【第二十七話】魔王、嘘をつく。
正直、リザリアを伴ったのは――『どうせ今回の魔獣も弱いんだろうなぁ』と思っていたからである。しかし俺は、現場である王宮の第二大広間に到着した瞬間、思わず顔をゆがめて硬直した。そこにはメルゼウスや騎士団長の姿もあり、禍々しい黒い物体の周囲に多くの騎士がいた。怯えたように尻もちをついてへたり込んでいる王太子殿下は腰が抜けている様子だ。騎士達と王太子殿下の間に時空の歪みが生じているため、誰も助けに行けないらしい。騎士団長は、シリル殿下の隣に立っている。
「シリル殿下、やはりお逃げ下さい」
「いいや、万が一の時に、みんなを転移させて逃げる助けができるのは俺だけだから」
そんな声が聞こえてきた。アゼラーダはシリル殿下の隣で剣を抜いている。彼女にも退避する様子はない。それらを確認してから、俺は改めて正面を見た。黒い物体の真上の中に、時空の歪みはある。黒い物体こそが、先日のメルゼウスの話が本当ならば、時空の歪みを生じさせる媒体だろうと判断できた。その半透明の黒としか言えない膜のようなものに覆われている物体は――脈動していた。ひと目でそれが、心臓だと分かる。魔王だったころの、俺の魔族の体にあった心臓だ。封印される直前に、俺は体内に膨大な魔力を吸収したのだが、その際指定した位置は心臓だった。恐らく残存魔力が、心臓を動かし続けているのだろう。そこにはもう俺の魂は宿っていないわけで、俺はここにいるが……封印がとけた今、メルゼウスもいつか話していたが最凶といえる媒体は、間違いなくこの黒い心臓だ。時空の歪みからは、どろりとした液体のようなものが、流れ出してきている。一見ヘドロのようだが、そうではない。あれは触手が出している粘液で、ぬめるその下には、イカやタコに似た器官が存在すると俺は知っている。じわりじわりと見えてきた胴体部分には、無数の眼球が付属していて、そのそれぞれが瞬きをしている。
これ、は。
俺が抱きしめるようにして時空の歪みの中へと押し込めて、他の勇者パーティのメンバーが三人がかりで俺ごと封印した魔獣核と通称される、非常に凶悪な存在だ。いいや、そのものではない。当時の魔力の三分の一ほどしかない様子だ。だが、そうであっても俺が単独で倒す事は、非常に困難だと直感した。これは、本当にマズイ。かなり、マズイ。今もなお、ドロドロと粘液が溢れだしてきている。
「魔王……ではなく、ええと、グレイル様」
その時、メルゼウスが俺の隣に立った。冷静な声音ではあったが、その表情には珍しく焦りが見えた。
「これはさすがに、俺にはどうしようもないですが」
「うん。俺にも無理かも」
「かも? 不可能ではなく? 断言して無理では?」
メルゼウスの指摘は正しい。だが俺は、チラリと後ろに振り返り、そこにいるリザリアを見た。彼女を危険に晒したくない。それをいうなら、他の人々だって見捨てたくはない。
「このまま完全に魔獣核が時空の歪みから出てきたら、確実に王都全域に被害が出る。利口なのは、逃げる事ですね。なにも逃げることは恥ずべきことではない」
淡々とメルゼウスがそう言った。俺は片手で肘を持ち、もう一方の手を顎に添える。俺が思いつく方策は二つだけだ。一つは、媒体となっている黒い心臓を破壊する事だ。媒体が消失すれば、おそらく時空の歪みも閉じるはずだ。そしてもう一つは――魔王時代と同じように、魔獣核の魔力をこの身に受けて吸収し、時空の歪みの向こう側に押し込めて……誰かに封印してもらうという術だ。俺は二度と封印されたくないとは思ったが、リザリア達に被害が出るならば、相打ち状態とはいえ、もう一度封印されても構わないのではないかと考えた。そうすればリザリアとも離れる事になるし、その封印が次にいつ解けるかも、いいや本当に解ける日が来るのかすらも分からないが、俺はもう、リザリアには会えなくなるだろう。封印されるのも嫌だが、折角相思相愛になったリザリアとの別れが一番辛い。そう考えつつ、俺はここまで手で持ってきた、魔槍ラッツフェリーゼを握りしめた。この武器は、俺の魔力色に合致しているから、俺の一部であった黒い心臓を破壊する事は出来ない。魔導武器は基本的に、持ち主の体を傷つける事は出来ない。
「……」
俺はチラリと、リザリアが大切そうに抱えている聖剣を見た。勇者のものだった聖剣ルートヴィッヒは、そもそもが魔を切り裂く能力を持っている。よって、魔王だった俺の体を切り刻む事も可能な唯一無二の代物でもあった。だから俺は、あんまりこの気配が好きではない。勇者とは何度も手合わせをしたが、気を抜くと切り傷を負っていたものである。
そして聖剣ルートヴィッヒを現在扱えるのは、リザリアだけだ。
「……」
だが、リザリアが黒い心臓を斬りつけるというのは、現実味に欠ける。彼女は武芸を習った事のない公爵令嬢のはずだ。
「どうかしたのですか? グレイル」
すると俺の視線に気づいた様子で、リザリアが不安そうな声を出した。するとメルゼウスが、チラリとリザリアを見た。
「グレイル様は、あの魔獣核と相打ちするつもりなんだ」
「え?」
「折角封印が解けたのに、本当に残念でならない。ただ、幸いこの規模だ。四天王四人でならば、外側から封印もかけなおせるだろう」
メルゼウスが言い終わった時、爺やとレンデルも粒子となって移動してきたのが分かった。使い魔は主人の気持ちを察する事に長けた存在だから、皆俺の考えを推測してここへと集まったのだろう。メルゼウスの隣には、マリアーナの姿もある。
「そ、そんな。封印する以外の方法はないのですか?」
狼狽えたようなリザリアの声に、俺は言った。
「無いよ」
「ある」
「メルゼウス、黙って」
「グレイル様こそ、何故嘘をつく?」
「それは――……」
……――リザリアが危険に身をさらす事が心配だからだ。
「無い物は無いからだよ」
俺は断言した。そしてリザリアを見た。
「こちらの見知らぬ人物と、俺のどちらを信じる?」
「メルゼウス宰相補佐官は、お父様の右腕ですから存じています。それにグレイルは、気まずい時、左手の指で服を撫でる癖がありますが、今完全に撫でておりますわね」
「っ!?」
そんな癖の自覚は無かったが、見れば俺は、確かに左手の指で服を撫でていた。え? 真面目に? 俺ってそんな癖があったの?
「と、いうのは嘘でしたが、その反応、やはり――グレイルの言葉は嘘なのですね」
「は? 嘘だったの!? 卑怯だ」
「黙っているグレイルの方が酷いと思いますが? 勝手に相打ちして封印されていなくなってしまうなど、残された私のことも考えて下さいませ」
「生きていればいい事もあるんじゃないかな?」
「グレイルがいない世界なんて、考えられませんわ」
俺達がそんなやり取りをしていると、メルゼウスが咳ばらいをした。
「リザリア様、その抱えておられる聖剣ルートヴィッヒであれば、時空の歪みを生じさせているあの黒い心臓を貫く事が出来ます」
「!」
「ですがその聖剣は、貴方にしか持てな――」
メルゼウスがそう言いかけた瞬間には、リザリアが床を蹴っていた。え? 驚いて俺が手を伸ばすが、既に遅い。彼女は心臓の前に着地すると、聖剣を振り上げた。俺は目を見開く。直後、斜め上から突き刺すように、その場に聖剣が揮われた。俺は慌てて時空の歪みを見る。媒体が消えれば時空の歪みは消失するのだが、その際周囲のものを吸い込むという特性がある。俺も魔王時代に押し込んだ時に、同時に吸い込まれもした。封印は、その吸引力も踏まえて利用する。つまり、このままだと時空の歪みの真正面にいるリザリアは飲み込まれてしまう。そう思考した時には、自然と俺の体も動いていた。
時空の歪みが空気を吸収し始める。リザリアが目を丸くし、ギョッとしたようにそちらを見ている。俺は必死で手を伸ばし――時空の歪みが完全に閉じ、彼女の体が浮かんだところで、リザリアの体を抱きしめた。そして無理に着地し距離を取る。その眼前で、時空の歪みが音を立てて消失した。あとには聖剣が突き刺さった黒い心臓だけが残り、それは脈動をとめていた。
「黒い心臓が止まりましたね!」
「俺の心臓も止まりかけたよ。止まるっていうか、君を失うかと思って凍った」
リザリアを抱きしめたままでそれを見ていると、次第に黒い膜ごと心臓は融解し、黒い液体となってから、粒子となって消失した。残りの魔力が、空気中に漂う魔力に自然同化したようだった。リザリアが、俺の両腕に軽く指をのせた。そして首だけで俺に振り返った。
「よかった。本当によかったです。グレイルと一緒にいられる事も、皆が無事だった事も、そして時空の歪みが消えてなくなった事も」
俺はその儚いような、いいや逆に力強いような、どちらにしろ花のように見えるリザリアの笑顔に対し、両腕に力を込めて、彼女の体を腕に閉じ込め、きちんとここにいることを実感しながら頷いた。
――その後聞いた話であるが、王太子殿下のみが入れる部屋にあった最後の、魔王の体の断片が、あの黒い心臓だったらしい。最終手段としてアンドレ殿下はそれを持ち出して、王太子となる前の準備の儀式を第二大広間で内々に行おうとしていたシリル殿下の前に、時空の歪みを生じさせたらしい。しかし力が強すぎて、逃げる間もなく制御不可能となった結果、あのような状態になっていたらしい。なんでも、婚約破棄が理由ではなく、この件が問題となり、国外追放が決定されたと俺は耳にした。ともあれ、これにてもう、王宮に魔王の体の断片は無くなったようだから、今後は人為的には時空の歪みは生じないと分かり、俺は胸を撫でおろしたものである。