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第8話 今紫


 このようにして――明治も九年になった。

 富貴楼は、元々は明治四年に開かれたのだが、一度焼け落ちている。再建し、伊藤達が顔を出すようになったのは、明治六年七月に再建をした翌年だ。

 この日も、今紫が顔を出していた。

「お倉姐さん、例の薩摩の御仁、辞職なさったそうなのよ」

 控えの部屋で、煙管をふかしながら、今紫が言う。畳の上に座っているお倉は、まだ本格的に営業が始まる前だったので、今宵の来客者を頭に入れながら、それを聞いていた。

「それだけじゃないわ。薩摩の――というよりも、元々のお武家さん……最近で言う所の士族の皆様方が、そろって物騒なのよねぇ」

 今紫は客に見せる顔とは異なり、どこか大局を見透かすような顔をしている。ふたりの会話は、さながら幕末の勤王志士のようであったが、気に留める芸妓はいない。

 この頃には、実際に士族の反乱が相次いでいて、不満が募っていた。お倉もまた、ほうぼうからその話は聞いていた。そんな世相と同じくらい、気になる事が一つあった。

「今紫、そういえば、桂様の奥方の幾松(いくまつ)さんが京都で可愛がっていた芸妓が、今吉原にいると話していなかった?」
「――ええ。東京府に移ってきた芸妓も多いんだけれどね、その中の一人で、菫という娘がいてねぇ」

 桂小五郎(かつらこごろう)こと――木戸孝允(きどたかよし)について、お倉の声で今紫も思い出した。最近では、芸妓あがりで政府の要人の妻となる者も多い。昔から遊女を嫁にもらうと栄えるという伝承はあるが、桂小五郎と幾松の場合は、自由な恋愛の象徴とも言える。単に見栄えのみでの婚姻では無いだろうと、この夫妻は遊女達にとって羨望の的でもある。

「桂様の配下のお役人さんが、菫を贔屓にして下さっているんだけれど……そういえば、山縣陸軍卿のお話を聞いたわねぇ」

 今紫の声に、お倉が小さく頷いた。聞きたかったのは、まさにその話題だった。

「士族の鬱憤を晴らしたい西郷様に、恩があるからといって、山縣様は強くお出にならないらしいんだけれど――桂様から見ると、それが煮え切らないように見えるようでねぇ。ほうら、『卿』の皆様方は、みんな参議も兼ねているのに、桂様が反対なさって、山縣様だけ、なれていないでしょう? 桂様は、いよいよ山縣様がお嫌いらしいって噂ね」

 それを聞くと、お倉が電報の紙束を起き、己の煙管を手に取った。銜えて、静かに煙を吐き出す。

「殿方の足の引っ張りあいも、馬鹿らしいわねぇ。お倉姐さんは、どう思う?」
「桂様は、年々物の見方が狭くなっておられるようだとも聞くねぇ」
「おや、山縣様の肩を持つの?」
「少々真面目すぎて面白い男とは言えないけれどね、悪い御仁では無いからね」
「私も山縣陸軍卿には、一度お会いしてみたいわね」
「今夜いらっしゃるのよ。そうねぇ、まだ一緒にご挨拶をした事は無かったわね」

 お倉が頷くと、今紫が妖艶な笑みを浮かべた。
 こうしてその夜は、山縣が休むという部屋に、お倉と今紫は揃って挨拶に出かけた。

「今紫と申します」
「――そうか」

 山縣は着替えた浴衣の帯に触れながら、挨拶に訪れた今紫を一瞥した。部屋には先導してきた三津菜がいる。お倉が挨拶に他所の見世の者を伴う事があるのは、この頃には山縣も覚えていた。三津菜の名前も、漸く記憶した頃である。

 山縣から見ると、今紫はお倉の側に近い印象を抱かせた。例えば、三津菜であれば、妻の友子同様、日本的な柔らかさと小ささを想起させるのだが、お倉と今紫は線が細く硝子細工のような印象を抱かせるのだ。属する場所が同じ女性でも異なると感じる。それは、可愛いと綺麗に大別しても良いのかもしれなかったが、そこまで具体的には山縣は考えていない。漠然とした印象だ。どちらかといえば、『これはまた食えない女が一人増えた』という直感めいたものがあった。

 一方の今紫は、お倉が肩を持つのも分かると感じていた。

 山縣を目にして感じるのは、生真面目さだったからだ。一夜を遊んでいく男達とは、どこか異なる。男は、皆男であるというのは、今紫の信条だった。どんなに真面目を気取っていても、男は体に火がつけば子供に返る。しかし、時折違う男もいる。それは、子供のままの純粋さを持った男だ。それは無邪気であったり、信念のような名前であったりする。山縣の場合は、信念の方だろうなと今紫は考えた。

 男らしいから、性的な気配がしないとは言わない。しかし、女を買い求めていないというのがよく分かる。ぎらつくような肉欲の光が、山縣の瞳には見えない。それこそ第一印象は、『真っ当』と言えた。悪く言えば、年の割には枯れている。

「今宵もお疲れのようですから、ごゆるりと」

 お倉が言った。本日の山縣の両目の下には、薄く赤い隈がある。ここの所の山縣は、本当に疲れているように見えた。夏に子が生まれた報告を持ってきた頃には明るかった表情が、秋、そして初冬となった今では、時折翳る。

「少し、お酌をさせて頂いても?」

 静かに今紫が告げると、僅かに三津菜の頬が引きつった。かと言って、三津菜も露骨に不満を顕にするわけでもなく、硬い笑みを浮かべつつも、立ち上がってお倉の方へとやってくる。入れ違いに、今紫が山縣の隣に座った。

 富貴楼の女性達とは異なる、吉原のお香の匂いを感じ、山縣は物珍しそうに視線を向ける。山縣は、富貴楼にこそ足を運ぶが、若い頃から、遊郭らしい遊郭へと遊びに出かけた事は無かったのだ。甘い匂いに、小さく山縣が首を傾げると、その黒髪が揺れた。

「――ここの酒は、美味いな」

 いつも山縣好みの酒が出てくる。だが、それは来た時から同じわけではない。少しずつ酒が変わっていき、いつの間にか、山縣の好みの真ん中の酒と料理が出てくるように変わったのだ。初めは、伊藤と同じものを食していたのだが、今では二人揃った部屋であっても台の物の上の料理は異なる場合がある。

 今紫は微笑しながらそれを聞き、お倉は内心で板前を褒めた。三津菜ばかりが、どこか落ち着かないようにしている。

「それに気が休まる」

 山縣が続けた声に、女性三人は、思わず苦笑しそうになった。純粋に休めると口にしているのが分かるからだ。出来れば猛ってもらいたいというのが、玄人としての想いではあるが、多忙な山縣の気が休まるのならば、それはそれで良いだろうとも彼女達は考える。

「オナゴの手でお酌をされると、気が休まるとも言いますよ」

 わざとらしく艶めいた事を今紫が言った。すると山縣が俯いた。友子の事を思い出していた。愛する妻に酌をされると、確かに疲労が抜け出す気がする。ただ同時に、愛する妻の前では醜態を見せたくないので、思いっきり酒を飲む事は出来ないなと考える。そもそも山縣は、自制しながら酒を飲む質なので、思い切る事は無いのではあるが。

「心が休まる所に惹かれて、桂様が磯松の姐さんをお嫁様に貰ったというのは、吉原でも噂の的ですから」

 その時、仲が悪いと己で口にしていたというのに、今紫が山縣の前で木戸の名前を出した。すると目に見えて山縣の表情が強張る。その変化に三津菜はヒヤヒヤしていたのだが、お倉は表情を変えず、内心で今紫の出方を見ていた。勿論山縣の機嫌を害するとすれば論外だが、今紫はただの遊女ではない。お倉は、吉原でも名だたる今紫の手腕を買っていた。敢えて木戸の名前を出したのだと確信している。

「ただ、その桂様も体調が思わしくないそうで、幾松姐さんも大層心を痛めておいでのようですね」

 続いて響いた声に、山縣が驚いたように顔を向けた。短く息を飲んで、今紫を見ている。木戸の体調不良の噂は、職場でも囁かれる事があった。しかし周囲を警戒している木戸の事は、密偵でも掴めない事が多い。

「誰に聞いた?」
「――お医者様も、吉原にはいらっしゃるんですよ」
「……」
「誠に心配でなりませんねぇ」

 わざとらしく今紫が、白い頬に華奢な手を添えた。その長い指先を一瞥した山縣は、無言のまま瞳を暗くする。

「政府に対する不安を煽る。あまり迂闊に広めないでくれ」
「山縣様だから、こうして私もお話しているんですのよ」
「俺だから? どういう意味だ?」
「良い男の前では、私の口も軽く綻ぶのです」

 妖艶に唇を持ち上げた今紫を見て、山縣は沈黙した。この時はまだ、遊女や芸妓が味方になる強みを実感してはいなかった。そして――実感する前に、山縣は再び富貴楼から足を遠退ける事となる。




 ――明治十年、西南の役が起こった。

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