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第7話 シャルナ・エルフィン

(柔らかい。温かい。瑞々しい。もちもち。優しい。モニモニ。ふわふわ。小さい。愛おしい。可愛い。優しい。あったかい。気持ちいい。幸せ。幸せ。幸せ……)

 クララの手の感想がドーパミンとともに脳内に無限に溢れ湧いてくる。幸せフェロモンが手から脳に伝わり無限に幸福感を産み出し続ける。幸せ。幸せ。幸せ。幸せ……玄咲は生涯で最大の幸福の中に今まさに存在していた。

 神楽坂アカネのおっぱいを揉んでいる間は意識が虚ろで、夢だと思っていたこともあり今となってはその感触が殆ど記憶にさえ残っていない。しかし、今は明晰な意識でしっかりと幸せの感触を握り締めている。それも、無限にさえ思える長時間。玄咲はこの時間が永遠に続けばいいと本気で思った。

「えっと、ここが玄咲くんのクラスです」

 だが、幸せな時間はいつだって唐突に終わる。クララがぱっと玄咲の手を離す。案内を終えたからだ。振り返るとそこには大して長くもない廊下。手を握られている間は永遠に
 思える程に引き延ばされていた体感時間が、だが過ぎてしまえば一瞬にまで縮むこの世の不思議。

(これが相対性理論か。なんと無情な)

「そのー。この1年G組はですね。成績の悪い人とか、あと、素行の悪い人を集めた、学園長直々の指示で増設されたクラスです。はい」

「え? G組?」

 クララの言葉に我に返る。そして、頭上の、教室の扉の上にかかったネームプレートに刻まれた文字を読む。1年G組。そう書かれていた。

「俺が、G組……? な、なぜだ。ここは問題児が放り込まれるクラスのはず……。クララ先生、なぜ、俺が」

「……それは、玄咲くんが問題児だからです」

 視線を逸らして、とても言いづらそうにクララは言った。

(玄咲くんが、問題児……)

 その言葉が、玄咲の頭の中で何度もリフレインする。よりにもよって憧れのクララ・サファリアに……ショックのあまり頭がぐわんぐわんと揺れる。

「……玄咲くんの席は最後列、左から二番目の席です。それじゃ、私は、自分のクラスのHRをしなくてはならないので失礼します」

 ぺこりと頭を下げクララが立ち去る。うなだれながら玄咲は1年G組の教室の扉をガラリと開け、入室した。



(……ヤンキー漫画の、世界……)

 扉を抜けるとそこはヤンキー漫画の世界だった。顔の悪そうな生徒と頭の悪そうな生徒の吹き溜まり。あまりにも自分と場違いな場所――玄咲は我が身の不運を呪った。

(G組。通称ゴミ組。成魂期の子供は敵がいた方が伸びるという学園長の方針で設立されたクラス。わざわざスカウトしに行ってまで集めた問題児《バッドボーイズ》と、成績下位者の中でもさらに端っ子の他のクラスに入りきらなかった生徒をワンチャン化学反応覚醒を狙ってゴミ箱に突っ込むように放り込んでおく、不良と劣等生の吹き溜まり。主人公と幾度も対立する学園の敵役で、所属生徒の平均的な強さはかなりのもの。まぁ全部どうでもいい。問題は……)

 左手。まだ温もりが残っているそこをギュッと握り、玄咲は心の中で涙を流した。

(クララ先生の攻略がたった今不可能になったことだ……クララ先生のイベントは主人公が1年C組であることが前提のイベントばかりなのに、酷い。どうして神は俺に嫌がらせばかりするんだ……俺は何も悪いことしてないのに……)

 ポロポロと無言で涙を流しながら玄咲は自分の席に向かう。

「あいつ、なんで泣いてんだ」

「ここがおかしいんだろ」

「あれが噂の変態か……」

「あいつ絶対人殺してんだろ……」

 非好意的な視線があちこちから注がれるが、玄咲は全く気にならなかった。どうでもよかったからだ。

(ここが俺の席か。ちっ。見すぼらしい席だ。形が歪んで見えるぜ)

 鬱屈から全生徒共通の木製机を心中で理不尽に罵りながら視界を歪ませる涙を拭い、玄咲は椅子を引いて着席する。

「あ――」

 ――隣の席から声がした。知ってる声だった。つい数時間前に聞いた声だった。なぜ、声を掛けられるまでその存在に気付かなかったのか玄咲は不思議に思う。それほど、声を発した者の容姿は特徴的だった。人並み外れて、美しかった。

 天使のように白く、美しい少女。玄咲が入学式で話しかけた美少女が隣の席でくりりとした大きな眼を見開き玄咲を見ていた。

(っ! 天使――!)

 目が合う。見惚れ、硬直する。時が止まった世界で、数秒、玄咲は少女と見つめ合った。

 ふいに、少女がくすっと悪戯っぽく笑った。そして、窓際の席という立地上隣接する窓から腕を出し、雨こそ降っていないもの雲った空――決していい天気とは言えない――を指さして、

「今日は、いい天気――だね?」

 そう、言った。

「っ!」

 明らかに入学式での玄咲の失態を揶揄した言葉。強烈な恥を感じて玄咲は赤面した。さらに、少女は追撃をかける。机に肘を突きバランスを取りながら玄咲の耳たぶに己の口を近づけ――。

「|今度は《・・・》顔、赤いよ?」

 至近距離で、そう囁きかけた。
 玄咲の顔が比喩でなくゆでだこのように真っ赤になった。
 
「……|青ざめる《・・・・》より、マシだろう?」

 講堂を見上げ青ざめた自分を皮肉る玄咲の精一杯の諧謔を受けて、唇に指を当てがっておかしそうに少女はくすくすと笑った。無邪気に、楽し気に。神秘的ですらある天使の顔に、年相応の、ちょっと悪戯っ気を含んだ笑み。そのギャップに玄咲は多大なるエモーションを感じた。180BPMの16ビートを心臓の鼓動が刻み始める。それを落ち着けるために玄咲は意図して意識を隣席の少女から切り離し、ゲームの中の少女のことを考え始めた。

(……ゲーム内の彼女は復讐鬼。笑っているグラフィックなどありはしない。多くを語らず、殺す、とか、許さない、とか、謎めいた言動を戦闘中に繰り返すシリアスなキャラだ。プチサディスティックな言動にその片鱗が見れなくもないが……まぁ、別人だな)

 横目でちらっと少女を見る。目が合う。速やかかつ滑らかに視線を外し何もなかったことにして玄咲は思索《現実逃避》を続行した。

(……CMAは製作時間が足りなくて、キャラやイベントを大幅カットされて世に出たゲーム。本来なら、彼女の過去も詳細に語られて、妙に気合の入ったグラフィック的にもしかしたらヒロインでさえあったかもしれない。そしたら、攻略可能だったのに……)

 隣にいる、ヒロインにも負けないくらい、いや、並のヒロイン以上に魅力的な容姿の少女。だが、攻略対象ではない。魅力的にも関わらず、少女は玄咲とエンディングを迎える運命にない――。

 魂を吐き出すようなため息を玄咲をつく。

(神楽坂アカネもダメ。クララ先生もダメ。この少女は最初からノーポッシブル。このままではヒロインを選ぶどころではない。8人いるヒロインの1人も攻略できずにライバルの光ヶ崎リュートと旅に出る|強制ホモ《ノーマル》エンディングを迎える羽目になるかもしれないぞ――)

 絶望的な未来予想図。絶対にヒロインを誰か一人は攻略する。玄咲は改めてそう心に誓った。

(しかし)

 視界の端っ子で少女の姿を捉えながら玄咲は思う。

(う、うん。意外とG組も悪くないかもしれない)

「おい」

「ん?」

 ふいに、声をかけられる。それと同時に、玄咲の机の正面に男の胴が現れる。見上げると、髪型をパンチパーマにした男の歯抜けた間抜けな猿顔があった。耳が、手品でも使ったかのような大きさ。さらに、肌は黄色で毛深い。しかも猿顔。一度見たら忘れられないほどに特徴的。にも拘わらず玄咲の記憶にない顔だった。

「お前。ちょっと目立ってるからっていい気になってんじゃねーぞ。あんま調子コイてっと痛い目みせんぞ?」

(誰だこいつ。ゲームの雑魚敵のバナナモンキーみたいな顔――おそらく、バナナモンキーの亜人か。この世界オリジナルのモブキャラクターか? どう対応したものか……)

 イレギュラーな人物。イレギュラーな会話に戸惑う玄咲。中々返答をしない玄咲に苛立ったのか、歯抜けパンチパーマは舌打ちをして玄咲の机を蹴りつけた。

「黙ってねーでなんか言ったらどーなんだよ! スカした目で見てんじゃねーぞコラ! ぶっ殺すぞ!」

 チンピラのような見た目で、チンピラのようにイキリ散らかす歯抜けパンチパーマ。迫力皆無なそのオラついたイキリに失笑をこらえながら、玄咲はまぁまぁと両手を突き出して場を治めようとする。

「その、君」

「あ? 俺の名前は君じゃねぇ。ヒロト・オライキリだ覚えとけバーカ」

「……」

 あんまりにあんまりな名前に突っ込みたいのをこらえながら、玄咲はヒロトをなだめにかかる。

「えっと、ヒロト君。俺は暴力が嫌いなんだ。できる限り何事も平和的な解決を目指すべきだと思ってる。だから、ヒロト君。俺に君と争う意思はない。分かってくれるか」

 玄咲は精一杯ヒロトを説得する。

「――ふん、弱虫が」

 玄咲の説得にヒロトは鼻息で応じた。

「もっともらしいこと言ってっけど要は喧嘩する勇気がねーだけだろーが。お前俺のこと馬鹿だと思ってんだろ。詭弁で煙に巻けっと思ったら大間違いだぞテメー」

「いや、本音なんだが」

「黙れや」

 ヒロトは玄咲の机にペっと唾を吐き、さらに顔をグイっと玄咲に近付けてイキった。

「雑魚がイキってんじゃねーぞ。どーせてめーみてーな弱虫はすぐ退学になんだ。夢見るだけ無駄だから今の内に荷物纏めて故郷に帰っとけバーカ」

「……そうか」

 玄咲は面倒くさくなってきたので適当に返事をした。

「そうだよ。へっ」

 ひとしきりイキって満足したのか、ヒロトは肩でオラつきながら自分の席に戻っていった。一連のやり取りを経て、玄咲は自分がG組に配属されたという事実を嫌という程実感した。

(流石G組。屑ばかりだ。物語上の敵役なだけはある。……さて、なにか唾を拭くものはないかな?)

 玄咲は机の中に手を突っ込んでみる。固い感触。それを無視して奥へ。くしゃくしゃに丸まったペーパーを発掘。引っ張り出し、広げてみる。

(罰怒暴威子《ばっどぼーいず》、死苦夜露亡衣人《しくよろないと》、暗殺狂舞会《ひっとぱれーど》、座・弩烈怒《ざ・どれっど》……中二ノートならぬ不良ペーパーか。ゴミだな)

 玄咲は唾をペーパーで拭き取り教室後方にあるゴミ箱に投げ捨てる。その動作を見届けてから、少女が玄咲に話しかけてくる。

「酷い、ね」

「ん? ああ」

「やり返、さないの?」

「ああ。やり返さない」

「ムカつか、ない?」

 途切れ途切れの特徴的な喋り方をする子だなと思いながら玄咲は少女に返答した。

「ああ、ムカつかない。奴にも言った通り俺は基本平和主義者なんだ。なるべく争いは避けるべきだと思っている。必要なら躊躇もしないが」

「ふーん……見た目より、温厚なんだ」

「……どうだろう。優先順位の問題という気もする。もしも自分ではなく天使が悪く言われたり傷つけられたら、俺は間違いなく」

「天使……?」

「……いや、その」

 口が滑ったなと思いながら誤魔化しの言葉を吐こうとする玄咲に、少女が先制して問いかける。

 なぜか、不機嫌そうに。

「天使族、好きなの?」

「え? ――あ、そうか」

 CMAの世界には天使族と呼ばれる地球の天使の概念そのまんまの見た目の種族が存在する。

(確かにこの世界で天使と言ったら天使族を思い浮かべるか)

 思いながら、

「好きだよ。大好きだ。嫌いなわけがない。天使の外観も俺は大好きなんだ」

「……そっか。みんな、好きだよね。白くて、綺麗だもんね」

「ただ、俺は天使族が好きなのではなく天使が好きなんだ。天使族はその特徴を多分に含有しているから好きなだけであって、えっと、意味が分からないと思うが俺もよく分からない。言葉にできない概念的な愛なんだ。だから、とにかく、天使が好きで――」

 少女のつまらなそうな顔を見て、天使への愛が暴走しかけていることに玄咲はようやく気づく。

「本当、好き、なんだね」

「……うん。この話はやめよう。互いにとって何の益もない気しかしない」

「そうだね。天使、好きなんだ」

「……」

 少女も少女で天使に何らかのこだわりがあるようだったが、今の関係性でその正体を聞くことは躊躇われた。

「……まぁ、いいや。えと、天之、玄咲」

 何故、名前を。そう聞きかけて、入学式で学園長に名前を問われ大声で宣誓したことを思い出し、玄咲は口を結んだ。少女が胸に手を当てて自己紹介する。

「私の、名前、シャルナ・エルフィン。シャルって、呼んで」

「いい、のか?」

「うん、その代わり、私も、あなたのこと、玄咲って、呼ぶ」

「!?」

 少女――シャルナの発言は玄咲の基準からしたらあまりにも攻め過ぎていた。あだ名、呼び捨て、それはかなり仲のいい男女間でのみ発生するイベントのはず。しかし、シャルナは攻略対象外。その気がないのは明白。玄咲には何が何だか分からなかった。

(分からない。この少女が何を考えているのか全く分からない――!)

 ただ、天使のように可愛いこと以外、現時点では何も分からなかった。

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