第1話 富貴楼
列車の貸座布団に座りながら、
戊辰戦争の最中、奇兵隊の一員として戦っていた彼は、この数年間で様変わりした世相を、列車に乗りながら思い出していた。窓の外には、馬や人力車が目立つ。
この国では文化の多くが、現在でも昔と同じままだ。特に服装は、あまり変化が無い。一部の華族が洋服を纏うようになった点しか、変化は無いだろう。
現在、三十六歳。山縣は、陸軍卿をしている。そんな彼の元に、三歳年下の
山縣も、その名前だけは耳にした事がある。元々は、
愛妻家の山縣は、二十九歳で結婚してから、
話をするだけならば、お互いの家や別荘でも構わない――とも考えたが、山縣は気にかかる事もあって、列車に乗る事を選んだ。決してそれは、伊藤との会談で妻に心配をかけたくないという理由だけでは無かった。
奇兵隊に属していた頃より、山縣は密偵を飼っている。情報の重要性を、山縣は非常によく理解していた。それらの者が、富貴楼の名を持ってくるようになったのは、ここ最近の事だった。
「……」
気になる事は確かめる神経質さと几帳面さを持ち合わせている山縣は、最初こそ、『伊藤の女遊びが始まった』と考えていたが、井上や陸奥、三菱の
列車を降りて、人力車に乗り、店まで向かった。横浜という街は、四・五年ほど前に山縣が渡欧していた頃の記憶を彷彿とさせる。潮風に髪を擽られながら、懐かしく思って山縣はゆっくりと瞼を伏せた。
店の前に立つ頃には、日が落ち始めていた。夕暮れの中で見る不夜城のごとき富貴楼は、その影を大きく見せている。客達が、物珍しそうに、地を踏んだ山縣を見ていた。山縣は周囲を一瞥してから、小さく俯く。視界に、知り合いの姿は無かった。
「ようこそおいで下さいました、山縣陸軍卿」
しかしすぐに玄関の扉が開き、ずらりと並んだ芸妓達の中から、女将が前に出て声をかけてきた。内心で狼狽えた山縣は、表情でこそ平静を装いながら、改めて女将を見る。名前だけは、密偵達から聞いていた。
――富貴楼の、お
山縣は背の高い方であるが、お倉もまた、女性にしては背が高い。見下ろしながら、山縣は無意識に右手の人差し指で、乾いた唇を撫でた。長く無骨な山縣の指先を、お倉が目で追う。それから彼女は、穏やかに微笑んだ。
猫のように大きな瞳が、優しく細められている。長い睫毛は、白磁の肌に影を落とすようで、眉も形が良い。繊細な輪郭に、まるで人形細工のごとく美がはめ込まれている。
年の頃は二十代には見えなかったが、老いは感じられない。そこにあるのは、壮絶な艶と色気であった。ある種の迫力がある。
「お倉と申します。お見知りおき下さいませ」
名乗った女将は、山縣の脇に立つと、恭しく頭を下げた。圧倒されていた山縣は、彼女が顔を上げた時、正面から目が合って息を飲む。今度は、お倉の顔に可憐な笑顔が浮かんでいたからだ。今度こそ、年齢不詳だと感じてしまう。心を掴まれるような表情に、胸が騒がしくなった。当初の作り物めいた美が、いきなり少女のように愛らしく変化したものだから、表情からだけでは印象を固める事が出来なかったのだ。
――面白い。
山縣は慎重な質をしていたが、咄嗟にそんな印象を抱いた。店の男衆や芸妓達が、すぐに山縣を取り囲み、お倉は先に歩き始める。妖艶なうなじを見ながら、山縣もまた一歩前へと踏み出す。こうして山縣は、富貴楼の中へと入った。
「伊藤に会いに来たんだが」
歩きながら用件を告げたのは、上階へと登る階段を先導されている時の事だった。振り返ったのは、芸妓の一人だ。既にお倉の姿は無く、いつふらりと消えてしまったのかも、人ごみで山縣には分からなかった。
「伊藤様は、昼間からお待ちですよ」
「……そうか」
山縣は、遊学時代に買ってから愛用している懐中時計を、取り出そうとして止めた。銀色のその時計を持ち歩き、眺める事は、山縣の癖のようなものである。仕事に生真面目な山縣は、遅刻が好きではない。だが、現在が待ち合わせ時刻よりも一時間は早いという事は、時計を見なくとも理解してはいた。先に到着して、富貴楼について直接情報を集めるつもりでいたから、早く家を出てきたのである。
その後は、廊下を進んでいき、山縣は十五畳ほどの座敷へと案内された。
膝をついて、先導してきた芸妓が、障子を開ける。
中から響いていた賑々しい声が、一度止まった。
「陸軍卿がお越しですよ」
「そうかい、そうかい。よく来たね、
中から響いてきた気の抜けるような伊藤の声に、山縣は少し肩から力を抜いた。山縣が有朋と名を改めたのは比較的最近の事で、奇兵隊時代からの友人の多くは、今でも狂介と呼ぶ事がある。とはいえ、池田屋事件を始め、山縣と伊藤は、多くの友人を失って、今ここに立っている。
「伊藤、人払いは?」
「どうして?」
「話があるんじゃないのか?」
「うん。ゆっくり狂介とお喋りでもしたいと思ってね」
「
まさか本当に、雑談のために呼び出されたのだろうかと、山縣が半眼になった。伊藤は博文と名乗るようになっていたが、こちらも二人の時は、俊輔と呼ぶ事が多い。
周囲の夜の蝶達は、山縣と伊藤のやり取りに、一拍おいてから小さく笑った。吐息に笑みが乗っている。その明るい気配に、山縣が嘆息すると、先導してきた芸妓が立ち上がり、彼を中へと促した。
こうしてそのお座敷に、山縣が加わり、再び障子が閉められた。
室内では窓が開いていて、遠くに夕暮れの海が見える。
「さぁ、座って、座って」
伊藤が促し、山縣は彼と隣合わせで座る事になった。刺身の乗った台の物の前に腰を下ろした山縣は、浴衣に着替えている伊藤を一瞥する。その時、山縣の右隣に芸妓が一人座った。続いて伊藤との間には二人座り、そして伊藤の左隣にも更に一人が陣取った。
そこへ声が掛かり、静かに障子が開く。見れば、お倉が顔を出した。深く頭を垂れてから立ち上がり、中へと入っては、また膝をついて戸を閉めて、お倉は二人の正面までやってきた。
「改めまして、お倉でございます」
「お倉も、良い男が来ると、いつもよりも良い女になるね」
「私は伊藤様の前でも、いつも良い女では?」
「まぁ僕も良い男だからねぇ」
二人のそんなやり取りを聞いて、山縣は腕を組んだ。呆れた思いが蘇ってくる。本当にこのお粉の匂いが充満した華美な部屋で、雑談だけをして、帰るつもりなのか。そうであるならば、時間の無駄であったし、それ以外の意味が無いのであれば、無駄足だったと山縣は考え始めていた。
「伊藤様もお人が悪い。もっと早くにご紹介下さったら宜しいのに」
「狂介……山縣君は忙しくてね。僕は狂介と呼ぶけど、正真正銘、こちらが山縣君だ」
「親しいのですね」
お倉は伊藤と話す間は、じっと伊藤を見ていた。しかし名前が出てから、ちらりと山縣を見た。そこで初めて視界に入ったとでも言うかのように、今度はしっとりとした夏の朝顔のような艶を瞳に浮かべて、口元を綻ばせる。山縣は笑うでもなく、正面から彼女の視線を受け止める。暫しの間、二人の視線が交わった。だが、どちらが逸らすわけでもない。
見つめ合う――というよりは、睨み合うに近いのだが、その場には水のような静かな視線の交差しかない。
山縣は、この女将がどのような人物なのか、見極めてやろうという心境だった。一方のお倉は、値踏みしていた。男としての山縣、ではない。人間としての山縣が、噂の通り、日本の黎明になくてはならないような器を持つのか否かを、である。伊藤は、その双方の心情に気がついていた。山縣に対しては、相変わらず慎重だなと感じる。お倉に対しては、決して一介の料理店の女将ごときがとは思わない。まだ新しい富貴楼ではあるが、伊藤はこの店に、未来を嗅ぎ取っていた。ここに流れる風は、激動の最中に感じ取る事を知った気配に、非常によく似ている。
「……っ」
先に視線を逸らしたのは、山縣の方だった。理由は、彼もまた値踏みされている事に気がついたからだ。無論、男としてではなく、人柄を見透かすようにされていると理解したからである。決まりが悪いと山縣が思った時、お倉が言った。
「さぁさぁ、お酌を」
すると左右にいた芸妓達が、山縣と伊藤に酌を始めた。場の空気が一気に軽いものへと変化する。その動きに山縣が安堵していると、伊藤が微苦笑しながら小さく吹き出した。
「狂介、そう身構えるもんじゃないよ」
年下の伊藤に諭すように言われ、山縣は酒盃を手に取りながら、目を細めた。眉間に皺が刻まれる。まだ長州弁が出てこないのだから、伊藤の側とて、完全に気を抜いているようには見えないと、山縣は思った。例えば山縣の邸宅で、二人きりであれば、伊藤はお国言葉で喋る事が珍しくはない。邸宅といえば、山縣は目白台に土地を購入しようとしている所であった。彼は、造園が趣味だ。
「俊輔、それで、話というのは?」
「笑わないで聞いてくれるかい?」
「質問に質問を返すな」
「――僕はね、この店で、この大日本帝国を変える」
「笑えないほど退屈な冗談だな。予防線を張ろうとも、つまらないという結果は変わらないぞ」
呆れた調子で山縣が言うと、それを聞いた伊藤の方が笑い始めた。それから伊藤は、己の酒盃を手にすると、グイと日本酒を煽る。二人の故郷、長州の味がする酒だ。
「もしも僕が、この一国の首相になる日なんか来たら、そりゃあもう、この富貴楼とお倉のおかげだ。山縣、いいかい? 君が今夜、この宣誓の証人になってくれ」
それを聞くと、山縣が首を振った。
「出来ない相談だな」
「どうして?」
「それは――……」
山縣は、いつか伊藤ならば、首相になってもおかしくはないと、確かにそう考えていたからだ。それだけの才覚がある事を、嫌でも思い知らされてきた。伊藤本人は、どこか素直で飄々としているが、それは吉田松陰にも見出されていた部分である。山縣が松下村塾にいた期間は短いが、山縣はその期間を忘れがたいものだと感じている。
「……――兎に角、出来ない」
するとお倉が、華奢な指を、頬に添えた。
「山縣様は、伊藤様とは違った観点から、先がお見えになるのですね。本当に、この国は、朝の浜辺にそっくりです」
お倉の声に、山縣と伊藤が揃って視線を向ける。お倉はといえば、窓の外の、既に暗くなった夜の海を見ていた。艶やかな打掛が、彼女の白い肌を際立たせている。
「では、私自身と、ここにいるオナゴが皆、証人となりましょう」
これが、山縣とお倉が始めて出会った夜だった。