【二十】好きなもの
雪の気配の合間に、春の気配が顔を出すようになったのは、三月に入ってからの事だった。森永が亘理に接触した最初の日から数えても、既に三ヶ月が経過している。その頃には、亘理と森永の関係は、『噂』として、多くの者が知っていた。これは森永が部下を通じて流したからだ。『事実』として亘理から聞き認識している人間は、大貫中佐だけであるが、直接問いただす事は無いにしろ、噂を耳にしそう考えている軍の者は多かった。
苛立っていた大貫は、当初こそ亘理に対してあたりをきつくした。
だが――遇津コーポレーションとの大口の取引があるとして、すぐに気を取り直したようだった。変わり身の早さは、大貫の数少ない長所である。よって、亘理の仕事が減る事も無かった。
亘理と森永が顔をあわせるのは、夜だ。外での仕事が無いかぎり、待ち合わせているわけでもないのに、亘理が外へと出ると、いつだって森永の車が隣に停まる。無言で乗り込んで煙草を断らずに吸うようになるまでには、そう時間を要しなかった。
行き先は、亘理の家である。帰宅すると、最初に亘理は妹と通話をする。その間に、気を使っているつもりなのか、森永は浴室に消える。そして通話が終わった頃、出てきた森永と入れ違いに、亘理がシャワーを浴びに行く。髪を拭きながら外へと出ると、大抵の場合は、森永が用意したその日の食事が並んでいる。新しいテーブルを購入して持ち込んだのは森永だ。食器も、グラスも、鍋も菜箸も、日増しに増えていった。
食事の席では、密談をする事は無い。今宵もキャビアを乗せたクラッカーの味について森永は語り、亘理は静かに頷いて耳を傾けているだけだ。テーブルの上に、森永が酒を用意している日は、大切な話が何も無い事を、既に亘理は理解していた。よってその後――二人で寝室へと向かう。明日は二人共、休日だ。休暇の前の夜、時折体を重ねるようになったのは、自然な流れだった。亘理は、少なくともそう考えていた。
迂闊に誰かと寝れば、森永が自分と付き合っていないのは明白になる。
しかし適度に性欲は溜まる。
毎夜顔を合わせているため、自分で処理をする暇がない。
なのだから……そんな風にそれとなく迫った森永の言葉を、亘理は特に疑わなかった。そういうものなのかと考えただけだ。
翌日は、二人で海の風景を見に行った。ここまでの週末、森永は有言実行を絵に描いたかのように、動物園に出かけたり、そこに隣接する自然公園に亘理を連れて行ったり、時にはプラネタリウムに行き、美術館など十は周った。そして夕食を外でとる。様々なレストランに連れて行かれた亘理は、軍から支給されているカードで支払う森永を、いつも見ていた。これもまた、いつか公開されれば二人の仕事だったという扱いになるから、経費として落としてもいいのだろうかと考える。
そんな日々を重ねていった。
そしてまた、夜が来る。
今夜は琥珀色の酒を舐めながら、森永が膝を組んで亘理を見た。
「見つかった?」
「……何が?」
既に亘理は、気安い口調を覚えていた。だから自然体で聞き返した。
「好きなもの、嫌いなもの」
「……」
考えた事が無かった。亘理は腕を組んで、右手の指を顎に添えた。
「私なんて、この三ヶ月で、好きなものも嫌いなものも増えてしまったよ」
「例えば何だ?」
「――亘理大尉」
「はい」
「そうじゃなくて……亘理依月大尉が好きになってしまったの。嫌いなものはね、仕事を口実にしなければ、会う事が出来ない現実」
驚いて亘理は、森永に顔を向けた。いつもの冗談だろうかと考えながら、左手では無意識に煙草の箱を探していた。
「本当に付き合っちゃおうか?」
森永の微笑はいつもと変わらない。
だがこれは、森永の本心だった。見ている内に――最初は、亘理が時折見せる寂しそうな瞳に惹かれた。当初は暗い目だと感じていた黒い色の奥に、確かに見える悲愴、そういったものを、この手で癒す事が出来たならばと、いつからか考えるようになっていた。
それは、誰かに抱かれる夜に常々用意する、睦言とは異なる。今では亘理一人だけにしか、愛を用意する気になどならない。こんな予定では無かったのだが、最初に体を重ねたあの夜から、予感はあった。信頼関係を築きたいなどと口にしたのは、ただの方便である。どうやって口説き落とすかしか考えていなかった。
相応に反応が怖かったから、慎重に時を見た。そして、今ならば振られたとしても、亘理の個人的な仕事上において、有益な情報源である自分が切られる事は無いだろう――つまり関係は維持されると判断して、告白をしてみた。もっともそれは理性的な言い訳であり、感情的には、単純に脈を感じたからにほかならない。ここのところ、時折亘理が自分の前で笑みを見せるように変化していたのを確認している。森永から見れば、それは大進歩だったのだ。
「……」
「亘理大尉も、私の事が好きになったんじゃない?」
「っ」
動揺しながら、亘理は煙草を銜えた。火を点けながら、何故なのか冷や汗をかいた事を理解した。冷静な思考は、恋などしている場合では無いと訴える。だがそもそも、思考が冷静な時間は激減していて、ここのところ、森永の事ばかり考えている自覚があった。森永の笑顔を見ると、心が軽くなる。森永の好きなものを見に連れて行かれる度、同じものに興味を持つようになった。一緒にいると、何故なのか嫌な現実が遠ざかっていく気がする。
妹を前にした時の作りものの笑みとは異なる、自然な表情筋の動き――時間を忘れそうになるなどという経験、それらは、亘理にとっても貴重だった。亘理は、森永が好きだった。
「……ああ。そうだな」
「亘理大尉の好きなものが、私であると覚えておくよ。恋人として、ね」
「……そうか」
短い言葉だったが、否定しなかった亘理に、森永は内心で歓喜した。
「来週にでも、一緒に指輪を買いに行こよ」
「――木曜日から出張だ」
「ああ、そうだったね」
そんなやりとりをし、二人は見つめ合う。幸せが、怖かった。