第六話 三年後
墓参りに行ってから、マスターは、まだバーシオンを開けていない。
気持ちの区切りが付いた事で、今後の事を考えると言い出した。バーシオンの奥にある部屋に住み着いていた。
常連客や今まで世話になった人には、詫びの手紙やメールを送った。
チャージ金を置いている客には、返金する旨を伝えている。
店に訪ねて来る者は居たが返金を求める者は居なかった。
「マスター!」
「閉店中だ。帰れ」
「今日は、別件」
「わかった。入れ」
マスターは、男を店に入れてから、扉を閉める。
「へぇ綺麗にはしているのだね。店は開けないの?」
「考えている。この仕事が好きだ・・・。それに・・・」
マスターは、カウンターの奥に張られている一枚の写真を見る。
三年前にマスターが貰った手紙が裏に張り付けられているのを知っているのは、ニヤニヤ笑っている男だけだ。
「それで?」
マスターは、男の前に氷と水が入ったグラスを置いた。
店を開けていない上に、目の前に座っている男にカクテルを出すつもりはない。そんな意思が感じられる行動だ。
「ん?」
「別件の話だ」
「うん。マスター。森沢さんは覚えている?」
「森沢さん?刑務官の?」
「そうそう。先月、定年退職が決まったのだけど、”安城幸宏に会いたい。会って、渡したい物がある”らしい。どうする?」
マスターは、意外な人物の名前を聞いて、それだけではなく”渡したい物”があると言われると、”会わなければならない”と考えた。
「会うのは大丈夫だ。その前に、いくつか確認をしたい」
「もちろん、僕が聞かされている範囲なら答えられるよ」
男は、マスターから出された水を一気に飲み干して、マスターにグラスを突き出すようにしながら宣言をする。
「そうだな。まず、森沢さんは、俺の事を何処で知った?」
「マスターの幼馴染に警察官が居るよね?君に興味を持てば、君たちの経歴くらいなら簡単に調べられるよ?」
「そうか・・・。次に、なんで、経由がお前だ?桜が俺に連絡して来ればいい。どうでもいい内容の連絡ばかり送ってこないで・・・」
「それは、僕に聞かれても解らない。幼馴染の警察官が、馬込さんにも繋がっているからじゃないの?」
「は?先生と?桜が?」
「うん。警察官の彼が最初ではなかったみたいだけどね」
「そうか・・・。克己か?」
「それは、僕には解らない。他には、聞きたいことはないの?」
「森沢さんが、俺に渡したい物ってなんだ?」
「知らない」
「森沢さんは、刑務官のままで退官したのか?」
「うん。何か所か転任したけど、最後まで刑務官だよ」
「そうか・・・。もう一度だけ聞くけど、”桜”経由なのだな?」
「そう聞いている。そうそう、森沢さんは、3年前に退官した、港町のお巡りさんの後輩だったようだよ」
「え?田辺さんの?」
「うーん。僕は、名前までは知らされていない。寂れた港町の交番に勤務していた人らしいよ」
「そうか・・・。森沢さんが、刑務官になったのは、何年だ?」
「ゴメン。それは、言えない。でも、三年前に退官したお巡りさんが、お巡りさんになった年の翌年だったようだよ」
「っ。その前は、刑事課か?」
「うん。そう聞いている」
「最後に担当した事件は?」
「僕は、聞かされていない」
「わかった。森沢さんの予定を聞いてくれ、会いに行く」
「ありがとう。マスターなら、そう言ってくれると思っていた。森沢さんも日時は、マスターに合わせられるらしいよ。場所は、新宿のエジンバラでお願い」
「わかった。珈琲貴族だな。俺も、いつでもいい。珈琲貴族だと、夜の方がいいだろう?」
「そうだね。22時くらいでいい?」
「あぁ」
「日は、改めて連絡をするね」
「わかった」
「それで、マスター。僕、喉が渇いているのだけど・・・」
「水ならあるぞ?」
「え?後ろに並んでいるのは?」
「酒だが?」
「何か作ってよ?」
「面倒だ。用事が終わったのなら帰れ」
男は、マスターから”帰れ”と言われてから、グダグダと30分くらい粘った。
マスターの態度が変わらないことから、今日は無理だと考えて、帰る事にした。
翌日、マスターのメールに決定した日時と場所の情報が送られてきた。
マスターは、”OK”とだけ書いて返した。もちろん、男のスマホはマスターからのメールをSPAMだと判定していたが、アドレスをホワイトリストに登録してあったので、難を逃れた。
指定された場所に、マスターの姿がある。
服装は、墓参りに行った時と同じだ。人に会うのに適した服装ではないが、マスターが持っている数少ない私服の中でもまともだと言える恰好だ。
約束の時間よりも、30分以上も早い時間だ。注文を済ませて、待ち人の到着を待っている。
話の内容が解らなかったので、奥に座って待っていることにした。
待ち合わせ時間の20分前に、メールが入った。
”マスターの事だから、1時間前とか、30分前とかに、到着しているでしょ?今日、僕は行かないからよろしくね。店の奥に居るでしょ?森沢さんにも伝えてあるよ。あと、墓参りに行った時のマスターの服装をつたえてあるからね。よろしく”
マスターがメールを読んで、”もう、来るな”とだけ書いて送信した。
”照れなくていいよ”
マスターが返事を書こうか迷っている時に、待ち人が姿を現した。
マスターは、背筋を伸ばして立ち上がった。
「森沢け」「安城くん。久しぶりです。座ってください。それから、今の私には、役職はありませんよ」
「はい。失礼しました」
マスターは、差し出された手を握ってから、椅子に座った。
森沢も、マスターの前に腰を降ろして、店員を呼んで、2杯の珈琲を注文する。
「森沢さん」
「君は、相変わらず真面目ですね」
「いえ・・・」
「今日は、無理を言ってしまって申し訳ない」
「大丈夫です」
珈琲が運ばれて来るまで、森沢が最近の出来事を話題にして、マスターは、それに相槌を打つような会話が続いた。
運ばれてきた珈琲の湯気が消えるまで、他愛もない会話が続いた。
「安城君。今日、君に来てもらったのは・・・」
「はい」
「井原さんの遺品を君に渡す為です」
「え?遺品?なんで?」
「”なんで”の理由は、話せません。申し訳ない」
「いえ、それは・・・。知りたいとは思います。でも、何か、話せない。俺には、聞かせられない内容なのでしょう」
「ははは。安城君。ズルくなりましたね。そんな言い方をされたら、教えたくなってしまいますよ」
「・・・。もうしわけありません。最近の・・・。言い訳ですね」
「いや、いや、私は嬉しいですよ。そうですか。森下君にしても、田辺先輩にしても、君の周りには・・・。今は、そんな事を言っても、しょうがないですね」
「いえ、森沢さんのおっしゃる通りです。俺が短慮で愚かだったのです」
「それが解っていれば・・・。違いますね。井原さんの最後は?」
「はい」
「そうですね。その後の話は?」
マスターは首を横に振る。
「そこからですね。少しだけ、長い話ですが、良いですか?」
「はい」
森沢は目を閉じて、当時の様子を思い出すように、語り始めた。
マスターも話を聞いて、違和感はあるが、当時を思い出すように、記憶の箱を開ける。
1時間くらいの独白が終わりに近づいたとマスターは感じた。
「安城君。私は、婿養子に入る前の苗字を”飯塚”と言います」
「え?それは、聡子の・・・」
「そうです。私の父の姉の子供が結婚したのが、港町に住む船大工を営んでいた”井原”でした」
「え?」
「伯母上の孫娘は、小さいころは船大工の現場によく来ていましたよ」
「・・・」
「その子が、よく遊んでいた部屋があったのですよ」
「・・・」
「
「・・・」
「仕事を辞めたので、趣味の釣りでもしようと考えましてね。釣りが楽しめそうな場所なのでセカンドハウスにしようと、久しぶりに
「・・・。森沢さん。俺」
「謝らないでください。伯母上の孫娘が選んだ道です」
「・・・。はい」
「とある人物にあてた物が残っていました。それを、君に引き取って欲しいです」
「え?」
森沢は持ってきていた書類ケースをそのままマスターに渡す。
マスターは渡された書類ケースの中身を見て、驚きの表情で森沢を見返す。
「内容は、確認させてもらいました。いいですよね」
「はい。もちろん。森沢さん。俺・・・」
「君が引き継ぐべき物です。書類や手続きは済ませてあります。今、君が何をしているのか教えてもらいました。今は・・・。必要な事なのでしょう。その為に、使って欲しい。聡子も、それを望むでしょう。私に、私たちに、聡子に、”謝る”気持ちがあるのなら、受け取りなさい」
「はい。森沢さん。聡子の気持ちを受け取ります」
書類は、
そして、”安城幸宏様へ”と書かれた手紙だ。
逃げるような行為を行う自分を許して欲しいという言葉と、罪は自分にある。全部、自分がやった事だという告白。
そして、最後に二つの約束が守れなくてゴメンと書かれていた。
マスターは、声を出さないように自分の腕を噛みながら、手紙から目を離さない。腕からは、血に混じって、涙がテーブルを濡らすように垂れている。
森沢は、スマホを取り出して、自分をこの場に向かわせた男に連絡をする。森沢は、過去の清算を行うために来た。マスターとの未来は、森沢には存在しない。
ここからは、マスターの未来に関わる者が居る場所だと・・・。