【三十三】少しだけ、近づく
その日僕が帰宅すると、ピアノの音が響いてきた。立ち止まって顔を上げてから、あまりにも巧みな音色に呆然としつつ、僕は気配を殺してリビングへと向かった。M.ラヴェルの夜のガスパールというピアノ組曲だった。僕にはそもそも奏でる事が出来ない、とても難易度の高い曲である。
すると僅かに開いていた扉の向こうで、真面目な顔をして山縣が鍵盤を叩いていた。あまりもの迫力に、僕は気圧される。表現力が卓越していた。
僕だって幼少時からピアノを習っていたけれど、比べ物にならない技巧だというのがすぐにわかる。
山縣が弾き終わるまでの間、僕は立ち尽くしていた。
聞き入っていたのもあるが、山縣の存在感に飲み込まれていたというのが正しい。
すると演奏を終えてから、流すように山縣が、鋭い目を僕に向けた。
「なんで入ってこないんだ?」
「その……邪魔をしたくなくて」
「……へぇ」
山縣は興味がなさそうな顔で頷くと、立ち上がった。
僕はようやく一息ついて、リビングへと入った。
この日の夜は、山縣が作った中華料理で、いずれも美味だった。
シェフの料理だと聞いても、誰も疑わないだろう。
ここのところ山縣の方が帰宅が早い場合は、専ら山縣が料理を用意してくれる。
特に麻婆豆腐とエビチリが絶品だったし、僕はバンバンジーも気に入った。
僕は食後、リビングのテーブルに、ルーズリーフとタブレット端末を置いた。
そして数学の予習に取りかかる。
後期の頭にも、テストがあるからだ。
「うーん……」
僕は問題を見つめ、唸った。
数式はあっているはずなのだが、解答を見ると、僕の答えが間違っている。
シャープペンを片手に僕が悩んでいると、皿洗いを終えた様子の山縣がやってきた。僕は、皿洗いもやはりさせてはもらえない。ただ、山縣が資料の渉猟などで忙しい場合に限っては、僕がやっても許されている。
山縣は制服の首元のネクタイに触れながら、ルーズリーフを覗き込んできた。
「簡単すぎるだろう」
「……」
一応これは、本来は高三で習う問題だ。
僕達はまだ、高校二年生である。
目を伏せて、僕は思わず笑ってしまった。
僕だって全国二位だが、目の前にいるのは、完璧の権化である。
全国一位の山縣だ。
「ここが間違ってる」
山縣が呆れたような声を出した。
驚いて僕が目を開けると、僕のペンケースからボールペンを取り出した山縣が、さらさらと達筆な字で間違っている個所に注釈を入れた。そしてペンを指でくるりと回しながら、続けてルーズリーフの文字を追いかけた。
「あとこっちも間違いだな」
「あ、本当だ」
「それと、こちらもだ」
「! あ、ありがとう!」
「ここは――」
そのまま無表情で、山縣が僕に数学を教えてくれた。ふとした優しさに触れた気がして、僕は口元を綻ばせた。こうして僕は次第に集中し、無事に予習を終える事ができた。今日は少しだけ、ピアノや勉強を通して、山縣に近づくことが出来たような気がした。それがとても、嬉しい。