10
皇太子の自室はきちんと整えられているが、どことなく違和感を感じた。
片付きすぎているのだ。
普段は大人しく従順な皇太子妃だが、実は天真爛漫なお転婆娘のシェリー。
その本性が顔を出してしまったのだからもう止まらない。
「あら? どこかしら……」
本なんて貸していないのだから探してもあるわけがない。
シェリーはチラッとオースティンの顔を盗み見た。
「無いわね……ああ、そういえば皇太子殿下は読み終わった本をクローゼットに入れる癖があったわね」
そう言いながらベッドの奥にあるクローゼットに向かった。
「お待ちください! 私が……私が探しますので!」
「でもあなた、どんな本かわからないでしょう?」
「しかし、女性が男性のクローゼットを開けるなど……」
「夫婦よ?」
「しかし……」
「変なことを言うのね」
シェリーは困った顔をしながらも、横目でクローゼットの方を見た。
予想通り、扉の間から真っ赤なレースがはみ出している。
ふっと一つ溜息を吐いて、シェリーはオースティンの顔を見た。
「そこまで言うならあなたが開けなさい」
「はい、畏まりました」
あのはみ出し方なら、ドアを開けた瞬間にドレスが零れ落ちるはずだ。
シェリーは笑わないように歯を食いしばり、体を少しずらした。
説得に成功したと信じているオースティンが、本棚の方に向かったシェリーをチラチラと伺いながらドアを開ける。
急いで片づけたのか、ただ突っ込んだのか、真っ赤なドレスがオースティンに覆いかぶさった。
「あっ!」
オースティンの声に、シェリーは慌てて駆けつけたような演技をした。
「どうしたの? 大丈夫?」
「何でもございません。大丈夫です。大丈夫ですから!」
ここで突っ込むのは容易いが、今はその時ではない。
そう思ったシェリーはテーブルの前に急いで移動してから声を出した。
「大丈夫? 私は本棚を探していたの。変な声が聞こえたけれど、手伝いましょうか?」
「いいえ! 結構です。大丈夫です」
「そう? 本はこちらにあったから私はもう行きます。戸締りはお願いしても良いかしら?」
「もちろんです。どうぞお気をつけて」
「ええ、あなたもいろいろ大変でしょうけれど頑張りなさいね」
シェリーはさっさと部屋を出て自室に向かった。
自室のドアを閉め、ひとしきり笑った後でシェリーは自分が泣いていたことに気付く。
なぜ泣けるのだろう。
愛してもいない男が、誰を抱こうと関係ないのに。
執務室で何をしようが、自室に着替えを置かせようが何の興味も無いはず……そう思おうとするのだが、なぜか涙が止まらない。
シェリーは自分の気持ちが理解できなかった。
荷造りをしていたメイド達が心配そうに見ている。
きっと母を想って泣いているのだと勘違いしているのだろう。
作業の手を速めて、すぐにでも出られるよう気を遣っている。
「では後はよろしくね」
見送りに来たメイド長と侍従長に別れを告げ、シェリーは馬車に乗り込んだ。
それでも見送りには来るだろうと思っていた夫は来ず、見舞いの言葉も無い。
それが今のシェリーの立ち位置なのだと、改めて乾いた笑いが込み上げた。
王宮の門を出る時、シェリーは宮城を振り返った。
「戻らなくてもよいなら戻りたくは無いわね」
目の前に座っている侍女は、シェリーの独り言を聞き流してくれた。
「姉さん! お帰りなさい。思っていたより早かったね」
「ただいまブルーノ。お母様は?」
「母上は部屋におられるよ」
そう言うとブルーノはシェリーに従って来た騎士や侍女に声を掛けた。
「皆も忙しいのにご苦労だったね。食堂の方にお茶の準備をさせているから、ゆっくり休んで欲しい。この屋敷の中では我が家の使用人が姉の世話をするから、君たちは王宮に戻ってくれて構わない」
「……畏まりました」
全員を代表するように護衛騎士が礼をとったが、納得はしていない様子だ。
シェリーが声を掛けた。
「殿下から何か言われているの?」
「いえ、そういうわけではありませんが、国王陛下よりシェリー妃を必ずお守りするようにと……」
「まあ! 国王陛下が? 恐れ多い事だわ。でも実家だし、そこまでしていただくわけにはいかないわね。では数人の侍女達は残しましょう。そして騎士の中からは二人残ってちょうだい。それでどう?」
「仰せのままに」
そう言うとブラッド侯爵家家令の案内で、全員がぞろぞろと食堂へ向かった。
ブルーノが小さく口笛を鳴らしてシェリーを揶揄う。
「さすが皇太子妃殿下だ。オーラが違う」
「そんなことよりお母様よ。お父様はご在宅なの?」
「うん、揃って待ってるよ」
「では行きましょう」
勝手知ったる我が家だ。
シェリーはブルーノより先に歩き始めた。