番外編 シオン
私は貧しい子爵家に産まれた。貴族だというのに質素な屋敷にたくさんの兄弟達に囲まれて過ごしていた。長女である私は毎日家事や弟や妹の世話に追われて貴族の子女であるという自覚は覚えたことすらなかった。
母は父が失敗した事業の借金のために毎日朝から夜まで働き続けていた。そんな時、父はと言うと自身が事業に失敗したことに嘆き昼間から酒に溺れる毎日だった。
「お姉ちゃん、今日ご飯は?」
「シオンお姉ちゃん!また私の玩具とられちゃったー」
「シオン姉ちゃん!また服に穴空いた!」
毎日、毎日私の周りは弟と妹達の声が飛び交っていた。この日常に嫌気が差したこともあるが、母様が働いてくれているから弟や妹と一緒に生きていけるのだと心に何度も言い聞かせていた。
この間街に出かけた時、私と同じ歳くらいの貴族のお嬢様が友達と買い物をしているのを遠目から見た。本来なら私も貴族の娘らしくあんな日常があったのかもしれないと思いを馳せた。そんなこと思ってもしょうがないのにと思いながら私は水仕事に意識を戻した。そんな時だった。
「お姉ちゃん!大変だよ!」
「なに?エマ?ご飯ならジョシュアが帰ってきてから…」
「ちがうよ!父さんが!」
「え?」
エマに連れて行かれると屋敷の前には以前にも比べて酒臭くなった父が倒れていた。いつの間にか他の兄妹達も父の元に集まっていた。意を決して私は父さんに話しかけた。
「父さん!なにしてるの?」
「…あん?…その声はシオンか?」
「ええ、そうよ」
「…シオンか、ひっく…なら丁度いいな」
父さんは私を見るなり、よろけながら立ち上がり私の腕を勢いよく掴んだ。
「なに?!痛い!」
「お姉ちゃん!」
兄妹達の心配そうな声に振り返り「大丈夫よ」と声をかけた。それと同時に父の様子を不審に思った私はエマにみんなを連れて屋敷に入るように伝えた。
父の腕はその間も私の腕を離そうとしなかった。振りほどこうにも父の腕は私をしっかりと捉えていた。
「…なんなの?」
「実はよ…シオンにしか頼めねぇことがあるんだ」
「何?」
「この間よぉ、酒代が欲しくて有り金ぜーんぶ賭けたんだけどよぉ…それがボロ負けしちまって」
「まさか、母さんが働いたお金を?!」
父はたまに屋敷に帰ってきては母さんに半ば脅迫して金をせびっていた。母さんが金を渡せないと言えば母さんに暴力をふるった。そしてそのお金を賭け事に使ったというのだから呆れて物が言えなくなった。
「…元々俺の屋敷に住まわせてんだからいいだろ…それで負けたもんだからなーんも払えなかったんだが金の代わりによ…お前を賭けたんだ」
「…私を?」
「俺が負けたらお前を売るっていう条件でな」
下衆な笑いを浮かべた父さんは私を舐めずり回すように見た。
「お前も年頃になったし、俺の助けになってくれよ。…俺から見ても今のお前は上玉だしな」
「ひっ!」
私の目の前にいるのは本当に父なのだろうか。私が知っている優しかった父の姿はもう面影すらなくなっていた。
「だから来い!今すぐにだ!」
「無茶よ!まだあの子たちだって小さいのよ!母さんだって働きづめだし!…それに父さんの借金だって…」
そう言った途端、父は血相を変えて拳を振り上げた。振り上げた拳は私の頬に勢いよくぶつかった。
「うるせえよ!そうやってお前も俺のこと馬鹿にしやがって!…売る前に思い知らしめてやる!」
それからのことはよく覚えていないが私は父の力に抗えずただ石のように暴力に耐えるだけだった。しばらくして父の気が落ち着くと私の顔を見て一言だけ「明日また来るからそれまでに顔だけでも治せよ」と言って屋敷から去っていった。
このまま死ぬのだろうか。痛いし、怖いし、身体が寒い。遠くからエマの泣き声が聞こえてきた。それから目が覚めると私はベッドに寝ていて全身が傷ついていたはずなのに傷一つついていなかった。そして目の前には美しい金色の髪の少女が私の手を握っていた。
「大丈夫ですか?」
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!…よかった」
エマが泣きながら私に抱きつくと他の兄妹たちも私の傍に駆け寄ってきた。そんな様子を少女は愛おしそうに見守っていた。
「あのこの子は?」
「お姉ちゃん!この方は聖女様だよ!聖女様の馬車がたまたま屋敷の前を通って、私のお願いを聞いて助けてくれたの!」
よく見ると彼女の周りには王国の紋章をつけた騎士や侍女たちが近くに控えていた。私はベッドから降りて頭を垂れ膝を着いた。こんな時に遠い昔に習っていた貴族のマナーが役に立った。
「失礼致しました。王国の光、聖女様にご挨拶いたします。ノーブル家長女、シオンでございます。この度はエマのご無礼大変失礼いたしました。」
「頭を上げてください。そのように固くならずとも良いですよ。私はこの国の聖女なのですから困っている民がいれば助けるのは当たり前です。」
「…なんとお礼を言っていいのか」
「お礼など考えずとも良いですよ」
そう言って彼女はまた私に微笑みかけた。この方が最近、聖魔法を発動させたというアンリゼット家のアリス様だということに驚きを隠せなかった。幼いと聞いていたけど、エマと変わらぬ年頃に見えた。
「つかぬことを聞きますが何故あなたはあんなに傷を?」
「え…それは…」
アリス様は私の表情を見るとお付きの騎士や侍女、兄妹達に部屋を出るように言った。
「あまり落ち着いて話せないかもしれないですが、良ければお話ししてくれませんか?」
アリス様の優しい眼差しに私は事の顛末を話した。私より幼いというのに自然とこの方には話してしまう。これが聖女なのかと改めて感じた。
「それは貴女の身が危険ですね」
「…ですが、おそらく父はまた借金をして…これ以上家族に危害が加わる恐れがあるのなら私がいけば…」
「そのような考えはやめるべきです。」
「え?」
「今はあなたの気持ちを聞いているのです。…行きたいのですか?」
「それは…」
アリス様の眼差しに私は涙を流した。
「私は行きたくないです!怖いです!…それに本当は年頃の子らしく学校にも行きたいし、一番は兄妹たちとも離れたくない!」
私は自分の気持ちをアリス様にぶつけていた。アリス様は私のことをいつの間にか抱きしめると私が泣き止むまでそのままでいてくれた。
「落ち着きましたか?」
「ええ、聖女様にみっともないところをお見せして申し訳ありませんでした。」
「そんなことはないですよ。あなたはとても頑張ったのですから。」
「…ですが、父の件、私にはどうしたらいいのか」
「…それですが私にお任せしていただけないでしょうか?」
「え?そんな!聖女様にそこまで」
「言ったでしょ?私は困っている国民を助けるのが仕事なんです。」
微笑むアリス様は間違いなく聖女だった。聖女様は去り際に「明日は安全のためにあなた方家族は家から出ないで下さい。ノーブル家の奥様にも私からお伝えしておきます。」と言って屋敷を後にした。
それからというもの父が私を連れ去ろうとすることもなく、屋敷に聖女様づての使いがやってきた。
「え!私が?」
「はい。聖女様からやる気があれば是非にと…」
それは貴族の魔法学院の特待生枠への案内だった。貴族であればほとんどの子息が通うという魔法学院は私の憧れだった。特待生枠は学費が免除されるため稀に優秀であれば一般階級の庶民が使うものだが、私のように学費が払えない貧しい貴族の子も使うこともめずらしくなかった。
それに特待生枠でも受験料は発生し、我が家にはそんなお金を払う余裕もなかったから一生通えないと思っていたが聖女様がそれすら私のために援助してくれたとのことだった。
「私、やります」
「聖女様も喜ばれますよ。それから…」
使いのものから聞かされたのは父のことだった。あの後、聖女様が直接話しをしにいき、父の借金を肩代わりするかわりに真面目に働いてノーブル家の再興のために尽くすことを説得したらしい。いまは聖女様の紹介で工場で懸命に働いているとのことだった。使いの人は父からの言伝で「胸を張って会いに行けるようになったら会いにいく」と預かったと言っていた。
使いの人を丁重に見送ると私はふと王宮のある方を向いた。
「私は貴女様に仕えたいです。アリス様。」
その時、風がふわりと私の髪を舞い上がらせた。