4.きっかけ
あの騒動の後からしばらく経った後、私とお父様の元に正式に陛下から婚約破棄を認めたことを意味する手紙が届いた。
私とお父様はせめて陛下から直接話しが聞きたいと思い、何度も城に足を運ぼうとしたが「陛下は体調が悪いため拝謁できません。」と言われるばかりだった。
私は陛下の真意が分からぬまま、日々をただ消費するだけだった。あんなにも自分のことを娘のように慕ってくれていた陛下がもういないことに胸が痛くなる。
「本当に陛下は…」
侍女もいない一人きりの部屋に私の声が響いた。何処からか落ちてきた雫が自身の手袋を濡らしていた。
私は幼い頃にアンリゼット家の女性だけが使える聖魔法を発動させた。それからというものはクリス殿下と婚約し、聖女と呼ばれ自然災害を被った土地や怪我をした騎士を尋ねては聖魔法を使っていた。
聖魔法を求める者は多く、私が現地に赴いた際には時が遅く助けられない人々も多くいた。まだ10にもならない頃からそんな光景を目の当たりにした私は聖女でありながらも胸を痛める日が続いていた。そしてそんな時を繰り返している中、あの日はやってきた。
私はあの日も聖女の要請を受けて流行り病が深刻な土地に向かったときだった。ラティア王国の東側は山林も多く、山の麓で暮らす民も多い。だが山から仕事を終えて帰ってきたものが瘴気に触れ病を患い、そこから集落に伝染してしまうことも多かった。
要請を受けた時、陛下は私の身を案じて慎重に事を運んでいたがそんな陛下の様子に水を差し、「一刻も早く向かいます」と私は馬車を走らせた。その時の私は愚かだった後から深く思い知ることになった。
私は瘴気を払うべく従者に早く都から経つように伝えていた。また陛下の判断に水を差したせいか護衛の騎士も少ないままに出てしまった。
「聖女様、しばらく暗がりの森が続きます。」
御者が私に大きな声で伝えてきた。
「暗がりの森?」
私が疑問に感じているとお付きの侍女が私に話しかけてきた。そういえばこの侍女は見かけない顔だが最近王宮に入り、私が王宮にいる間の侍女となったらしい。
「聖女様、ラティアの東にはそう多くないのですが、昼間なのに森が生い茂っているせいで光が当たらぬ森があるのです。皆、その森のことを暗がりの森と呼んでいるのですよ」
「そうなのね。それにとても静かね。」
私は窓から外を見ると昼間なのに暗闇を彷彿とさせ静寂が辺りを包みこんでいた。
「今日は護衛もいるから安心だと思うのですが…」
侍女がそう言いかけた途端、馬車はぐらりと揺れた。突然のことで何か分からず侍女と私は二人で隅に寄り添った。
「何事でしょう?」
「私が外を見てきます」
侍女は窓から様子を見ると血相を変えてこちらを振り返った。
「聖女様!賊です!お逃げ下さい!」
「賊?」
「それに護衛も賊にやられ亡き者となっております。」
「そんな!」
「私が窓を覗いた時、向こう側に怪しげな黒い霧を見ました。とにかく、聖女様はお逃げ下さい!」
「黒い霧?」
以前、魔法学の授業で少しだけ聞いたことがある。確か黒い霧が出る時は闇魔法が使われている時かあるいは発動してすぐに現れる現象だと。ということはあちらの賊の中には闇魔法を使えるティズ族がいるかもしれない。
ティズ族の使う闇魔法は聖魔法と反対で人々の精神を操り邪悪な心を増幅させると言われていた。またティズ族しか闇魔法を操れないため忌み嫌われ陛下が奴隷廃止の宣言するまで奴隷として扱われていた。
侍女の言葉に頭の整理が追いつかないまま私はただ隅でうずくまるだけだった。
「怖い」そんな感情だけが胸の中に広がり体を蝕んでいく。恐怖の感情が染み付いて私は体を動かすことが出来なかった。
「聖女様、不躾ですがそれをお貸しいただけませんか?」
「え?」
侍女は私が身につけていたローブを指指した。
「え?あなた何を?」
「…私が聖女様の身代わりになります。その間に森を抜けてお逃げ下さい。」
「それではあなたの身が!」
侍女は私のローブを優しく取って自分に身につけていく。
「聖女様は覚えていないかも知れませんが…私はあなたに助けられたことがあるのです。それからはあなたの傍で力になれればと思っていました。」
侍女は振り返って私を見て笑った。
「まさかこんな形で助けることができるなんて思ってもいませんでした。」
侍女は馬車の扉の前に立った。私は先ほどの笑った顔をいつか見た少女の姿と重なった。
「…あなたシオンなの?」
「こんな時に思い出すなんてアリス様も人が悪いですね。…ですが情けは無用です。私が出たらすぐに暗がりの森から抜け出て下さい。」
「待って!シオン!」
シオンは私を再び見て笑うと馬車の扉を開け、暗がりの森の奥へと走っていった。遠くから「聖女が逃げたぞ!追え!」と声が聞こえてきた。
震えながら私はシオンの持ち物であったローブを深く被り馬車から走り出した。何が起こっているのか分からない。考えることも今は無意味に感じる。私は暗がりの森の入り口へと引き返すように走っていた。
「あ!」
足元にあった大きな木の根に足を取られた時、私の目の前にはまだ10歳にもならない少年が立っていた。
「お前が聖女だろ?」
明らかに殺意を持った眼差しが私を捉えていた。
「…なあ、お前が早く来てくれたら父さんも母さんも流行り病で亡くならなかった」
少年はゆっくりとした足取りで私に向かってきた。近づく度に黒い霧が濃くなっている。彼は間違いなく闇魔法で精神を取り乱されていた。
「お前が来てくれたらこんな賊にもならなかった!…だから、ここで俺がお前を!」
少年は私の首元にナイフを近づけた。思わず体が震える。私が何をしたというのだろう。聖女として年頃の女の子のように遊んだり、着飾ったりすることもなく妃教育も聖女の要請も受けてきたというのに、こんな形で亡くなるのか。そう思うと頬に涙が伝った。それと同時にこの少年を哀れに思う気持ちも存在した。
少年は私の目をじっと見つめてナイフをさらに喉元に突き立てた。恐怖の感情もあったがこんなことになるなら聖女の力などなくても良かったと絶望していた。現に彼の家族すら私は助けられなかったのだから。何が聖女だ。
「いいよ。もう…」
「こんな力なんていらない」そう言いかけた時だった。遠くから飛んできた矢が少年の頭を貫いた。
「あ…」
言葉を失った私は少年の元に駆け寄った。息をしていない。
「聖女様!よくぞご無事で!」
「…騎士団長」
私の前に現れたのはラティア王国の騎士団長であるアレフだった。アレフは私に駆け寄ると部下に少年の遺体を私から隠すように指示していた。
「お見苦しいものを見せました」
「アレフ様!その者は確かに無礼を働きました。彼は私への恨みを闇魔法で増幅されていました。…せめて綺麗な状態で弔ってあげたいのです。」
「しかし、聖女様に刃を向けるなど極刑です。どうかこのまま我々にお任せ下さい」
「いえ、この者が私に恨みを持っていたのも元はと言えば聖女として責務を果たせていない私のせいなのです。」
私は立ち上がってアレフが止めるのを制しながら少年に聖魔法を使おうとした時だった。
「あれ?」
おかしいと思いながらも何度も発動させてみるが、体に力が入らず聖魔法も発動しなかった。
「アリス様、お疲れなのでしょう。今日は屋敷に戻りましょう」
「そんな」
アレフは私を騎士団の馬車に乗せるとそのままその場所を後にした。違う、アレフ様。私はもう、聖魔法は使えない。この日を堺に私は聖魔法を使えない聖女になってしまった。聞いた話しによれば陛下が私が東側に行くのを躊躇っていた理由は流行り病で家族を失った孤児たちが賊になり、御者を襲うようになっていたからだった。
私が焦燥に行くことを決めなければシオンもあの少年も今でも生きていたのだろうと考えると自分の浅はかさに嫌気が差した。それからというもの私は勉学に励み、妃教育にも力を入れたのだった。
「もうあれから5年も経つのね。」
気づけば私も18歳になっていた。鏡の前に映るのはあの頃から少し大人びた自分の姿だった。
「けれど私はあの時から時が止まっているのね」
容姿とは裏腹に私はあの時から何が止まっていた。ぼんやりと自分の姿を見ていたそんなときだった。
「アリス様、よろしいでしょうか?」
エマの声が聞こえ、私は涙を拭うと「どうぞ」と言葉を発した。
「旦那様が至急話したいことがあるとお呼びです。」
私はこれから自分の人生が思いがけないほうに舵を切ったことに気づかずにいた。