見渡すばかりの青、青、青。
それはこの世界がとうに終わってしまっている証。
水平線の果てまで見渡しても、何もない。ただの空虚が広がっているだけだ。
無論、そんな光景は珍しいものではない。人類全盛期の時代、叡智と活力がこの星を覆いつくしていた頃でも、大海の沖に出れば同じ景色が見られたものだった。しかし、沼から生まれた泥人形がどうしようもなく本人ではないように、この世は決定的に変わってしまったのだ。
そんな絶望の青、平坦な青に一筋の道を刻み付ける船があった。決して大きくはない。むしろ小さいと言っていいだろう。全長は十メートル程度、幅も精々二メートルといった小型船だ。機械的な動力などの先進的な仕組みは何もない。頼れるのは細い枝のような一本のオールと乗組員の小さな両手だけ。
「――意外と速いんだね、渡し船って」
音の少ない穏やかな水面に声が響いた。たった一人の乗客の声だ。若い、それでいてどことなく気品が漂う少女だった。幼さを残した顔だちを飾るのは陽光に輝く金の髪。碧玉を思わせる双眼は活発さを主張するかのように大きく見開かれている。服装は白いブラウスにオレンジ色のミニスカート。随所にフリルがあしらわれた高級そうな代物で、少女の雰囲気に良く似合っているがどう考えても船に着てくるようなものではない。
しかし、それを言ったらもう一人の少女はもっとおかしい。
古い時代で言うところのシスター服を着こんでいる。ここは海で船の上で、教会でも修道院でもないというのに。かつてを知る人が見たら、そのへんてこさにツッコミを入れたくなるだろう。だが意外にも少女のオール捌きは堂に入ったものだった。穏やかな波の日とはいえ、ぶれることなくグイグイと進んでいく。
そんな彼女の方もかなり若く見える。その赤い瞳だけは、達観したような大人びた視線を帯びているものの、顔つきはいいところ十代後半といったところ。薄くかぶったフード――正式にはウィンプルというが――からのぞかせた銀色の髪も雪のように白い肌も瑞々しい張りを持っている。
「そうですね。単純にオール捌きだけで進んでいるわけではありませんから、割と快速ですよ」
シスター服の少女がオールをひょい、と持ち上げながら答える。金髪の少女に対照的に、冷静で大人びたような印象のある声だ。
「あっ、もしかしてそれって”魔晶石”? 私、初めて見たよー!」
「はい。タイプ:アクアマリンと言います。水の流れを操る魔晶石ですね」
「へぇーすっごいなぁ……」
木製のオールの先端にはこぶし大サイズの淡い青色をした宝石が付いていた。
金髪の少女はそれに対し、興味深そうなキラキラとした眼差しを向ける。
「……ちょっと、触ってもいい?」
いいですよ、と言うや否や、飛びつくように迫ってくる金髪の少女。
その姿を遠い目で眺めながら、新しいおもちゃをもらった時の猫みたいだな、とシスター服の少女は思った。
(いや、どちらかと言えば犬、かな?)
「いや~ありがとう! ごめんね。興奮すると時間を忘れちゃうんだよね、私」
「いえ……全然大丈夫ですよ、お客様」
五、六分はそうしていただろうか。惰性で進んでいた船もすっかり止まって、シスター服の少女の腕も震えてきた頃、金髪の少女はようやく顔をあげてそう言った。なんの呵責も感じていない、満面の笑みだった。
少し疲れたシスター服の少女だったが、その顔が眩しかったため、若いっていいな、と思いこそすれ、それ以上の感情は湧き上がってこなかった。
「では、出発します」
手に魔力を迸らせ、シスター服の少女は再びオールを水に沈める。すると、スルりと船体が前に滑り出す。ついで、手をまわして漕ぎだし加速。水面に小さな線が生まれる。
「静かで、速くて気持ちいい。……大災害の前だったらこんな船には乗れなかったんだよね。そう考えるとちょっと不思議だなぁ」
潮めいた風に髪を靡かせながら金髪の少女がぽつりと呟く。
――大災害。それは今からおよそ三百年程前に起きたとされる巨大隕石の衝突のことを指す。これにより、この星での人類の繁栄は終わった。地は裂け、極地の氷は砕け散り、地表の多くは文明とともに水底に沈んだ。もはや、ここからの逆転はあり得ない。隕石がもたらした新素材”魔晶石”の魔法めいた力があったとしても人口は減り続ける一方で、そしてなにより生きる人々の活力が欠けているから。
「よく、ご存じで。大災害のことなんて、今時の人はみんな忘れてしまったのかと思っていましたが」
「……そんな言い方されると、まるで渡し守さんが今時の人じゃないみたいだけど」
「あはは、どうでしょうね」
愛想笑いをするシスター服の少女の顔を金髪の少女はじっと見つめて、
「もしかして、私よりずっと年上だったりする? むしろ年下に見えたから、『その歳で渡し守をやるなんてすごい!』とか思ってたんだけど」
「そういって貰えるのは嬉しいですが、実はとってもお姉さんなんですよ」
「……ぶっちゃけ、何歳?」
「――実は三百四歳なんです」
瞬間、空気が凍った。海鳥の甲高い鳴き声がよく聞こえる。真顔のシスター服の少女。対照的に訝しむように目を細める金髪の少女。動きがうるさい。何かを確認するかのように、上から下から横から、シスター服の少女の顔を見る。無遠慮に「小じわはないわね」なんて批評を下しながら。
やがて評価が終わったのか、金髪の少女は席に戻る。無言の時間を数秒挟み、金髪の少女が口を開く。
「……………………めちゃめちゃ若作りね?」
「ありがとうございます?」
よく分からない反応だった。
「まあ、正直年齢なんてどうでもいいわね。仕事さえしてくれるなら」
「仕事? そういえば、お客様の目的地まだ聞いていませんでしたが、本日はどちらまで行かれますか?」
「う~ん、具体的にどこっていうのは私も分かっていないから、沖の方としか言いようがないよね」
「???」
もしかして、見かけによらず金髪の少女は海賊の仲間だったりするのだろうか。シスター服の少女は困惑とともにかつての苦い記憶を思い出した。渡し守、見ず知らずの他人を乗せて大海に出る仕事をしていると、刃物を突き付けられて船を奪われそうになった経験も一度や二度ではない。大抵の場合、若い女だと油断した単独犯が多いからさほど苦労せずに撃退できているが、沖で大群に囲まれたら面倒なことになる。そういえば、金髪の少女の荷物には長い筒のようなものもあった。あそこに武器が入っているかもしれない。
心なしか船の速度を緩めるシスター服の少女。
「ああ、止まらないで。ハリーハリー! ……ええと、なんかそういう怪しいことじゃなくて私はもっと純粋な気持ちなの!」
「ええ」
自分は善良ですよ、わたわた身振り手振りをする金髪の少女に、あくまで短く応じるシスター服の少女。そこには完全に壁が築かれていた。
「――そうだ! 渡し守さんは三百歳越えのおばあちゃんなんだから、知ってるわよね? 私、私は、――伝説の本マグロ一本釣りって言うのをやってみたいのよ!」
◆
陸地すら見えない正真正銘の水の世界。二人の少女は同じ方向を向いて海を眺めていた。もちろん、ただ意味もなく佇んでいるわけではない。手には棒を持っている。側面にピンと糸を張った、いわゆる釣竿というものだ。しかし、どことなく武骨でハンドメイド感がある。
「……なんで私までやらされてるんですか、これ」
「どうせ暇でしょー。もう、何でも面倒くさがると幸せが逃げちゃうんだからね」
「はぁ」
ついた溜息がどこまでも突き抜けていきそうな、そんな青空だった。雲が少なく、上を見ると日の光が目を突き刺す。季節はすっかり夏だ。シスター服の少女は髪を覆ったフードを掴み深めに被りなおす。
「暑くないの?」
「暑いですよ」
「脱がないの?」
「脱ぎません」
「なんで?」
「薄着が苦手だからです」
退屈しているのか、金髪の少女は頻繁に声をかけてくる。これは果たして仕事の内なのだろうか、シスター服の少女はそう思いながら生返事を返す。渡し守の仕事として、ここまで客と話すことはあまりない。不快にさせない程度のコミュニケーションは取るが、基本的なスタンスは運送業のそれだ。どちらまでとか、危ないので立ち上がらないで下さいなど言うことはあっても、観光案内とか暇を埋める軽快なトークのサービスなどをする必要があるとは思わなかった。
「あ~~~~全然釣れないじゃない!」
糸を投げかけてから、一時間ほどが経った。そしてその間、何事もなかった。目的の本マグロはもちろん、小魚やゴミですら一切かからなかった。
「そもそもこれ、やり方あってるんですか?」
シスター服の少女がたまらず返した。さすがの彼女も暇を持て余しているのだ。
「さあ?」
「さあ、って……知らないで釣りしてたんですか、私達!?」
「だって、仕方がないじゃない、『釣り釣り五ン兵衛』ではそこまで描いてくれてなかったんだから」
「……『釣り釣り五ン兵衛』とは?」
シスター服の少女が尋ねると、金髪な少女は得意げな顔になる。おっ、興味を持ったなと言わんばかりだ。彼女は釣竿を傍らに置くと、持ち込んでいた大きなトランクケースに手を突っ込む。
「じゃーん!」
取り出してきたのは手のひらサイズの本だった。表紙には筋骨隆々な男性が描かれており、その手には釣竿と大きな魚が。そしてデカデカとした書体で『釣り釣り五ン兵衛⑰』とあった。
「漫画、ですか。懐かしいですね」
「――もしかして、読んだことあったりして!?」
前のめりになる金髪の少女。
「いえ、さすがにその作品そのものは知りません。漫画、というもの自体は昔の知り合いが好きだったので、多少読んだことがありますが……」
「なーんだ、残念。でも、なんか嬉しいな。街じゃ本の話をしても誰も乗ってくれないし、お父さんもこういう娯楽漫画はくだらないなんて言うから」
それはそうだろう、とシスター服の少女は内心思う。人類文明水没のこの時代、本を読む余裕と資産を持つ人間は限りなく少ない。技術が失われ、道路網が寸断し、人には太刀打ちできないモンスターだって出るこの世界では、人は”今日”を生きるのに精いっぱいなのだ。だから、本という”過去”に触れることも、知識を生かして”未来”を考えることもできない。
(そもそも、本そのものが貴重ですからね)
隕石やら電磁パルスやらで壊れてしまったデータに比べればマシとはいえ、紙媒体も甚大な被害を負っている。なにせこの星は、名実ともに水の惑星と化してしまったのだから。
「……漫画、好きなんですね」
言葉を選んだ結果、当たり障りのない返事をしてしまった。
「うん、そうね好きよ。まあ漫画に限らず、本は全般だけど。ワクワクするし、昔の人たちすごい! ってなるからね。つい、真似したくなっちゃう」
「なるほど。いいですね、そういうの。若いって感じがして」
「年寄り臭いことを言うのねその顔で」
「若作りをしてるけど、実際に年寄りなんですよ」
あらあらうふふ、とわざとらしく頬に手を当てるシスター服の少女を金髪の少女は半信半疑の目で見る。
「ふ~ん。で、そういうご老人はなにか好きな物とか趣味とかないの? 経験豊富らしいし、興味あるな私」
「趣味……ですか?」
その質問はシスター服の少女にとって中々のキラーパスだった。強いて言えば、船を漕ぎながら呆然と海を眺めるのは好きだがそれを人に紹介するのは気が引けるし、だからといって他になにか楽しんだりしている事も思いつかない。漫画も読んだことがあるというだけで、内容はうろ覚えだし持ち歩いたりはしていないにわかだ。ましてやよく分からない物を釣りに大海原を目指すような熱量など到底持ち合わせていない。ただなんとなく生きながらえているだけだ。
「そんなに悩むことかしら。生きていれば、好きなものの一つや二つぐらいあるもんなんじゃないの?」
「そうでもないんですよ、これが。意外とみんな死にたくないだけで、生きる気がなかったりするんです。歳をとると特に」
「そんなものかしら……」
つぶやきをかき消すように、ぬるりと風が吹いた。水分を多分に含んだ夏場の空気だ。――暑い。金髪の少女の額にもじっとりと汗がにじんでいた。
シスター服の少女はそれを横目で見ると、足元から小さな水筒を取り出して中身を手元のカップに注いだ。そして、その琥珀色の液体を金髪の少女に向かって差し出した。
「どうぞ、よろしければ」
「ありがとう………………これは紅茶かしら? でも珍しい匂いね」
よほど耐えかねていたのか、グイっと一気に飲み干す金髪の少女。
「古い時代よく飲まれていたアールグレイ、という種類だそうです。私も詳しくは知りませんがベルガモット? という果物の匂いを茶葉につけて作っているとかなんとか」
「へぇー。なんだか、おしゃれな雰囲気のする香りね」
「ふふ、喜んでもらえたなら幸いです」
シスター服の少女が顔をほころばせた。
「……趣味発見、ってところかしら?」
「いや、そんな大層なものじゃないですよ。これもただの習慣で昔なじみの真似ですし、実は味の違いだってよく分かってないですし……」
「でも、今、笑ってたじゃない」
「えっ?」
意外な指摘に驚くシスター服の少女。
「別に詳しくなくても、真似だって何の問題があるのかしら。楽しいものは楽しい、それでいいじゃない。賢者ぶって固くなっても生きるのが辛くなるだけだし、気楽にすればいいのよ気楽に」
街の連中といい、父さんといい真面目すぎなのよ。自分から生きるのを辛くするなんてもしかしてマゾなのかしらねぇ。金髪の少女はそんなことを付け加える。
(水も持ってこない非常識さんなのに、随分まともなことを言いますね)
シスター服の少女は内心毒を吐いた。しかし、面白い子だな、とも同時に思った。
今のこの時代、こんな無鉄砲な娘はそうはいない。活力と笑顔に溢れ、人間らしく、未来的なこんな子は。きっとしばらく忘れられないだろう、そう予感させる。
「それはそうと高そうね、これ」
「どうでしょう、そちらの漫画本と同じくらいだとは思いますが」
「じゃあ安いかもしれない」
ちゃっかりと二杯目をもらいながら、金髪の少女が一言。現金な奴だなと思いこそすれ、シスター服の少女もさほど悪い気分ではなかった。高らかに注がれた琥珀色の液体が小気味のよい水音を立てる。
「変な淹れ方」
「でも、カッコよくないですか?」
「そうかもね……」
落差を作って空気を多量に含ませた方が美味しくなる。昔読んだ小説にそう書いてあったことを思い出してやってみた。揺れる船の上、手元が狂って零れ落ちる液体。跳ねをくらって顔をしかめる金髪の少女。三百六十度の変わらない景色と波立つ水のカノン。
相変わらず釣竿はぴくりともしないが、この退屈も悪くはない。シスター服の少女はそう思っていた。
◆
「お客様、そろそろ時間です」
時刻はすっかり夕暮れ時。青の世界は一変し、燃えるような赤に染まっていた。
あれからさらに数時間、粘りに粘ってみたものの全くと言っていい程に音沙汰がなかった。せいぜい引っかかるものといえば、旧時代の遺物と思われるゴミだけ。それはそれで金髪の少女にとっては宝物であるが、穴の開いた容器のような何かが価値を持つとは到底思えなかった。
「う~、後十分だけ。お願い!」
「ダメです」
釣竿に縋り付いて上目遣いする金髪の少女にシスター服の少女はぴしゃりと言い放つ。どことなくうんざりとした様子だ。
「なんでよ~? 渡し守さんは本マグロ見たくないの?」
「それはちょっと興味ありますが、それとこれは話が別です。夜の海は危険だって説明は何回もしましたよね」
「それは分かってるけど……」
唇を尖らせる金髪の少女。
「海賊やモンスターだって出るかもしれませんし、街の方向が分からなくなって遭難する可能性だってあります。……というか、このおねだりも三回目ですよね? 私が温厚じゃなかったら、もうとっくにキレてますからね」
「だって、渡し守さんがもう街出るなんて言うから」
「……一か所には長居しない主義なんですよ。私は、招かれざる客ですから」
「私は歓迎するけど」
「申し訳ありませんが、曲げられない自分ルールなんですよ。昔、色々あったものですから」
目を伏せがちにしたシスター服の少女が提示したのは、明確な拒絶のポーズだった。大人びた闇を感じさせる低い声に、金髪の少女は圧倒されてしまう。
「別に、あなたや街が嫌いというわけではありません。でも、一度基準を緩めると際限なく転がっていってしまうものなんです、私という老人は」
「……分かったよ。命あっての物種だもんね」
相変わらず不満げな表情だが、渋々という感じで金髪の少女が言う。
「物分かりのいい子は好きですよ」
「子供扱いして……ッ!!」
と、ちょうどその時、ガタンとした物音がした。発信源は足元、持つのも疲れて縁に立てかけていた釣竿だ。何かに操られるかのように、右に左に揺れている。今にも海に落ちそうだ。
「――って、引いてますよ!」
「引いてるって何が?」
「魚です! 早くしないと、釣竿もってかれちゃいますよ!」
ヒットしたした時のことを何も考えていなかったのか、すっかり呆けた様子の金髪の少女。それを置き去りにして、シスター服の少女は釣竿に飛びつく。
「って、重! 重いです! 早く手伝ってください!」
「…………ああ、うん」
「なんですかそのやる気のない感じは! サービス料取りますよ!
「それは困るわ」
シスター服の少女の後ろから金髪の少女が抱き着くような構図になり、引き合いが始まる。
「こ……れ、どうすれば、いい……の、かしら?」
「知りません……よ。適当にぃ……引けばいいんじゃ……ないですか」
「それ……じゃ、釣れる前に折れぇ……そうだけど」
「確か……に、そうですね」
「秘策とか……ないわけ、おばあちゃんの」
「秘策…………? ああ、一つ思いつきました、おばあちゃんなのでっ!」
言葉尻に貯めたエネルギーを推進力に変換し、シスター服の少女はその場で半回転する。持っていた釣竿を金髪の少女の手元に滑り込ませるために。
「……って、えー! ……怒るにしては大人気なくない!」
急に全質量がかかり、思わずたたらを踏む金髪の少女。しかし、耐える。思いのほか、体幹が良い。益体ない叫び声をワーワー上げてはいるが、両の足はまるで鉄だ。
(お嬢様みたいな見た目の割に、結構力ありますね、この人)
しばらく放置しても問題なさそうなことを確かめて、シスター服の少女は船尾の方に向かう。目的はそう、”これ”だ。
「なるほど……魔晶石で水を操って、魚を海面まで引き上げよう……ってことね」
船から身を乗り出して、シスター服の少女はオールを深く深く、可能な限り底まで落とす。水の流れを感じるために。
(――いた!)
その影は支配を逃れんと縦横無尽に動いていた。上下右右下下左、シスター服の少女は落ち着いて機会を待つ。獲物が近くにやってくるその瞬間を。船漕ぎ用に調整されたこの魔晶石の効果範囲は短い。適切なタイミングで爆発的に魔力を注ぎ込まなければ効果は望めないだろう。
「うぬぬ……舐めんじゃないわよ!」
意識を海中に集中させ、シスター服の少女は機会を待つ。そして――
「いま!」
刹那、ありったけの魔力を叩き込む。中枢から末梢へ、無色の力がアクアマリンを通り足元の海に注がれた。静けさは二秒ほど。次いで、水がこすれる小さな音がしたかと思うと、赤色の光を遮るように、大きな影が頭上に現れた。
「避けてください!」
「えっ? って、えええ!?」
言うや否や着弾。船が大きく揺れる。
シスター服の少女は、狙い通りの場所へ獲物が落ちたことにご満悦な表情。
一方で金髪の少女は疲れた顔をして、
「釣ったどー、ってやつ?」
と小さな声を上げた。
◆
「これが本マグロ? なのかしら」
紫色に染まりつつある空に背を向け、金髪の少女は漫画本と魚を見比べていた。
「残念ですが、多分違うと思います」
「……やっぱり?」
「私も詳しくはありませんが、聞いたところによるとマグロは人以上に大きくなるらしいですから。その子はせいぜい六十センチ、誤差で片付けるには大きすぎる差でしょう」
「まあ、顔も随分違う気がするしね……」
パタリと本を閉じ、曖昧な顔をする金髪の少女の横顔。シスター服の少女は忙しなくオールを操りながらそれを見ていた。
「意外とあっさりですね。違うの~!? とか言って、もっと騒ぐかと思っていましたが」
「私だってそこまで子供じゃないわよ。自分が無理をやろうとしていたことも理解しているつもりだし。むしろ、釣れちゃってびっくりって感じだわ。道具も場所も適当だったっていうのにあのタイミングで。運命って奴かしらね」
金髪の少女は、急速に暗くなりつつある後方の海に目を向ける。道しるべのない平坦な水の世界では、過去を振り返るのは難しい。既に先ほどのポイントがどこであったかも分からなくなっていた。
「ところで、これってなんて名前の魚だか分かる? 渡し守さん」
「う~ん、そうですね。かなり昔に図鑑で見た奴に似ている気がするんですが……なんだったか? 確か、マグロみたいな三文字だったような……?」
埋もれた記憶を掘り返すために、シスター服の少女は目を閉じる。
「あっ、そうです思い出しました! 確かそれはササキって名前です!」
「ササキ? 変な名前ね」
「タナカ、いやスズキだったかも……?」
うんうん唸って悩むシスター服の少女を置き去りにして、金髪の少女は一人大あくび。完全に興味を失ったのか、船体に寝転がりだす始末だ。
「……眠るのは構いませんが、多少揺れるので落ちないように気を付けてくださいね」
「ああ、うん。……って、痛! もう、デモンストレーションしなくても分かってるって!」
左右の揺れに引きずられて金髪の少女が頭を打つ。ゴッ、と鈍い音が響いた。よほど痛かったのか、目じりには薄っすら涙が滲んでいる。
「――――」
「……どうかしたの?」
無言を貫くシスター服の少女に尋常ない気配を感じたのか、身を起こす金髪の少女。
「お客様、身を伏せたままにしていてください。これは恐らく――」
それを諫めようとシスター服の少女が言い終える前。瞬間、視界が三メートル浮いた。
遅れて浮遊感がやってきて、さらに遅れて衝撃が少女たちを貫いた。
「な、なにごとよ!」
立ち上るしぶきの間から目を凝らすと、夕闇の中に一体の巨体があることに気づいた。黒と白のつるりとした皮膚と鋭い牙を持った獣。海の殺し屋ことシャチだ。しかもただのシャチではない。
「モンスター……タイプ:オルカですね。大きな身体に加え、魔晶石の力も使いこなす海の覇者の一匹です。さっきの釣りの時、魔力を嗅ぎつけられたんでしょうか、運が悪いですね」
「言ってる場合!? 早く逃げるわよ!」
「いえ、逃げるのは無理です。だってほら」
言うや否や、船がひとりでに移動を始める。具体的に言えば、タイプ:オルカの方向に向かって。よく目を凝らして水面を見てみると、渦が立っているのがよく分かる。
「奴らは高密度の魔晶石を身体に蓄えていて、それを使って狩りをするんですよ。私の安物なんかよりもよっぽどが性能がいいものです。だから、引き合いをしたって絶対に勝てません」
「勝てませんって……じゃあどうするのよ! 倒そうっていうのアレを!?」
「はい。お客様の安全はしっかり守りますので、どうかじっとしていて下さい」
シスター服の少女の手にはいつの間にかナイフが握られていた。
――小さい。見たところ刃渡りは十センチメートル程度か。とてもではないが大型生物と渡り合うのに使えるとは思えない。よく磨かれた白銀の刃も巨獣を前にすれば、まるで玩具だ。
シスター服の少女はそれを右手で持ち、そして左手の手首を勢いよく掻き切った。
噴き出す鮮血。暗い世界に紅色の線が一筋引かれる。
「な――ッ!?」
思わず息を吞む金髪の少女。
しかし、驚くのはまだ早かった。
一次元から二次元に、そして三次元へ。解き放たれた紅色は意志を持つかのようにうごめいて一つの武具を形作る。線は面となり、そして長い柄と鋭い刃を持つ槍となった。
赤よりも朱よりも紅い瞳をしたシスター服の少女は槍を強く握りしめる。
「これが長寿の秘訣です。……お客様、これより少々船が揺れますので、お気を付けください」
そう告げると、彼女は勢いよく走りだし、そして飛んだ!
四メートル、五メートル上空に。明らかに人間の脚力ではない。
暴力的な風をかき分けながら、シスター服の少女は獲物を正面に見据える。かち合う視線と視線。
その時になって、タイプ:オルカはようやく気づいた。自分は狩る側ではなく、狩られる側なのだということを。
威嚇あるいは悲鳴か。殺し屋とも呼ばれる海の王者は咆哮する。
沸き立つ水面。呼応するように水柱が展開され、斜線をふさぐ壁となる。
(無駄ですよ……!)
しかし、シスター服の少女はまるで意に介さず、身体を強く引き絞る。
意識するのは己に流れる熱き血潮だけ。
まるで一つの弓のようだ。その様を見つめていた金髪の少女はそう思った。
そして、跳躍が頂点に達し、落下を始めたその時、弾丸は放たれた。
派手な爆発音も極光めいたエフェクトもない。ただ一つ、小さく風切り音がしただけ。
だが、それで全て終わりだった。
◆
「着きましたよ」
フリーの渡し守用の小さな桟橋に接岸し、シスター服の少女はそう告げる。
辺りはすっかり夜。町はずれのこの場所は、街灯も少なくとても暗い。
しかし、彼女はまるで昼かのようにひょいと船から降りると、ロープを取り出してきぱきと固定を終える。
「さあどうぞ」
「……」
シスター服の少女は左手を差し出し、金髪の少女に下船を促す。
袖がめくれ、隠れていた手首が露になる。
傷一つない、白く滑らかな肌がそこにはあった。
「もう塞がったんだ」
「吸血鬼らしいので、丈夫なのが取り柄なんです」
「吸血鬼?」
金髪の少女が首を傾げる。
「古い時代の伝説の怪物です。太陽が苦手で人の血を吸って生きていたとかなんとか」
「なるほど、ジョナサンみたいな人ってことね?」
「ジョナサン?」
今度はシスター服の少女が聞き返す番だ。
「小説の主人公よ、そのまま『ジョナサン』ってタイトルの。……ってことはもしかして、渡し守さんもコウモリ?に変身できたりするの?」
「残念ながら、私はそういうのはできないですね。そもそも、血を吸っても同族を増やせないので、伝説で語られる『吸血鬼』と私は随分違っているようなのです」
苦笑いするシスター服の少女。
「そっか……でも、カッコいいのは同じだね」
「”カッコいい”ですか……」
意外な言葉だった。
シスター服の少女は思わず目を丸くする。
「うん、だってあんなでっかいモンスターを一撃で倒しちゃうんだもん、すごいじゃん。しかも可愛いしね」
「相変わらず能天気ですね、お客様は。――さあ、上がってください」
陸と海の境界線を越えて、二人は並び立つ。
しかし、それは一瞬。シスター服の少女はロープを外し、すぐに船に戻る。
「ちょっと重いですが、頑張って持ち帰ってください」
その手には、釣り上げた大きな魚。
それを桟橋に横たえ、シスター服の少女は手にオールを持ち替える。
「手伝ってくれないの?」
「はい。陸の上は、私の領域ではありませんので」
「来てくれたら、私の手料理も振る舞うけど?」
「申し訳ありませんが、自分ルールですから」
わざとらしくモジモジした金髪の少女の甘えを、シスター服の少女は一刀両断する。
「分かったわよ……じゃあ代わりにさ、私の血を吸ってくれない?」
「はい?」
脈絡のない申し出に、シスター服の少女は困惑した。
「いや、私だって今日のことは感謝してるし、なんとかお礼をしたいのよ。でも、お金はこれ以上出せないから他の物をと思って……」
「なるほど。確かに時間外料金頂いてませんでしたし、身体で払ってもらうのが筋かもしれませんね。――では少し、かがんで下さい」
「こうかしら」
中腰になった金髪の少女をシスター服の少女は抱き寄せる。
そして、不意打ち気味に牙を首筋に突き立てる。
――ゴクリ。シスター服の少女の喉を赤い血潮が通り抜ける。
一秒か二秒か。決して長くはない時間の後、一つの影は二つに戻った。
「……もういいの?」
「私にとって、血はお酒みたいなものですから。美味しいものはほどほどが一番なんです」
「そういうものかしら?」
「大人になればきっと分かりますよ」
本当は吸いつくしてやりたいぐらいだったけど、シスター服の少女はそう言った。
自分を人間だと思いたいから。理性を忘れたくはないから。
「では今度こそ、私はこれで」
ロマンチックな余韻もなく、そう言ってのける。
シスター服の少女は海の方角を向き、ゆっくりとオールを動かす。
遠ざかる岸と思い出に背を向けて。
「ねえ! 名前教えてよ!」
その背中を金髪の少女は追いかける。
「名前? ……ああ、そういえば名乗っていませんでしたね」
うっかりしていた、と言わんばかりに空を一瞬仰いで、シスター服の少女は
「――私は、私の名前は『シオン・アステリスク』と言います」
そう名乗った。
「ちなみに、貴方の名前は『ユーリ・エニアグラム』。この町の町長の娘ですね」
「私は――って、なんで知ってるのよ!」
機先を崩され、金髪の少女、もといユーリがツッコむ。
「吸血鬼は血を飲んだ人間の記憶を取り込むことができるんですよ。だからユーリ、あなたの恥ずかしい記憶も私には全部分かります。……うかつでしたね、これに懲りたら簡単に血を飲ませるなんて言わないことです」
シスター服のシオンは振り返り、嗜虐的な表情を浮かべる。それはまるで、姉が妹を弄る時のそれのようでもあった。
「くぅ、やってくれたわね! この借りはいつか必ず返すわ!」
「……楽しみにしています」
軽く笑みを浮かべると、シオンはオールに魔力を込めた。
「私、この街にずっといるから! 十年だって二十年だって! だから、いつかまた会いに来てよね!」
風よりも魔法よりも強い力で背中を押され、船は加速する。
シオンはもう、振り返らなかった。
だから、代わりに手を振った。
「痛っ」
小指に衝撃、ついで物が落ちるパサリという音。
足元に視線を移すと一冊の漫画本。
「それも貸すから! 次あった時、返してね~!」
ユーリが大事に持っていた『釣り釣り五ン兵衛⑰』だった。
色々言いたいことがあったが、粋じゃないなと思って、シオンはそのまま船を走らせた。
やがて声が聞こえなくなり、いつも通りのさざ波だけの世界に戻ったころ、シオンは船を止めて寝転がる。
「面白い子だったな」
貰った漫画本を手に取りながら、彼女は今日一日をそう評する。
……”面白かった”、そんな感想を抱くのはいつぶりだろうか。
少なくとも、それが良いことだというのを忘れるぐらい昔のことだろうとは思う。
なんだか、久しぶりに生きているという気分になれたような感じがした。
上機嫌。誰も見ていないことをいいことに、はしたなく足をばたつかせたりなんてしてみる。
「さて……」
あえて言葉を口に出し、シオンは漫画本の一ページ目を捲った。
「ふふっ」
手元の漫画本では、大柄な男が海に飛び込んで、これまた大きな魚と取っ組み合いをしていた。釣りに詳しくないシオンでもおかしいということが分かる光景。でも、ついそれに笑ってしまった。
多分、この本もかつての時代ではくだらない漫画、なんて言われ方をしていたんだろう。でも、それが今、ここにこうしてあってシオンを笑わせている。
なんだかそれが、シオンにはとてもすごいことのように思えた。
(今度、本屋の遺跡でも探してみましょうかね……)
つい、らしくないことを考えてしまうぐらいには。
今日の記憶もきっとすぐに風化する。不死者の時間はそれほどに長い。
しかし、この漫画本が手元にある限り、きっとすぐに思い出せるだろう。
「せっかくなので、今日は夜更かしでもしてみましょうかね」
生きることを噛み締めるかのように、シオンは小さくそう呟いた。
(終)