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宰相執務室を出たシェリーは、小走りでアルバートの眠る医務室に向かった。
後ろからついてくるメイドの息が上がっている。
いつもなら使用人たちに心配りを忘れないシェリーがここまで急いでいるのだ。
レモン卿であれば楽に追いつくのだろうと思いつつ、メイドは歯を食いしばってついて行った。
「ああ、ごめんなさいね。なんだか気が急いてしまって。お医者様を呼んでくれる?」
「はい妃殿下」
メイドが何度も大きく息を吸いながら医務室のドアをノックした。
ドアが内側から開かれ、顔を覗かせた看護メイドに皇太子妃の来訪を伝えるように言っている。
その姿を見ながら、シェリーは何気なく窓の外を見た。
『ねえ、シェリー。あの大きな木が見えるかい? あれはね、兄上と僕が子供の頃に遊んだ木なんだ。冬になるとね、爪くらいの大きさの実をつけるんだよ。風が吹くとその実がかさかさと音を立ててね、まるで話しかけられているような気分になるんだ』
アルバートがそう言ったのはいつだったろうか。
シェリーは何度か子供の頃の話を聞かされたが、そのどのシーンにも兄であるシュラインの姿があった。
異母兄弟とはいえ、とても信頼し合っているのが分かる。
「表裏一体」
先ほどシュラインの口から出た単語を、シェリーは無意識で呟いていた。
「お待たせしました」
医務室から出てきた医者がシェリーに声を掛ける。
「どうですか? 意識は戻りましたか?」
「どうぞお入りください。テントの中には入れませんが、お顔は見ることができますので」
そういえば二次感染のことを聞いたなぁとシェリーはぼんやりと考えた。
メイドには戻ってよいと伝え、用があればここにいると言うように指示を出す。
何度も手を洗わされ、少し薬品臭い液体でうがいもさせられた。
ドレスを脱ぎ、看護メイドが渡す白いバスローブのようなものを着る。
そこまでしてやっと内側の扉が開かれた。
「妃殿下、こちらの椅子にどうぞ」
部屋の中には大きなテントが設置され、アルバートが横たわるベッドがすっぽりと包み込まれていた。
薄い布なのか、中が透けて見える。
シェリーは思わずその布を捲ろうとして、看護メイドに止められた。
「あ、ごめんなさい。つい……」
「大丈夫です。お気持ちはわかります」
医者がシェリーを慰めるように言う。
「あと……そうですね。十日くらいはこの中で過ごしていただきます。傷口に膜が張ればもう大丈夫なのですが」
「そうですか。先生、本当にありがとうございました」
「いえ、できるだけのことはしましたが、ここが限界でした。後遺症などが残ってしまいますし、尊きお体に傷を残してしまったことをお詫び申し上げます」
「先生……命を拾ってくださっただけでも十分です。本当にありがとう。そしてご苦労様です。これからもよろしくお願いしますね」
医者がゆっくりと礼をして、看護メイドと共に部屋の隅に移動した。
シェリーは指示された椅子に座り、じっとアルバートの顔を見詰める。
時々だが、眉を顰めたり小さな呻き声を漏らすアルバート。
苦しそうだが、シェリーにとっては彼が生きていると示しているような気がした。
医者が後ろから声を出す。
「一度は意識を取り戻されたのですが、あまりの激痛に気を失われました。今はオピュウムによって痛みを和らげている状態です」
シェリーが小さく頷く。
オピュウム……その名はシェリーが小さい頃から何度も耳にしていた単語だ。
ブラッド家ではオピュウムの重要性や希少性と共に、扱い方を間違えると如何に恐ろしいものかを繰り返し聞かされる。
女児であるシェリーはそれだけだが、跡取りとなる男児には厳しい教育が施される。
書き物には残さず、一子相伝でありその内容は口伝のみとされる秘法だ。
それを知ることはブラッド家の相続を約束される事ではあるが、何者かに命を狙われる危険度合も上がる。
そのためブラッド家の男児は厳しい訓練も受けなくてはならない。
それに耐えられない場合は廃嫡とされ、すでに口伝を受けていた場合は毒杯を渡される。
「ブルーノ、頼むわよ」
アルバートへのオピュウム供給を任されている弟の名前を呟き、シェリーは両手を強く握りしめて、一秒でも早いアルバートの回復を祈った。
その体制のまま何時間が経過したのだろうか。
ふと見ると窓の外には夜の帳が降り始めていた。
医者の姿はすでになく、看護メイドが部屋の隅でうとうとしている。
内側のドアがノックされ、居眠りをしていた看護メイドが弾かれた様に立ち上がった。
素早く部屋を出た看護メイドが戻るまでの数分、シェリーは夫と二人きりとなった。
「アルバート、痛い? 辛いわよね……代わってあげられたら良いのに……」
きつく目を閉じているアルバートにシェリーの声は届かない。
「ねえ、アルバート。さっきねあなたがよく遊んだっていう木を見ていたのよ。もうすぐ風に揺れたらかさかさと音を立てる実が成る季節になるわ。一緒にその音を聞きにい行きたいの。だから……頑張って」
アルバートの指先がほんの少し動いたような気がした。
「アルバート、聞こえているのね? 目が開けられないほど痛むの? ああ、どうしましょう。私はあなたに触れることもできないの。その髪を撫でながら励ましてあげたいのに」
アルバートの指は動かない。
シェリーは自分の希望が見せた幻だったのだと思った。
看護メイドが戻って来てシェリーに言った。
「妃殿下、ご夕食の準備が整ったそうです。宰相閣下とヌベール辺境伯閣下がお待ちしているとのことです」
「わかったわ……行きたくないのだけれど……ダメかしら」
「夜間は面会禁止となりますので、どちらにせよこの部屋からは出ていただく決まりです」
「そう……それなら仕方がないわ。朝は何時から来ても良いの?」
「後ほど先生からお伝えがあると思います」
シェリーは悲しそうな顔をして立ち上がる。
「アルバート、また明日ね」
シェリーの声に、アルバートの指先が動いた。