第174話 開演準備
「避難完了しました!」
エリアZの緊急避難部屋。
実験体が暴走したときや、今回のように実験体を放出したときに避難するシェルターの役割を果たす部屋である。
異例の四度目の空砲を受けて、俺は危険度の最も高い実験体のいる部屋の牢を解いて、この部屋に何とか滑り込んだ。
「サンプルもちゃんと保管庫に移しただろうな?」
「あっ……」
室長であるオリバスは俺の安否よりも先に、実験で使っているサンプルのことを気にしていた。
……この人、人が危険な作業をしているときに、自分はのうのうと自分の研究をしていたのか。
当然、そんなことを知らされてはいない。それに、仮に命令されていたとしても、今の状況でサンプルの移動なんてできるはずがない。
すると、俺の態度を見たオリバスは部屋の壁を力いっぱい叩いて、息を荒くして興奮していた。
「だったら、今すぐ行ってこい!!」
「え、いえ、今はさすがに危険なんじゃないかと……」
「貴様! 口答えするのか!!」
「実験体を放出しているので、今保管庫に向かうのは危険ですよ」
俺がそう言うと、オリバスはこちらに睨み殺すような目を向けた後、俺の胸を思いっきり押して突き飛ばした。
「貴様はクビだ! 二度と顔を見せるな!!」
そんな言葉を残すと、オリバスは緊急避難部屋の扉を開け放って、廊下の方に出ていってしまった。
仕事が上手くいかなければ、部下に手を上げる。それは組織の中で一番下の立場の者にとっては、日常のようなものだった。
そして、それは組織の中で黙認されている。だから、同僚がこんな目に遭っても、誰も声をあげることなどーー。
「何か音が聞こえませんか?」
しかし、その時は少しだけ違っていた。
誰かがそんな言葉を口にして、全員がその真相を確かめるために、耳を澄ませていた。
すると、確かに何か音が聞こえてくる。その音は部屋の出入口よりもずっと遠い所か聞こえてきていた。
それは壊れたオルゴールのような音だった。
肌にざらりとした何かが纏わりつくよう不気味さと、不安と恐怖の感情を無理やり引き出すような不協和音。
心の奥にある感情を沸々と煮たてて、覗き込むだけで怖くなるような暗い感情だけを抽出していく。
ゆっくりと時間をかけて、その感情を前にして怯える俺たちの姿を楽しむような、ケタケタという笑い声も聞こえてきた。
「……閉めてっ、その扉閉めてよっ!!」
一人の研究者の女性は、耳を塞いで歯をカタカタと震わせていた。
ただオルゴールの音を聞いているだけ。
それなのに、その女性は気が動転したように、何かに脅えるようにそんな言葉を口にしていた。
カタカタという音が、離れた距離にいる俺の所まで聞こえてくるほど……
いや、違う。この音は俺の口が震えて歯を鳴らしている音だ。
部屋が寒いわけでもなく、俺は何かに脅えるように歯をカタカタと震わせていたのだ。
煮詰められてどろっとした感情は、体にぴたりと付いて離れようとしない。不気味なその感情はそのまま俺の体の温度を下げて、鳥肌を全身に巡らせていた。
どうやら、それは俺とその女性だけではないみたいだった。
その部屋にいた人たちは、正体不明の何かに脅えるように、自らの肩を抱きながら体を震わせていた。
それが何のか、その正体について考えるよりも先にーー。
「え?」
俺たちは知らないどこかにやってきていた。
瞬きを二つした次の瞬間に、目の前に広がっていたのは、アリーナ席が周囲をぐるっと囲んでいるサーカスのステージだった。
その客席には俺たちの他に、放ったばかりの実験体たちで埋め尽くされていた。
そして、その中央にはピエロの仮面をつけた男が、一つのライトに照らされていた。
目の所から赤いインクを垂らしたような仮面をつけている。
その男は紳士的な会釈をした後、不気味な笑みを浮かべていた。
いや、仮面をつけているのだから、その下がどんな表情をしているのかは分からない。
それなのに、それを思わせる何かがそこにはあった。
そして、そのピエロは何を思ったのか、突然舞台上でジャグリングを始めた。小さな球から初めて、徐々にその球を大きいものに変えていった。
その間も不協和音を奏でる壊れたオルゴールの音が流れ続けている。耳障りが悪く、明るいはずの曲調がどこか壊れているようだった。
そんな不気味な状況を前に、俺たちは何も言えずにそのジャグリングを見せつけられていた。
「なんだ、貴様は」
「し、室長?」
しかし、室長がただ一人席から立ち上がると、ステージの上にいるピエロに怒鳴る口調で言葉を続けた。
「こんなくだらないことに関わってなどいられるか! 私はサンプルを回収に行かねばならんーー」
「ちょっ、」
そこまで言うと、急に室長が横に倒れた。俺達の方に急に倒れてきた室長の体を支えようとすると、急に何かの液体が多量に飛んできた。
「な、なんだこれ」
飛んできた液体を拭うと、それは赤黒い色をしていた。
仕事上、それが何であるのかはすぐに分かったのだが、理解が追い付かなかった。
なぜこのタイミングで、これが飛んできたのだろう。
そんな事を考えていると、不意に何かに引かれるように俺は顔を上げていた。
その先では、先程と変わらない様子でピエロがジャグリングをしていた。いや、少しだけ投げているものが大きくなったような気がする。
どこか見覚えのある大きさのそれ。それの正面がこちらに向けられた瞬間、俺はそれと目が合ってしまった。
見覚えがあるのは当たり前だ。
だって、それはついさっきまで室長の頭だった物なのだから。
どくどくと首から流れてくる赤い液体。
それが俺たちの椅子を血の色に染め上げていき、口に飛んできたその液体はどこか鉄の味がした。
それを頭から浴びてしまった俺の隣にいた女性は、喉の奥の方をひゅっと鳴らした。
そして、その会場は一気に悲鳴に包まれたのだった。
それを合図にするように、複数のライトがステージ上にいるピエロを照らした。
まるで、それは開園の合図をしているかのようだった。