第139話 【クラウン】
随分と舐められたものだ。
以前戦ったときは、不意を突かれたから負けたものだと思っていた。それでも、負けは負けだと潔くあいつの力は認めたつもりだった。
それが、あの時から手加減されていたとはな。
舐められっぱなしで終わるわけにはいかない。こいつ本気を引き出して、叩き潰してやると意気込んでいた。
それだというのに、そいつは何かわけの分からない言葉を口にしたと思った次の瞬間には、急に顔を俯かせた。
敵を前にして視線を逸らすとは、完全に俺たちのことを舐め切っている。
そんなに切り落として欲しいのなら、その首を今すぐに切り落としてやる。
そう思って足を踏み込もうとしたのだが、不思議と体が動かなかった。
何か体を操られているのではない。本能的に感じる危険信号を前に、足がそれ以上踏み込むことをしようとしないのだ。
「……なんだ、あれは?」
魔法使いのボアロの、畏怖の念が混じっているような声に引かれるように正面に顔を向けると、そこには先程まで顔を伏せていたあいつの顔があった。
「ピエロか?」
その顔にはいつハメたのか、ピエロのような仮面が着けられていた。
あの日に見た物とは少し柄が違い、派手さよりも不気味な感じが増していた。
赤いインクが垂れたような目元は、こちらの恐怖心を煽るようなものだった。
「気味が悪いですね」
全員の言葉を代弁するように、弓使いのオードがそんな言葉を漏らした。
そして、そんな言葉を受けたあいつは大袈裟に驚いた素振りをしたあと、がっくりと肩を落としていた。
何かを演じるような身振り手振り。
……さっきのあいつと同一人物なのか? 纏っている空気がまるで違う。
何かに乗っ取られたように別人のような動きをするやつを前に、俺以外の連中も戸惑っているようだった。
「ふざけやがって……ぶっ殺してやる」
しかし、そんな変わりようを見ても、ラルドはただ怒りの感情に顔を染めていた。そして、その怒りのままにラルドが突っ込もうとしたタイミングで、あいつは胸元から何かを取り出した。
手のひらよりも少し大きい箱状の物を取り出すと、それをパカッと開いてこちら側にそれを見せつけてきた。
遠くてその中身が何であるのかは分からない。
戦闘中に急に謎の箱を取り出して、それを見せつけてくるという行為を前に、俺たちはどう行動したらいいか分からずただ戸惑っていた。
そんな俺たちを見てあいつは、ケタケタと笑い声をあげながらその箱を少しいじっていた。
すると、すぐにその箱から音楽が流れてきた。
本来は明るい曲調なのに、それを無理やり不協和音に変えたような音色。壊れたオルゴールのような音を奏でるそれは、耳の中をざらりと舐めるような不気味さがあった。
その音楽によって感情をかき混ぜられて、不安や恐怖といったものだけを抽出させられていく。
無理やり純度の高いその感情だけを高められていく。それに合わせたように、あいつのケタケタとした笑い声が肌を撫でたような感覚があった。
「……鳥肌」
体にぴたりと張り付いて、離れていかない感情。それらは背筋の温度を確実に下げていき、分かりやすい現象として姿を現した。
全身に鳥肌が立っていた。
どんな戦場を前にしても恐れなかったこの俺が、目の前の無名な男を前に本能的に恐怖していたのだ。
ふざけたような仮面をして、戦闘中に壊れたオルゴールを鳴らしている男を前にしてだ。
徐々に大きくなっていくその不協和音を前に、冷や汗が頬を垂れていくのが分かった。
強く握ったはずの刀の切っ先が微かに揺れている。
その動きを止めようと、両手で剣を握りしめた瞬間、あいつの手のひらにあったオルゴールが俺たちを呑み込むように大きくなった。
「……え」
誰が漏らしたのか分からない声が聞こえたと思った次の瞬間には、俺たちは口を大きく開けたそのオルゴールに呑み込まれたのだった。
気がついて目を開けると、俺たちは知らない場所にいた。
サーカスの円形劇場のような場所で、ずっと壊れたオルゴールのような音が流れていた。
すると、突然舞台にライトが照らされて、あいつが舞台上で紳士的な会釈をこちらにしていた。
一体何がどうなったのか分からない。
不安と恐怖の感情だけを駆り立てるようにして、不気味な仮面は俺たちのことを覗いていた。