第4話 収穫の有無
結局、収穫の無い夜を過ごし、翌日山縣は布団の中で目を覚ました。誰に起こされるでもなかったが、いつもの通り、朝の六時に自然と目が開いた。槍の鍛錬が出来ない事を寂しく思いながら、寝巻きとして身につけていた浴衣の帯に触れる。
自宅以外で目を覚ます事自体には、山縣は慣れていた。
奇兵隊の生活においても、新政府の仕事の関連であっても、泊まりで出る事は多かった。ただ、そのいずれの時とも異なり、妙に熟睡できた気がする。その感覚は、過ごしやすさは、家に近い。
「休日だからか……?」
思えば、槍の稽古をしない休日の朝などというものは、山縣にはこれまで存在しなかった。そもそも、休日など無い。職場に赴かない日であっても、山縣邸に指示を仰ぐ来客は絶えない。仕事・仕事・仕事。それが日課であるから、逆にこのように、完全に仕事から切り離され、穏やかな朝を迎えると不思議な気分になる。
「……やる事が無い朝、か」
呟いた声は、霞んで天井に消えた。
朝食は、別室で伊藤と共に食べる事になっている。
着替えながら、山縣は嘆息した。
「何を考えているんだか。呑気なもんだな」
こうして支度を終えて部屋を移動すると、そこには既に伊藤の姿があった。目の下にうっすらと赤い隈がある。寝ていないのがよく分かる。朝まで遊んでいたのは、容易に想像がついた。
「いただきます」
食事の前で山縣は手を合わせた。ほぼ同時に伊藤も手を合わせる。それから箸を持った伊藤が聞いた。
「よく眠れた?」
「ああ。不思議とな」
「狂介――休むのも仕事なんだよ」
「分かったような口をきく前に、俺の仕事量が減るよう、お前はもっと働いてくれ」
山縣はそう告げながら、煮物の皿を見た。あまり胃腸が強い方では無かったから、食べ物には気を使っているのだ。病弱であるからこそ、健康になる努力を怠るべきではない。これが山縣の信念である。
「僕はね、これでも狂介が眠ってから、大いに働いたんだよ?」
「どういう事だ?」
「あの後は、糸平君――天下の相場師、田中平八氏のお座敷に移って飲んできた」
「それで?」
「聞多ともよく飲むと聞いてきたよ」
それを聞いて、山縣は井上馨の顔を思い出した。聞多とは、井上馨の事だ。田中平八という名前にも心当たりがあった。糸屋という屋号の両替商であるが、密偵が何度か名前を出した事があった。
――現在、政府には莫大な借金がある。
というのも、戊辰戦争までの幕末の動乱期に、鉄砲等を購入するために、各藩は外国の商館から借金をした。それらを、廃藩置県により藩が無くなったので、政府が肩代わりしているのである。
井上馨はその関連で奔走していた、というのは、山縣も聞いていた。だが直接的には、山縣はそれらに関わってはいなかった。しかしいつも概要は聞いていた。その件で密偵と話していた時に、『天下の糸平』と呼ばれている人物について名前を聞いたのである。
「収穫はあったのか?」
「昨日の一番の収穫は、この店の名前を高める事だから、大成功だよ。狂介のおかげでね」
「高めてどうするんだ?」
「みんながこの店で、重要なお喋りをするようになれば、いつ誰が来たかはすぐに分かるから随分と楽になると思ってね」
「……」
そんなものは密偵で事足りる――と、言いかけて山縣は止めた。後ろめたさがあったというのが大きい。伊藤があまり暗い事に手を出したりはしないと知っていたのもある。
「それにね、店の評判というのは、馬鹿にならない」
「評判?」
「職場だけじゃ見えてこない、上辺だけでは分からない、人柄――と、でもいうのかな」
「それは遊んできた体験談か?」
「無論、それもあるよ。店で悪評が立てば、一気に噂になるからねぇ」
伊藤はそう言うと、箸を動かしてから、改めて山縣を見た。
「僕なんて、とっても評判が良いよ」
「それは何よりだな」
「狂介も、もうちょっと、周囲に目を向けてみたら?」
くすりと笑ってから、伊藤は味噌汁の椀を手に取った。山縣は鮭を口に運びながら、『周囲』という語を、脳裏で反芻する。
「男はさ、遊びに行くだろう?」
「全ての男をお前と一緒にするな」
「狂介の方が、このご時世じゃ例外的だと思うけどね。本当に、奥さんが大好きらしい」
「……」
昨日散々からかわれた事を思い出して、山縣は俯いた。すると伊藤が小さく吹き出した。
「まぁ、行くわけだよ。行くわけですよ、夜の蝶のもとに」
「で? だとして、何だ?」
「夜の蝶はさぁ、お仕事で、僕達の相手をするわけだけど、やっぱり嫌な客かどうかってあるわけでさ」
「当然だろうな」
「仕事だからその場では丁寧に対応をしたとしても、後ろ側では罵詈雑言」
「想像しただけで鳥肌が立つ」
山縣は深々と溜息をついた。己の場合も、悪評を立てられる側である気がする。
「そう言う噂の一つ一つがね、この店には集まってるんだよ。お倉は顔が広いから、新橋や日本橋――吉原の方面から、富貴楼詣でに、色んな女将や連れられて芸妓が来るらしい。結果、僕が知る限りこの店が一番、そう言った噂に精通している場所になっていたんだ」
「ほう」
「僕は更にそれが集約される事を期待して、この店の名前を広めようと思ってね」
伊藤の言葉に、山縣は顔を上げると、仏頂面で小さく頷いた。つまり、己の側には言葉としては重要な収穫は無かったが、伊藤の計画を助けたという意味で、ここにいるだけで価値はあったらしいと判断する事に決める。
「他にもね、今は華族制度でも色々話し合いがなされているようで――あちらは、華族だけのサロンを創りたいという希望があるらしい。僕達のような『政治家』にも、そう言った場所があっても良いかなって考えているんだ」
山縣はご飯茶碗を手にしながら、『政治家』という言葉を聞いて、視線を下げた。山縣自身は、『一介の武弁』のつもりである。気づけば、政治の道に足を踏み入れるようになっていた、という部分が、まだ抜けきらない。
戦い、勝利する事は、終わりでは無かったのだ。そこからが始まりであり、動乱の後始末が待っていたのである。生々しい会津での記憶を思い出しそうになり、慌てて山縣は目を伏せる。
「最後の一番肝心な収穫はねぇ」
「何だ?」
「狂介を休ませてあげる事だよ。ちょっと心配になっちゃったよ。最近――西郷さんと木戸さんの間で、板挟みになってない?」
伊藤の声に、双眸を開けながら、山縣は僅かに眉を顰めた。
それは、事実だった。
征韓論を推す西郷の姿勢自体は、山縣は適切だとは考えていない。現地で会津戦争を見た記憶が色濃く、更にはまだまだ不安定な政府を考えた時にも、外敵を仮想する事は有用かも知れないとは感じるが、血を見たいと思わないのが本心だった。
しかし西郷は、山縣にとって恩人でもある。その為、西郷を直接的には支持しないものの、否定もしない山縣を、木戸が快く思っていない事は、山縣自身も理解していた。
「それに、山田君と不仲だという話が聞こえてくる」
陸軍の山田顕義少将と険悪なのも事実だった。
「少し、休んだ方が良いというのは、誰から見ても明らかだったよ。山縣、眉間に皺を刻みすぎてる」
「……そうか」
気遣いは有難いと、山縣は思った。だが、年下の伊藤に、更に言うならば自分より後から政府に明確に参画するようになった相手に、このように口出しされるのは――正直、冷ややかな気持ちにもなる。自身に対する不甲斐なさと同時に、このように心配りが出来る伊藤への劣等感のようなものが沸き上がってくる。厚意を、素直に受け止められない。
「狂介、何か難しく考えてないかい?」
「別に」
「本当に真面目というかなんというか。僕は本心から、単純に、心配しただけだよ」
「わかっちょる」
不貞腐れたように山縣が答えるのを、苦笑しながら伊藤は見ていた。そうしてお味噌汁を飲み干した。