契約成立
どうして罪悪感を自分が持たないといけないのか。
正式に求婚されたわけでもなく、ただ話の流れで結婚話が出ただけなのに、断られたように落ち込まれても困るとアリッサは思った。
これは早々に話を切り替えなければならない。
「それから…」
「まだあるのか?」
「はい。この金額、一ヶ月の金額ですか?」
「いや、二週間だ」
それもまたアリッサをぎょっとさせた。
そこに書かれた金額はヴェスタ家の使用人の半年分の給料に匹敵していた。それも執事長クラスのだ。
決してヴェスタ家の払う金額が安かったわけではない。準男爵レベルでは平均的な金額だ。
「だったら多すぎます。この半分位を一ヶ月にしてください」
「しかしそれは今までも払っていた金額だ」
だとしたら、前の教育係は給料泥棒も同じだ。
「それでも多いくらいです。離れの改装費用も、そちら持ちだと言いましたが、それを差し引いても割にあいません」
「いくらで君を雇うかは、雇用主の私が決めることだ」
「なら署名できません。こんな大金を頂くに値する仕事は私には無理ですから、この話はなかった「わかった。君の言うとおりにしよう」」
侯爵相手に不遜だと思われるだろうが、納得できないことはできない。
「ありがとうございます」
「まったく、頑固だな。ここまでと強情とは…」
「お気に召さなければ、今からでもやめていただいても結構です。まだ契約も済んでいませんし」
「そんなことは言っていない。ここまで女性と交渉したのは初めてだ。新鮮だったよ」
考えを改めてくるかと思ったが、逆に面白がられてしまった。
「とにかく、契約期間と契約金額については見直しを求めます」
「わかった。それで作り直そう」
「ありがとうございます」
エルネストはアリッサの手から契約書を受け取った。
そして直ぐさまその場で、アリッサが言った部分の条項を書き直した。
「これでいいか?」
「はい。要望を汲んで頂きありがとうございます」
目を通した後にサインをする。
「正式には弁護士に承認をもらい、こちらで保管するが、同じものをもう一通作って渡そう」
「ありがとうございます。それでは私はこれで失礼します」
「待ってくれ」
引き払おうとしたアリッサを、エルネストが引き留めた。
「まだ何か?」
「いや、その、仕事はいつから始められるかと・・」
「いつから・・そうですね。いつから始めたらよろしいですか?」
「こちらはいつからでも」
「ですが、改修が終わらないとベルトラン様達も引っ越しては来られませんし、私も毎日通うには限界があります」
「それはそうだね。しかしドロシーもこのまま放っておくのも・・では、ドロシーをそちらに通わせるのはどうだろうか? 先にベルトラン卿の了承は必要だが」
「通い・・ですか。どれくらいの頻度で?」
「毎日は私も無理なので三日おきにではどうだろう」
「えっと、なぜ『私も』なのですか? 通ってくるのはドロシー様です。一人が心配なら使用人の誰かに付き添ってもらえばいいかと思います」
「そういうわけにはいかない。私は彼女の後見人だ。あの子が自分を邪魔者だと思い込んだもの、私が忙しさを理由に、あの子のことを他人任せにしていたからだ。私の出来ることは多少無理をしてでもやってやりたい」
八歳の令嬢一人で馬車には乗せられないのはわかる。だから使用人が付き添うのが一般的だ。もちろん成人していれば家族でもいいわけだが、忙しい侯爵が付きそう必要はない。
しかし、彼の気持ちもわかる。
アリッサも、今日のように泣くドロシーを二度と見たくないと思う。
「エルネスト様のお気持ち、よくわかります。ですが、あなたも大切なお身内を亡くしたのは同じ、根を詰めすぎたりなさらないように」
それしか言いようがなかった。
「ありがとう。これからもよろしく」
エルネストは立ち上がり、彼女に手を差し出す。
握手を求められているのだとわかり、アリッサも手を差し出す。
大きくてがっしりとしていて、剣を握っているせいで指や掌にタコができている。
「!!!!」
しかし、手を引こうとしたアリッサの手を、彼はすぐに離さず、そのまま引き寄せて手の甲にキスを落とした。
「エ、エルネスト様!」
貴婦人に対して紳士がする行為であって、平民の使用人にすることではない。
驚いて彼女の声が裏返った。
「お、おやめください、雇い人にすることでは」
「私は君を、アリッサと呼ぶことに異論はないが、君をただの使用人として扱うつもりはない」
「ど、どういうことですか」
「私の中では、君は立派な貴婦人だと言うことだ。だからそのように対応させてもらう」
「それは困ります。他の方たちと同じようにしていただかないと」
「私が君にどう接しようと、この契約に影響はないはずだ」
「そ、それは…でも…」
「それに、貴婦人がどう扱われるべきか、ドロシーには側で実際に手本がいる。それも教育のためには必要なことだと思わないか?」
「…………は、離してください」
それだけ言うのが精一杯だった。