【第一話】魔王、思い出す。
――って、マズイマズイマズイ。なんでこのタイミングで思い出したのかは不明だけれど、俺はそうだ、魔王だったんだ。愕然としながら、俺は右手に握っているノンアルコールのシャンパンが入ったフルートグラスを見つめた。滝のように冷や汗が流れてくる。
「リザリア・ナイトレル! 貴様との婚約を破棄する!」
目の前では何やら怒鳴り声が響いているが、そんな事より俺は、蘇った記憶に意識を取られている。そうだ、俺は、魔王だ。魔王については、この体でも習った。三百年と少し前に、勇者パーティにより封印されたと、今の時代には伝わっている。実際俺は、封印された。鮮明にその記憶が残っている。寧ろ、つい数分前に封印されたかのような心地だ。
俺は狼狽えながら、自分の体を
現在の俺は、ベルツルード伯爵のグレイルだ。両親が昨年魔獣災害で死去したから、まだ学生の身分であるが、爵位を継承した。俺の他に血縁者はいなかったから、俺は天涯孤独になっていたと言える。そして本日は、俺が今日から通い始めた、エンゼルフィア王立魔術学院の入学パーティだ。
「聞こえなかったのか!? なんとか言え!! 貴様との婚約を、破棄すると言っているんだ!! 俺は真実の愛に目覚めた。俺にはスカーレットしか考えられない!」
煩い怒声に、俺はチラリと視線を向けた。けれど動揺の方が勝っているから、すぐに再びグラスを見て、精神集中を図った。魔王……魔王だと? もし俺の魂が魔王だと知れたら、やはり再封印されるのか? い、いや、もう封印した者達はいないだろう。俺の記憶によると、封印騒動は三百年以上前であるし、死者には魔術は使えない。そして俺が大人しくしていれば、誰も封印する理由だって持たないはずだ。そうだ、俺は大人しくしていればいいんじゃないか。このままグレイル・ベルツルードとして、静かに静かに人間として暮らしていこう。うん、それがいい。間違いないだろう。
「分かりましたわ、アンドレ王太子殿下。でしたら
その時、婚約破棄されていた女性とが、凛とした声を放った。俺はよく通るその声を、最初右耳から左耳へと素通りさせようとしたが、含まれている名前と、一気に集中してきた視線により、硬直せざるを得なかった。
え?
は?
なに? なんだって?
そんな心境で俺はグラスから、婚約破棄が行われているホールの正面へと視線を向けた。そこでは金色の緩やかな巻き毛に、美しい蒼色の瞳をした少女が立っていて、真っ直ぐに俺を見ていた。
「よいですわね? グレイル卿」
「え……?」
「ずっとお慕い申し上げておりました。好きです、私と婚約して下さいませ!」
俺は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。必死で記憶を辿ってみるが、彼女と会うのは今日が初めてだと思う。なのに、ずっと……? 不思議に思って俺は、
名前は、『リザリア・ナイトレル』とある。ナイトレル公爵家の名前は、俺でも知っている。王家の次に影響力と権威がある名家であり、勇者が先祖だとされる家柄だ。実際目視したリザリアと、俺が知る勇者の魔力色は同じだ。血縁者や末裔は、色が類似する事が多い。しかし問題はそこではない。『好感度』だ。俺はステータスの一番下を見た。そこには、『個人間』と『他者間』という二つの好感度表示の選択肢がある。俺は視線で『個人間』を選択した。これは、リザリアが俺に向けている感情から、好感度をレベルで表現する代物だ。
結果――好感度、21%。
凄く低いというわけではないが、恋愛感情はおろか、友情にすら至っていない数値だ。友情ラインは30%からだ。これはただの知人という扱いだが、正直初めて会ったと思うから、知り合いですらない。
つまり、俺を好きだなんて言うのは嘘だ。そう叫びたくなりつつ、俺はステータス表示を消失させて。するとリザリアが続けた。
「これはナイトレル公爵家からの正式な打診と受け取って頂き、構いませんわ!」
俺は思わず震えた。今の体の俺の爵位では、到底太刀打ち出来ないところに、リザリアは立っている。絶対王政かつ絶対階級制のこの国において、爵位は絶対だ。断れば、王家に報告されて、俺は断罪される可能性まである。
断れば、悪くすれば国外追放されるかもしれない。
そんな目立つ事をしたら、魔王だと露見して、封印されてしまうかもしれない。
絶対に、嫌だ!
「分かりました」
俺は努めて冷静な声で答えた。どうせ彼女も本当は俺を好きではない以上、機会を見て円満に婚約は解消すればよいだろう。
「ありがとうございます」
俺に対して二コリと笑ってから、リザリアは王太子殿下に視線を向けた。
「それでは以後、公爵家はアンドレ殿下には関知致しません。お元気で」
「好きにしろ! せいせいした!」
そう捨て台詞を吐くと、王太子殿下は近くにいた平民の少女へと歩み寄り、顔を融解させた。デレデレとしか表現不可能のその顔を見ていると、リザリアが俺に歩み寄ってきた。
「今日から宜しくお願いいたします」
「あ、はい」
「どうぞ、気楽にお話して下さいませ。今日から私達は許婚なのですから」
「……はぁ。そうですね」
「グレイルとお呼びしても?」
「どうぞ」
「では、私の事も、リザリアと」
そんなやり取りをしている内に、学園の鐘が八度鳴り響き、入学パーティの終了の時間となった。
「ごきげんよう」
すると淑女らしい笑みを浮かべて礼をしてから、リザリアは帰っていった。それを立ち尽くしたまま見送った俺は、ノンアルコールのシャンパンをやっと一口飲み込んだ。
これから……一体どうすれば……?
魔王の記憶と、リザリアの新婚約の相手に選ばれた事の両方について、俺は眩暈がしそうな心地だった。