【十一】豪華客船マリーウェザー号
夕食に指定されていたのは、一階の食堂だった。船内にはいくつかの食堂があるそうで、一階は主に地下に部屋がある者や従業員が食べる場所だった。案内板があったので眺めた結果、二階の食堂が一般的な、三階はVIP専用と書いてある。俺から見ると、二階も富裕層出自の人ばかりだと考えられる。四階にはカジノがあるそうだ。
出てきた鴨肉を切り分けて食べた俺は、食後、船の中を見物して回る事にした。
大きな船の中には、沢山の店もある。
「住む世界が違うなぁ……」
こんな機会でもなければ、俺が乗る事は一生なかっただろう。幸い船酔いもする事はなく、俺は船の階段を上った。するとどんどん人々の身なりが洗練されていき、ローブ姿の質素な服を着ている俺には、チラチラと呆れたような視線が飛んでくるようになった……。場違いなのは分かっていたが、俺はカジノに行ってみたかったため、ビクビクしつつも目的地へと向かった。カジノの扉は開かれていたが、その左右に従業員の姿がある。皆、ネクタイをつけている。その色は黒だ。
「お客様」
俺が入ろうとすると声をかけられた。そこで俺は慌てて首を振る。
「俺は、結界を張るために雇われた魔術師で、冒険者です。船の中を歩いていいことになっています」
「ああ、そうでしたか。では、どうぞ」
従業員の二人はあっさりと俺を通してくれた。安堵しながら中へと入ると、最初にルーレットが目に入る。他には、カードを配っているディーラーの姿などもある。ここが、カジノか。俺は生まれてから賭け事をした事は一度もない。お酒も飲んだ事がない。それらには、ちょっとした憧れがある。大人の男っぽいと感じる。ただ、勇気というのもおかしいが、やってみたいと思うわけではない。なので見学して歩くことにした。
一時間ほど回っていると、全て見終わった。
熱気がすごいなと思いながら、俺は休息用らしい黒い横長のソファへと近づいた。先客がいて、でっぷりと太った壮年の男が、深々と座っている。頭と丸い鼻がテカテカと光っていて、シャツのボタンがはじけ飛びそうで、上着はもうボタンが閉まらない状態だ。ふくよかだ。身長は低いようだが、横幅が広い。その左右には、ちょっとポカンとしてしまうくらいの美しい少年が二名ずついる。少年達は、中央の男にお酒を注いだり、しなだれかかったりしている。皆笑顔で、男に見惚れている。なんだか不可思議な光景だった。漠然とそう思っていると、男と目が合った。男は俺をまじまじと見ている。
「なんだね? 私に何か用かね?」
「あっ、いえ。失礼しました。ちょっと休憩しようと思ってここへ来ただけで……」
「ほう。見たところ、新顔だねぇ」
「は、はい。初めてこの船に乗りました」
「ふぅん。道理で私の顔を知らず、こちらへ歩いてきたわけだねぇ」
「え?」
「私は美少年と美青年を愛でるのが趣味なのだが、まぁたまには毛色の変わった君のようなもので遊ぶのも楽しいかもしれないな。名前は?」
「へ? 俺はジークですけど」
「私はアルガス。ワニタス商会の株を三割所有しているよ。それで、ジーク」
アルガスさんはそういうと立ち上がった。ぶよんとお腹が揺れている。
壁際にいた俺の前で、アルガスさんはでっぶりとした唇を舌で舐めた。
どんどん距離が近づいてくるから、俺は後ずさったのだが、結果壁に背中がぶつかった。しかしさらにアルガスさんは近づいてくる。ついにでっぶりとしたお腹が俺の体にぶつかった。すると体臭が薫ってきて、俺は息を飲んだ。かなり臭う。口臭もすごい。舌で唇を舐めてから、アルガスさんが俺を見て笑った。
「いくらほしい?」
「え……ええと……?」
「好きな額をあげよう。代わりにここで、脱いでもらおうか」
「は?」
「平凡な顔立ちだと、体も貧弱なのか興味があってねぇ。どんな風に喘ぐのかも知りたい」
「な」
俺は狼狽えた。蒼褪めた自信がある。アルガスさんがまるまるとした指を、俺へと伸ばしてきた。俺は驚愕と恐怖で動けない。
ダン、と、音がしたのはその時だった。
俺とアルガスさんの間に、長い腕が割って入り、壁に手をついた。その腕の持ち主は、もう一方の手で俺を抱き寄せた。びっくりして顔を上げる。
「俺の連れに何か?」
「ひっ」
そこには怖い顔をしているロイの姿があった。
鋭い眼光がアルガスさんに向いている。するとアルガスさんが後ずさり、ソファに戻った。その場には、威圧感としかいいようのない冷ややかな空気が溢れている。
「大丈夫か?」
ロイが俺を見て、それから柔らかく笑った。そこで緊張感が解れて、俺は何度も頷いた。
「行こう」
ロイは俺の背中を軽く押す。こうして俺は、腰を抱かれたままで、少し移動した。
「ありがとう、ロイ」
ロイが立ち止まった時、俺はそう告げた。するとロイが優しく笑って、そばのテーブルからシャンパンの入ったグラスを一つ手に取り、俺に渡してくれた。俺は受け取り、はじめてアルコールを口に含む。炭酸が舌の上で跳ねる。
「ロイもこの船に乗ってたんだな」
都市アーカルネからここへと来るのは珍しくないようだったし、ロイがいても不思議はない。気を取り直して俺が尋ねると、ロイが楽しそうな目をして、笑みを深めた。
「ジーク、ここはあまり安全とは言えない。カジノに興味があるのであれば、次からは俺を伴うといい」
「あ、ああ。でも、もう一回見て回ったから、二度とこないかもしれない。俺には怖いところだった。色々な人がいるんだな。ロイがたまたまいてくれなかったら、俺はどうなっていたか分からない……」
「たまたま、か。そうだな、たまたま助ける事が出来て良かった。では、出るとしようか」
俺はシャンパンを飲み干してから、頷いてロイと共にカジノを出た。
「ロイの部屋はどこなんだ?」
「――最上階の客室には、空きが多いな」
「まぁ、五千万ガルドとかの部屋だろ? え……え!? そこなのか?」
「出る時に払うとするか。俺は今、その内の一室を借り受けているからな」
「ふ、ふぅん? 前払いじゃなかったのか?」
「まぁな」
「セレブには色々な乗船方法があるんだなぁ」
「そうだな。ジーク、少し部屋で話さないか?」
「うん」
こうして俺達は、階段を登っていった。不思議な事に、各フロアには従業員がいるはずなのに、ロイと歩いていると、姿が見えなかった。普通は、最上階に入る場合ならば、そこで従業員に戻った事を告げるらしいのだが、それが無かった。まぁこれは、俺が乗船前に面接後に教わった知識だから、絶対ではないのかもしれない。
「ここだ」
ロイが部屋の扉を開けた。最上階のその部屋は、壁のある面が大きな窓になっていて、星空と海が見える。遠くには、都市リュリューセの夜景が見えた。
「わぁ……綺麗だなぁ」
「そうだな。飲みなおすとするか」
そう言ってロイが、テーブルの上にあったワインを、二つのグラスに注いだ。
横長のソファに、俺は促されたので座る。ロイの隣だ。
こうして俺は、人生で二度目の飲酒をする事になった。テーブルの上には、他にチーズやサラミ、ベーコンなどがある。いずれも高級そうなつまみだ。
「ロイはお酒が好きか?」
「嫌いではないな。ジークは?」
「俺は初めて飲んだんだよ、今日。まだよくわからない」
「そうか」
穏やかに笑いながら、ロイがグラスを傾けている。本当に様になっている。
「今日はゆっくり雑談でもするか」
「ああ。俺もロイと話がしたい」
頷いた俺は、細く長く吐息する。ロイといるおかげで、先ほどのアルガスさんの恐怖が薄れ始めた。ロイがそばにいてくれると、どうやら俺は安心するらしい。それだけ、ロイは頼りになると、俺は思っているのだろう。
こうして初日の夜が始まった。