【十九】理由と目的
亘理を送り届けた森永は、車を発信させず、そのままマンションの前に停まっていた。バックミラーを見れば、遇津の人間らしき監視が何人か通行人に紛れて見える。森永は昨夜車で追っ手を巻いた。よって彼らは、亘理の家の前で待機するいたったのだろう。昨日の時点で自分の存在は、遇津および大貫中佐に露見しているだろうが、昨日の状況――薬と朝帰りでは、言い逃れは難しい。逃れる気も逃がす気も無かったが。
「単純に食事をしていただけでは、情報漏洩の証左にはならない」
腕を組み、座席に深く背を預けて、森永は考えた。質の良い駱駝色のコートは、触り心地が良い。手袋と帽子は、後部座席に置いてある。中に軍服を着ているのは、最初から、このまま軍本部に向かうつもりだったからだ。亘理を待って、彼を連れて。
「悔しがる大貫を見ても、気晴らしにもならないしなぁ」
細く息を吐きながら、今後の方策を思案する。昨日ホテルの前にいた理由、朝帰りが不自然ではない言い訳――これは、すぐに答えが出た。
「恋人を心配して、迎えに出かけていた。一夜を過ごして、朝、帰宅した」
一人頷く。誰も反論できないだろう。
玄関の鍵をかけ、気を取り直して仕事へ行くべく外へと出てきた亘理は、停まったままの森永の車を見て、小さく息を飲んだ。窓硝子が開き、笑顔の森永に手招きをされる。硬直しそうになる体を必死で制して、慌てて助手席の扉を開けた。
そこで――発進する前に、遇津からの監視がいる事と、恋人……の、フリをするという森永の計画を聞いた。
「……森永少佐」
「私が恋人役では、不満?」
「いいえ、そういうわけでは……」
「それに利点もある。恋人同士ならば、家に行き来してもおかしくはないでしょう? 堂々と私達は、密談できるようになるよ」
それは一理あると、亘理も思った。そうでなければ、普段は、特別顔を合わせる用事は無いからだ。
「もっと理由が必要であれば、君は、昨日どこに行っていたのか、誰といたのか、そう問われた時に、恋人の家だと回答可能になるよ。詳細を聞かれたら、プライベートな事柄につき黙秘するとして通せば良いしね」
森永が言いくるめる。俯いた亘理は、それが正しい事なのか否か、必死で考えた。だが、昨夜の情事が頭に浮かび、冷静に判断をする自信が無い。しかしたった一夜の事を、ここまで意識していると気どられたくはなくて、努めて冷静な表情を保とうとした。
「どうかな?」
「――わかりました」
「それは良かった。ああ、それと――ある意味今後、私達は共通の敵に戦う同士であるわけだから、軍の関係者の前でなければ、敬語じゃなくて構わないよ」
「そういうわけには――」
「昨日の夜は、敬語じゃなかったけど」
「っ」
「さて、行こうか」
冗談めかして笑った森永に、亘理は何も言えなかった。
「昨夜は、どこに帰ったんだね?」
いつもと同じ朝の風景だったが、大貫中佐の口から放たれた言葉は、いつもとは違った。亘理は、静かに上官を見る。この言葉では、帰宅しなかった事を知っているのがまる分かりだ。監視していたのを、自ら露見している。遇津との繋がりも匂わせている。
大貫中佐には、そのような自覚は全く無い。当然の事として聞いたに過ぎない。
不機嫌そうに左目だけ細くして、机の上で両手を組んでいる。
「――恋人が迎えに来てくれたため、その車で恋人の家に行きました。そこで過ごしました」
淡々と亘理は答えた。打ち合わせ通りの言葉である。
それを聞くと、大貫中佐が目を見開いた。
「なんだって?」
「――恋人の家におりました」
「こ、恋人……? 亘理大尉、まさか……森永少佐と付き合っているのかね?」
「プライベートな事柄ですので、お答えするつもりはございません」
考えていた――教えられた言葉を口にし、亘理は目を細くした。
すると大貫中佐が呆気にとられたような顔をした後、腕を組んで、左手の親指で唇をなでた。唖然とした様子で、何度も亘理と机の上の観葉植物を交互に見る。その後、大貫中佐は何も言わなかったので、一礼して亘理は退出した。
本当に、これで良かったのだろうか。
扉を閉め、亘理は俯く。ただ、肩の力は抜けた。確かに事前に森永と打ち合わせをしていなかったならば、回答に窮した自信がある。踵を返して歩きながら、亘理はゆっくりと瞬きをした。
その日の夜が更けてから、雪の中、亘理は外に出た。少し歩きながら、傘をさそうか悩み、空を見上げる。雪の合間に、月が輪郭を描き出した雲が見える。星は見えない。ゆっくりと走ってきた車が、横で停車したのはその時だった。昨日と今朝で、見慣れた森永の車だった。
「乗る?」
「……何か御用ですか?」
「恋人には優しくする主義なの」
「……」
「――誰が見ているか分からないから、それらしい演出をしておいた方が良いかと考えたんだけど。どう思う? 今後に備えても、ね」
「……」
俯いたまま小さく頷き、亘理は助手席の扉を開けた。その表情は硬い。
亘理の横顔を一瞥してから、森永が車を出した。
少しの間、沈黙が横たわる。先に口を開いたのは、森永だった。
「夕食はどうする予定?」
「……酒とつまみを」
「つまみはなに?」
夜はあまり食べないで、通話にばかり気を取られていたから、咄嗟に冷蔵庫の中身を亘理は思い出す事が出来なかった。言葉に詰まった彼を見て、森永が微笑する。
「オリーブの瓶とキッシュを、君を待っている間に買ったんだ。亘理大尉の分も。良かったら一緒にどうかな?」
「……」
「君の家の監視カメラを撤去するついでに」
その言葉に、亘理は断る理由を思いつかなかった。こうして二人で、亘理の家へと向かった。外には相変わらず遇津の監視が立っている。
「彼らは自分達が目立たないと誤解しているみたいだね」
滑稽だという風に笑いながら、森永が中に入る。扉を開けていた亘理は、何も答えずに閉めてから、施錠した。軍靴の紐を緩めて、中へと入り、亘理は森永を見た。森永が、キッシュなどの入った紙袋を差し出したからだ。ワインの瓶が見える。
「本当に頂いて宜しいのですか?」
「敬語じゃなくて良いと言わなかったかな?」
「……」
「勿論良いよ。私も食べるし飲むけれどね」
「――お車ですよね?」
「明日の朝には、酔いも醒めるよ」
「朝……?」
「私達は、何のためにここに来たんだったかな?」
「……」
「勿論、恋人同士らしき既成事実を――」
「……」
「――作るためではなくて、密談をするためじゃなかった?」
「っ」
我に返って亘理が硬直した。不真面目そうに口にしていた森永が、急に真面目な顔をしたものだから、自分の勘違いに羞恥を覚える。誘われているのかと誤解したのだ。亘理は受け取った紙袋を抱きしめるようにして、リビングダイニングの扉を開けた。テーブルの上に袋を置きながら、あからさまに視線を逸らす。
森永は手際良く監視カメラのそばへと歩み寄り、自然な動作で装置を外した。取り付ける時の苦労は並大抵のものでは無かっただろうと考えつつも、あっさりと手に取る。そして手袋を嵌めたままの手で、それを破壊した。その後は、以前も座った通りに、横長のソファの端に陣取る。
そこへ、亘理が簡素なロックグラスを二つと、ワイン、そしてつまみを持ってやってきた。狭いテーブルの空きスペースにそれらを置く。ワインには不似合いのグラスだが、この家には、他にはまともなグラスが無かった。この二つは、軍のイベントの景品である。
時計が夜の十一時半を指した。
「それで、どのようなお話ですか?」
「なにが?」
「……」
密談の内容を真面目に問おうとした亘理の隣で、キッシュを食べながら森永が笑顔で首を傾げる。その様子に、ワインを飲みながら、亘理が眉を顰めた。
「話があるんじゃ……?」
「まぁ色々とね。例えば君の妹さんの映像と通話を直に見てみたいというのもあれば、大貫中佐を潰す方法を君の観点から聞いてみたいというのもあるし――遇津のVRに関しても、君の口から詳細な状況を聞きたいとは思っているよ」
「……」
「ただね、私達の間には、まだ信頼関係が無い。個人的に話すのが、これで三度目に等しい私に、その状況で妹さんを見せろとは言いにくいし、仮にも上司の潰し方を聞くというのもね……遇津に関しても、君が現段階でどこまで話してくれるのか、まだ私のがわでも君を信用しきっているわけではないから何とも言えない」
「……では、どうすれば?」
「まずは親交を深めようかと考えてね。それには、一緒に食事をするというのは、悪くないと思うんだけど」
穏やかに笑った森永を見て、亘理は目を細めくした。つまみには手をつけず、ワインを呷る。それから断って煙草を銜えた。ふと思う――食事をして親交が深まるならば、自分と大貫中佐など今頃非常に親しいはずであると。しかしながら、そんな現実は無い。
そもそも信頼関係がなんなのか、亘理には分からない。
亘理は誰の事も、信頼などしてはいないのだ。
――にこにこと笑って対応しろという意味だろうか? そんな事を考えた。
「亘理大尉。私は、君のことをもっと知りたいんだ」
「たとえば、何をですか?」
「好きなもの、嫌いなもの、そうだな、食べ物、動物、植物、風景、音楽、絵画、なんでも構わないよ」
森永の言葉に、亘理は戸惑った。何も思いつかない。
記憶にある限り、もう何年も、聞かれた事は無かった。
亘理には、趣味もなにも無い。そもそも何かを楽しもうと思った覚えも、ここの所ところは無い。
「話す事が何も無いという顔をしているね」
「ええ」
「では、一つ一つ作ろうか」
「どういう意味です?」
「食事、動物園と自然公園の観光、旅行、コンサートと美術館のチケット。用意しておくよ、これから好きになればいい。私と一緒に出かけよう。その方が親交も深まるだろうしね」
悪戯っぽく笑った森永を見て、亘理は何も言えなかった。