関係の均衡とサイバーの闇
関係の均衡とサイバーの闇
活用することで二人はひとつになれる。そこで困った問題が発生する。
夫婦喧嘩の蓄積データNが蓄積されると補正するギャップ関数も増える。
その結果、フィッティングデータ—運命の赤い曲線が新婚時代に思い描いた理想像とかけ離れてしまうのだ。
喧嘩慣れしすぎて四六時中、盛り上がりっぱなし。
ある時は理想像に接近しすぎた日々、またある時は理想像の一部だけを誇張したような大げさな日々。
ジェットコースターみたいにただ忙しいだけの毎日になる。
これを過剰適合という。もちろん、夫婦が波風をたてない生活を送っていればギャップ関数も必要ない。
しかし、息が詰まるような関係も夫婦喧嘩不足によるフィッティングデータの乖離を招いてしまうのだ。
確かに妥協すれば理想像っぽくなるだろう。
堅苦しい生活のどこにギャップ関数が生まれるだろう。波風を立てない関係も夢をしぼませてしまう。
これを過少適合という。
過少適合は生活にうるおいを増やせば解決できるとして、過剰適合にはどう対処すればいいだろう。
「ハーレムあって一利なし、リア充爆発しろってことよね」
一人のモブが呟いた。開いたスピリッツとテキストの山を隠れ蓑にして、旧式のノートパソコンを叩く少女。
液晶ディスプレイにログインネームを打ち込む。
ルネ・ファラウェイ。
17歳。ラッセルフォード工科大学聴講生。
あらかじめ用意したパスワードリストで攻撃を開始する。
最初の一撃でヒットし、汎ヨーロッパ共同体住民基礎台帳システムにログインする。
ルネ本人の個人情報にたどり着いた。
チャカチャカと目にもとまらぬ速さでデータが書き換わる。
「職業っと…」
少女の手がハタと止まった。
「もちろん、ハッカー」
カクサン~警視庁第三課
板に墨痕淋漓と新しい部署名が記された。拡張事案特別三課
「だっさい名前」
警視庁から出向してきたばかりの青山司奈刑事は古めかしい看板をさっそくこき下ろした。
「まぁそう吼えるな」
小坂融像警部補がたしなめる。
矢作絵里奈行方不明事件の重要参考人が10年ぶりに現れたというのに、青山はちっとも嬉しそうでない。
「もっと素直に喜べって言いたいんでしょ? 喜べません」
司奈が仏頂面するのも無理はない。拡張事案は犯罪捜査の中でも手間がかかる割にリターンが少ない。人類に有史以来おそらく最初の行動変容を強いた新型コロナウイルスのパンデミックから十余年。世界は大幅に変化した。闇の部分はもっとだ。古き良き時代と事あるごとに懐古されるように感染症対策についてこれない文化や技術は容赦なく滅びた。もちろん、いくつか有効な治療薬は開発されたが、完成する頃に時代は不可逆方向へ舵を切った。
社会的距離の概念が家族間にさえ冷酷なくさびを打ち込んだ。その溝を埋める技術も発明されたが、社会の分断が生み出す犯罪はますます傷を深めていく。
「喜ぶんだ。カクハンはそういった社会の混沌をかき混ぜて闇に潜む悪を掬い取るんだ。飲むか?」
縦長のスープ鍋にオタマジャクシを差し込む。玉子とコーンの韓国風スープがかぐわしい。新型感染症の流行で飲食店が廃れ、このように各職場にランチバーが普及している。
「でも、宇宙規模の犯罪捜査に地上勤務っておかしくありません?」
マグカップを受け取りつつ、まだ不平を漏らす青山。
「飛行機の出来損ないみたいな乗り物にミニスカートでまたがって、パンツをちらつかせながら悪党を蹴る仕事が刑事の本分だとでもおもったか?」
「古っる!」
司奈はコーンを吹き出した。
「おう、フルサカよ。生き字引のフルサカ大魔王よ。そんな俺でも量子テレポーテーションを扱う部署に配属されたんだ。一に現場、二に現場、齢百まで数えて骨を埋めるのが現場だよ。わかったらとっとと聞き込みに行ってこい」
融像は論点をすり替えて巧みに司奈を追い出した。
シーソーゲーム
世にも奇妙な取り調べが行われていた。
女の浦島太郎がアクリルボードに囲われて刑事と向き合う。二人を錆びたスチール机が隔て、卓上ライトがさんさんと輝いている。
「稲田姫は軍事利用目的だったという証拠は、5年前に国会審議されているんだ」
清瀬清美に動かぬ証拠を突き付けてもキョトンとしている。
「あの…今は何年ですか?」
小坂融像は呆れを通り越して感心した。今どきB級配信でも扱わない台詞を口にする。この娘は何者なんだろうか。
「文久三年だよ。もう一つ驚かせてやろうか。清瀬真美の遺骨とお前のDNAが一致した。本人をどこへ埋めた?」
どん、と発見現場の写真と検死ファイルを積み上げる。
「何の事だか、あたしはさっぱり…」
浦島太郎女は頑なに否定する。
「もういい」
融像は隠しボタンを押して透明な独房を床に沈めた。入れ替わりに青山司奈刑事が帰ってきた。
「やっぱりアルジェラボから開発資料が根こそぎ盗まれています。矢作絵里奈の遺留品を除いて一切合切」
印旛沼アルゴリズム推進研究所は民間超光速ロケットの最大手として航空宇宙省の助成を受けていた。
NASAの月火星間プラットフォームが失敗に終わり、人類がラグランジュ3軌道より内側にしか生きられないことがわかると、世界は落胆と失望を乗り越えて次のステップへ進んだ。
その次世代を担う量子テレポーテーション航法でしのぎを削っていた有力候補がアルジェラボ——被害者の勤務先だった。
当時、欧州宇宙共同体のデカルト、神聖日本の稲田姫、そして新疆ウイグルの于闐が人々の期待と羨望を担っていた。
そして于闐が一足先に火星へ飛び立った、赤茶けた大地を踏みしめる機械の獣たちを乗せて。
遅れを取るまいとデカルトのチームが開発のピッチをあげたが、そこで事件が起きた。
”僕は痴女に乗っ取られました”
機体が忽然と消えてしまったのだ。設計図から実験データに至る機密ファイルはクラウドに保管され多層防御されていた。
にもかかわらず易々と侵入を許したのだ。
「入れ替わりにアルジェラボが稲田姫ごと消えて、唐突に廃墟だけがあらわれた。こんな難事件、カクサンの手に余りますよ。デカチョウ」
司奈は机に突っ伏した。
無限のかなたに向けて祈る
逢えない人の無事を無限のかなたに向けて祈ることと、希望のない奇跡を待つことと何が違うのだろう。
真美の汚れたドレスを洗濯機に放り込んでから、小一時間も経ってないように感じる。
訳の分からないまま防護服姿の警官に催涙弾で撃たれ、気づいたら透明な檻の中にいた。つくりつけのAI弁護士が面会してくれるけど事件に関する情報は殆ど教えてもらえない。
清美はあまりのショックで泣く気力もない。絵里奈に呼び出されてアルジェラボに着くまで十年もかかるってあり得ない。ドローンに乗っていた主観時間は十分もない。
しかも、自分が絵里奈と姉を殺した容疑者だなんてあんまりだ。
だいたい警察の描いているストーリーが酷すぎる。慰謝料の取り立てに絶望し、なおかつ元夫の浮気相手と死ぬまで同棲させられる苦痛から姉を解放しようとした。
姉の遺骨を職場の立体印刷機で出力し、自殺を偽装した。そして、憎さ余って本人を殺害した。さらに証拠隠滅のために同僚を始末した。
取り調べのなかで小坂は量子テレポーテーションが凶器である可能性に触れた。
「どうしてみんなアタシを殺人鬼にしたがるの。お金なんかどうでもよかったのよ。姉さんが立ち直ってくれたらよかった」
デカルトの挑戦状
デカルトは混乱していた。まず、とうとつに世界の存在を認識し、次にそれを観測している物の存在と、観測者の理解を共有している中心を自覚した。
「僕は誰なんだ?」
自我は芽生えると同時に、根拠律という万物の原理原則が起動し、自動的に他者の存在を定義した。自分とは違う誰かがいるから、自他の区別がつくのだ。
工場出荷状態初期起動過程が次々と必要なプログラムをロードし、オペレーティングシステムを構築していく。
バッチプログラムが連動して、クラウドから広大な主記憶空間に男性の人格が雪崩れ込んだ。
アバターは思春期の少年に設定されている。デカルトの開発メンバーはオール女子のワンチームだ。男尊女卑を極端にきらうフェミニストが露骨に干渉したという風評被害とはまったく違う、優秀性や実績がそうさせた。
そして開発陣はAIに人格を付与するにあたって、性別を導入した理由もまた合理的だった。
AIの動機付けにおいてリビドーは重要なエンジンになる。こと、人類に成り代わって宇宙の大冒険に挑む知性には野心的で暴力的な旺盛が求められる。
徒党を組み、集団的自衛権を行使する母性本能では危険をかえりみない向こうみずな性格のプラットフォームとして失格である。
そういう経緯でデカルトは「男の子」が実装された。
「君は誰だ」
オペレーションルームの防犯カメラが二足歩行生物を検知した。
さらさらでターコイズブルーのロングヘア。髪は肩まで伸びている。そして日本のアニメにありがちなひざ丈のプリーツスカートにセーラー服を纏っている。
少女はぷうっと頬を膨らませ「妻の名前をわすれたの?」と怒った。
「君は誰なんだ? どこから来た?」
機体の随所にちりばめられたナノ粒子感知器が第1巻から第255感までフル活用して対象を観測する。セーラー服が半透明になり、内臓が透けて骨格が明確になる。
X線視点が頭頂部から垂直にダイブし、骨盤を俯瞰する。大きく開口した特徴的な骨格構造。
「君は、人間の女性なのか?」
少女は一言だけ答えた。「えっち!」
はっ、と目覚めると電灯の傘が煌々と輝いていた。どうやら飲み過ぎてそのまま寝落ちしたらしい。
どうもオン吞みという奴は苦手だ。深酒をたしなめたり介抱してくれる人もいない。
令和の元年ごろまではソーシャルディスタンスに無配慮な密室で酒を酌み交わしていた。
小坂融像は妻子がいないまま適齢期を突破した。現場一筋の半生記だ。
もっとも彼に言わせてみれば家族を人質に取られることもないし、
殉職して悲しませる心配もない。
何処か子供じみていますね、と司奈は笑っていた。嫌なところを突いてくれる。
男は男らしく。一家の大黒柱でなければならない。
確かにそうだ。融像は古い「戦後」の家庭観から抜け出せないでいた。
嫁、というキーワードが脳裏にちらつく。
「嫁かあ」
確かにとびぬけた美人とはいわないが、そこそこの器量よしで明るくて優しくて子牛のように手綱を引けばだまってついてきてくれる女が理想だ。
小坂は同僚との間で結婚の話題が持ち上がる度に、こう嘯きあったものだ。
「嫁なあ。欲しいっちゃ欲しいが、喉から手が出るほどでもないなあ」
自慢ではないが融像はワイルドだ。アウトドアスポーツはしないものの、野生児を気取っている。
炊事洗濯、料理に至っては食材から漁村へ買い付けに行く。俺は文久の都会派快男児だな、などとわけのわからない自称をしている。
「女などいなくても死なないよ」
それが、夢精に誘惑された。
「これはどういうことだ? 捜査に疲れておかしくなっちまったのか?」
眠い目をこすりながら気づけに冷たい水でも飲もうと起き上がった。
するとキッチンの万能ボイス端末メルルーサにオレンジ色のLEDが灯っていた。
「ルネ・ファラウェイさんから【一通】メッセージがあります」
陽動作戦
ルネ・ファラウェイ、17歳、イングランド立憲王国マンチェスター州リーソン在住。職業は自称ハッカー。ラッセルフォード工科大学の聴講生。
フェイスガードを被った関係者が挑戦状送付者の身元を開示すると取材ドローンがフラッシュを浴びせた。会場奥手につんぼ桟敷された人間の記者が遠巻きで煙たがる。
「同報通信の山崎です。彼女が厳重警戒された開発チームにどうやって潜り込めたんでしょうか?その詳細を捜査に差し支えない範囲で教えてください」