引っ込めたが、妙に不敵な笑いを浮かべてヴァルダを見下ろした。
「僕はちょっと西の方へ行ってみようかと思います。長く平和だった大国がどうも戦をするような気配があるらしいですからね。あまり深入りするつもりはありませんが、何が起こっているのか見てこようかと。しかし必ずまたシハルさんの前にあらわれますよ。心配しないでください。このギタアがあれば見つけだすことはそんなに難しくありませんから」
 重いと言っているのにヴァルダはシハルの膝にのったまま、「フン」と盛大に鼻を鳴らした。
「あー、やだやだ。しつこいったらないな。あんまり罪のない人間を食い散らかされないよう、よろしく頼むぜ」
 ヴァルダはわざわざ小馬鹿にしたように大あくびをして見せた。
「悪霊のあなたがそれを言いますか」
 リシャルドの方も負けてはいない。
 どうやらシハルのいない間に二人は仲を深めたようだ。
「ただの悪霊とは格が違うと何度いったら……」
 ヴァルダの発言を無視して、リシャルドはまたシハルの手を取る。そして何かを握らせた。
「お互い、長い旅になりそうですね」
 リシャルドは飲み終えたお茶のカップを手に席を立つ。
 シハルが手のひらを見ると、まるで川を泳ぐ魚の鱗のようなものがある。キラキラと青く輝いていてとてもきれいだが、わずかにあの楽器の気配がする。
「そんなもん、捨てちまえ」
 膝の上でヴァルダが悪態をついた。

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